燕庵から須弥蔵へ
前回の続きですが、藪内家の見学は、やっと燕庵の前まで辿り着きました。 燕庵の躙口近くには、手水鉢があります。文覚上人の五輪等の一部を利用したものだそうで、四角い石に開けられた丸い水口が、非常に大きく、ゆったりした感じのものです。その向こうに、これが本歌だという、織部灯籠が鎮座しています。六角も柱が特徴で、台座がなく、地中に柱を埋めた形式ですが、その部分は植え込みで確認出来ません。茅葺の燕庵は、素敵な外見で、その茅葺の厚さは、会津で見た麟閣のそれより厚みがあるようにも思います。実は、近代、二十年ほど前まで、この屋根はトタン屋根で上から保護していて、二重になり、茅葺は見えなかったそうです。そう言えば、昔のここの写真は、そうであったような気が。覆っていた理由は、今は公園の北隣に銭湯があり、その煙突から飛び火して火災になるのを恐れて、そうしていたそうです。銭湯が廃業したので、二十年前に外して、茅を葺き替え、四年前にも葺き替えをしたそうですが、「正直、覆ったままの方が楽だった。葺き替えには千五百万くらいかかるので、文化庁の補助があると言っても大変で」というお話でした。実際、維持は大変だろうとお察しします。燕庵の写は、幾つか拝見しているので、躙口から覗かせて頂いた内部は、珍しいという印象はありませんが、やはり、本歌ともなると貫禄があるように感じます。床脇と点前座との間の壁の腰張りが、かなり高く貼ってあるように感じました。相伴席は茣蓙が敷いてあるのを確認。刀掛けが躙口の上のかなり高いところにあり、そのため刀掛け石も、結構大きく高い。私は生まれて初めて、刀掛け石に登り、刀を置く動作を体験してみました。そもそも燕庵という名の由来は、点前座と相伴席が、対象で翼のように見え、突き出した客座の部分を頭に見立てて、燕の格好を連想するからだという俗説があるが、燕には、寛ぐという意味があって、おそらくそれではないかとのこと。屋根の切妻に掛かる燕庵の額は模刻だけれども、しまわれている本歌は、茶祖珠光の筆で、侘茶の正統を伝えるものといいます。この茶室が、古田織部から、妹婿の藪内剣仲に贈られたのは有名な話ですが、織部の所有の頃は、この名は使われておらず、そういう意味では、よく言う「織部好み燕庵」という表現は正確ではないというお話。 さて、燕庵の風炉先窓の前を通って、裏手から次の露地に入ると、茶室須弥蔵の南側横に出ます。須弥蔵は、外壁も中壁も朱色の二畳台目向切の変わった茶室です。5代家元竹心が西本願寺門主の依頼で好み、幕末に寺から寄贈された席。躙口だけで、貴人口はありませんが、南面に連子窓の他に、かなり大きく細長の二枚障子があり、東面には、風炉先窓の他にやや高い場所に円窓があって、明るい感じです。中央にある三尺幅の下座床は、奥行きがかなり浅く、左右両方に同じような床柱があり、落とし掛けが省略されて壁の塗り回しになっており、その意匠も直線ではなく、ややアーチ型で、なんとなく中国ぽい。当時流行していた文人趣味を取り入れているのだという説明が納得出来ます。茶道口は、両開きの反故襖で、点前座は台目というより、一畳の後方四分の一を斜めに茶道口の方へ切り取った畳で、そこの斜めになった壁の下部に、道庫が設けられているのが変わっています。須弥蔵の躙口から、東方に戻れば、先ほどの広間緝熈堂の露地になります。先刻、この露地から、雲脚の露地に入ったのですが、その経路とは別に、この露地には腰掛のある中露地に通じる道があり、屋根付きの露地門(梅見門)があります。つまり、正式に須弥蔵に行く時は、このルートになるのでしょう。露地内には井戸もあり、近代までは使用していたが、電車の工事などで水脈が絶たれ、使用不能になったそうです。ともあれ、出発地点の緝熈堂に戻りました。続きは次回に。 萍亭主