前回の続きですか、松平不昧が言い出して規定した中興名物、そのクラスの瀬戸茶入は、ほぼ全てが、小堀遠州に関係するものです。
要するに、小堀遠州のメガネに適った、美意識が認めた茶入が、中興名物になったわけです。中興名物の肩書を持たなくても、大正名器鑑に収録されているような、それ以外でも、名物視される瀬戸茶入も、遠州が関係しているものが大半です。遠州が所持した、遠州が銘を付けた、遠州が箱の字を書いた、遠州が見出した、と、何かにつけて名前が出て来る。表立って遠州が関係していないものは、土屋家など名だたる数寄者大名の所有であるとかの伝来といってもいいでしょう。学者によっては「中興名物とは小堀遠州が選定した物を指す」とはっきり決める人もいて、少なくとも遠州の時代に価値は定まっていたと言えます。つまり、「この茶入は良い茶入だ」と遠州が言えば、たちまち名物になったわけで、しかもその価値は、年代を経ても変わる事なく、近代になると一層評価が高まり、茶の湯世界の至宝として扱われる。凄いことではあります。江戸初期までの茶会には、唐物茶入が主に使用され、たまに古瀬戸が使われるのが通常だったのが、江戸前期に入って、和物茶入が人気が出て来て、茶会でどんどん使われるようになる。それは流通事情の面もあるでしょうが、唐物の端正さ、古瀬戸の豪快さに比べて、真中古以降の品は、種々の自由な器形を持ち、のびやかさがそれぞれにあって、遠州の目指す「綺麗寂び」の茶の湯を体現するのに相応しく、人気が出た。その方向に、間違いなく器を選び、人を納得させた遠州の力量、名声は凄いもんです。近代数寄者の茶の湯の世界では。瀬戸茶入の人気は非常に高まり、争奪戦状態になり、価値は高騰します。ところで、こんなに沢山の茶入を、遠州は、いったいどうやって見出したのでしょう? まだ茶道具商が、そんなに勢いがある時代ではないと思うのですが、やはり道具屋が持って来た? 窯元で見つける? 公務で各地を巡る隙に民間で探す? 壺狩をしたという伝承もないので、無茶な収集はしなかったと思いますが、さっぱりわからない。一番想像出来るのは、高名な茶人であり、そのお墨付きを貰えば確かなので、我が家の茶入を見てくださいと持ち込む人が多かった、その中で特にいいものは、遠州が財力と権威で買い上げた。遠州は茶器購入に金を使い過ぎて、財政が苦しくなり、公金を流用して、懇意の老中たちが大ごとにならぬよう、それを埋めるのに苦労したという噂もあるくらいですから、買い集めたことは確かでしょう。話は違いますが、唐物茶入は、利休時代くらいまでに、出世するものは、皆、大名物になっていますが、少数の中興名物があります。遠州所持の吹上文琳、唐大海などがそれです。これは、どこかに埋もれていたのを、経緯は分かりませんが、遠州が見出し、名物に仕立てたわけです。ついでですが、唐物の中興名物には、岩城文琳、木下丸壺などあって、遠州と同時期の伊達政宗や木下長嘯子の所有で、これも遠州がなんらかの関わりがあったのでしょう。もし、吹上文琳を遠州が見出さず、埋もれっぱなしだったら、どうなったか。とっくに破損したか、案外、世間の片隅に転がったまま、つまらぬ器とされているか、想像して見ると面白い。唐物に限らず、遠州が選定しなかった瀬戸茶入も沢山あったでしょうが、遠州ほどの権威に巡り会わないと、価値の上がらぬまま消滅してしまうものもあったでしょう。器の運命というのもあるもんだろうと思います。
萍亭主