後窯の面々
前回の続きですが、瀬戸茶入の窯分けは、破風窯の次は、いよいよ最後の後窯の代になります。 真中古から破風窯までを本窯と総称するのに対して、後窯というわけですが、これ「のちかま」と発音するわけで、「あとかま」と読むと、陶器を焼く時の上絵付の技法を指すという、全く違う意味になりますから、初心の方は注意が必要です。さて、破風窯までは、伝承上は同一窯、同一作で焼かれたことになっていますが、後窯は、複数の作者、複数の窯名称で分類されているもので、要するに利休時代から後という認識のものを集め、グループにしたわけで、お互いの関連は全くありません。当然、作品も共通点はなく、寄せ集め、バラバラの感じです。作者個人の伝記もすこぶる曖昧で、しかも、中には瀬戸ではなく、京都で焼かれたというものも多く含まれます。これらは京瀬戸とも呼ばれ、厳密には瀬戸焼じゃない、京焼ということになるのでしょうが、後窯に包括されているので、なんとなく瀬戸の仲間で扱われたままです。大正名器鑑には、焼物として、利休窯、織部窯、鳴海窯が、作家名として、正意、万右衛門、新兵衛、宗伯、吉兵衛、茂右衛門、源十郎が載っています。利休窯とは、窯の名ではなく、利休瀬戸ともいい、利休が発注、指図して焼かせたと伝えるもので、瀬戸の何処の窯で焼かせたかも不明で、瀬戸でなく京都の焼物師に焼かせたという説もあれば、そもそも利休より後の江戸初期のものとする学者も今はいるようです。箆目が施されているのが特徴で、これが利休が削ったんだと言われ、そうなると利休のお手造りということになるのですが、どんなものでしょう。「地蔵」という銘の中興名物になっている品や「谷川」という小堀遠州の銘で所持のものなど数点が知られます。織部窯も同様で、古田織部の指図とされ、織部焼とも言いますが、茶入は、よく知られる茶碗類との共通点は、あまり感じられません。「澪標(みおつくし)」という中興名物があります。鳴海窯も、鳴海織部だのの呼称で知られる、織部が指導したという愛知県鳴海の窯で、茶入は中興名物「餓鬼腹」が有名です。 正意は、京四条室町下ルで、焼物をしたとされます。堺の出身で堀氏、医師だったとも言いますから、本当ならアマチュア作家ということになります。形から来たのでしょうが、禅宗の達磨に因んだ銘の「初祖」「面壁」「岡辺」などの中興名物があります。 万右衛門も京都の人とされます。最初は唐物写しを作っていたが、自分の創作形で、首が立ち上がった、やや平たい独特な形を作り、それを佐川田喜六が買い取り、小堀遠州と江月和尚に見せたところ面白がり「秋の拾い物だから」と「落穂」という銘を付けた。この茶入は失われたようですが、万右衛門の作は以降「落穂手」とも称されるようになり「田面」「鳥羽田」「振鼓」などの中興名物があります。 新兵衛も京の人で、諸説ありますが、三条瀬戸物町に住み、何代かあって、二代が小堀遠州から注文を受けて茶入を焼き、子孫も唐物屋をやりながら陶器を焼いたとか、製陶法は瀬戸で学んだとか、有来という姓だった、信楽や備前の土を取り寄せ作陶したなどと種々伝えますが、真偽は不明です。「弁舌」「山雀(やまがら)」「空也」「侘助」など主に瓢形の中興名物があります。 宗伯は武蔵川越の人で、京に上り作陶。茶入より茶碗を多く作り、これが伯庵茶碗だという俗説もあるようです。茂右衛門は家業が焼物師で、瀬戸に移り焼いた。吉兵衛は京の佛光寺烏丸で、古瀬戸の贋物を焼いて上手だった。源十郎は、姓を竹屋、伏見で作陶し、小堀遠州に出入りして上手だった、別説に飛騨で作陶を始めた元祖だったとも言います。宗伯以下は、大正名器鏡には、一点づつしか作品は掲載がなく、中興名物になっている物もありません。 纏まらない記述になりましたが、後窯そのものが纏まっていないのでご容赦下さい。要するに江戸前期の、昔の感覚では比較的新しいものを、一括したということなのでしょうか。 萍亭主