唐物茶入が貴重とされるのは前述の通りですが、国産品の和物茶入も名物は多数あり、名物でなくとも、なかなかやかましいものです。

 和物茶入を最初に分類整理したのは、やはり松平不昧です。不昧は、和物茶入を、まず瀬戸とその他の地方の窯にわけ、後者を「国焼」と呼びました。瀬戸だけ特別待遇したわけです。唐物茶入を最初に写し、その後も生産量の多かった瀬戸を特別視したのは当然なのでしょう。不昧は瀬戸茶入を制作年代別に分類し、更に形状で分類しました。これが、いわゆる「窯分け」です。不昧の分類法は、ご承知の向きも多いかとは思いますが、列挙して見ると「古瀬戸、春慶、真中古、金華山、破風窯、後窯」の順序になります。不昧説では、古瀬戸は、元祖初代藤四郎景正が、帰朝後に瀬戸の土で焼いたもの、春慶は、藤四郎が晩年出家して、春慶と名乗ってから焼いたものだとします。そして真中古は、初代の息子藤四郎景連が、製法を受け継ぎ、文永年間(1264〜75)以降に作った品だと。鎌倉時代、北条時宗が執権に就任する頃です。金華山は、三代目を継いだ藤四郎景国が、鎌倉時代後期の永仁年間(1293〜99)以降に焼いたものであり、破風窯は、四代目藤四郎政連が、鎌倉幕府が滅亡後の建武年間(1334〜37)以降に焼いた品とします。真中古から破風窯までをひっくるめて本窯とも言ったらしい。後窯は、利休の時代(16世紀後半)以降に、いろいろな陶工により作られたとします。勿論、不昧が創作したわけではなく、それまでの種々の伝承通説を整理して建てた論ですが、この不昧の命名は長く用いられました。今でも美術館などの展示でも、「瀬戸真中古茶入 何々手 銘〇〇」などのように表示されたりしますが、分類はともあれ、その制作年代、作者の考証については、早くから異論がありました。幕末の草間直方という考証家は、初代藤四郎から百八十年くらいは瀬戸茶入は廃絶して、室町時代の文明年間(1468〜87)の頃に、初代藤四郎の子孫と称する陶工が復興した、中興したわけで、本当は真中興と書くのを、誤って真中古にしたのだ、金華山はその子の時代の一族が作り、破風窯は孫の代の戦国時代の作だと、グッと時代を引き下げたわけです。高橋箒庵も大正名器鑑の編纂で、この説に賛同しています。ただ二人とも古瀬戸については、言及していません。これだけが鎌倉前期でいいのかとも思うのですが、突っ込んで行くと陶祖初代藤四郎の伝承や実在も論義になるので、避けたのでしょうか。茶入が賞翫され、価値が高まったのは室町東山時代以降で、唐物茶入だけでは足りなくなり、瀬戸の茶入が大量に生産されるようになったということは、昭和50年代以降は常識化しました。また、窯跡の発掘などから、14世紀に瀬戸で施釉茶入が作られていた可能性もあるけれど、でも伝世の茶入は大半15世紀以降と考えられているようです。しかし、辞典類など、真中古は室町時代、破風窯は戦国時代と明記しても、古瀬戸に関しては歯切れが悪いようです。通説、伝承というものの重さでしょうか。陶磁器研究家の中には、「利休窯というのは、利休より後の江戸時代初期の制作ではないか」とか「真中古以降の制作年代の順序は間違っている」というような論議もあるらしいのですが、私のような素人があまり首を突っ込まない方が無難のようです。続きはまた次回に。

   萍亭主