石州の茶碗
茶の湯文化学会東京例会の2番目の研究発表は、根津美術館の学芸員下村奈緒子先生の「石州の茶碗と高原焼・浅草焼」でした。 なんでも、根津で先日開催の片桐石州展では、種々の事情で、茶碗が一点も展示出来なかったのだそうです。確かに、帰途にカタログを購めて見たら、石州関連の茶道具五十点弱の展示に、茶碗だけがありません。そこで今回、話だけでもということらしい。アットランダムにお話を紹介すると(聞き間違えがあればご容赦)、まず、石州の「侘びの文」や「一畳半の秘事」に書かれたり、先行研究でも取り上げているように、赤楽茶碗を重要視しているが、石州が実際に使用した例は、案外少ない事。石州の箱書の茶碗は、国宝「卯花墻」を代表に、結構沢山あって、現在も茶会でよく見かけたりするが、千家系と違い、花押などなく、銘などの字だけなので、極めでもついていないと、なかなか難しい事。石州が使用した茶碗を茶会記から調べると、20回以上の使用歴は、瀬戸、井戸、色変、黒高麗、聚楽黒といったところで、瀬戸は卯花墻であろう、現在の研究では美濃で焼かれたと決定しているが、当時は瀬戸産と認識されていたからという事、また井戸は、現在行方不明の石州井戸という品であろう。黒高麗は、松浦家の入札に出た石州所持という品(現在行方不明)だろう、聚楽黒は長次郎と見て間違いないという事。それから、相国寺の鳳林和尚の日記に「石州から茶会の席で高麗茶碗を贈られた」という記述があり、現在も相国寺に由来を書いた箱に納められた茶碗が残る、だがそれは、中国龍泉窯の青磁茶碗で、当時はこれを高麗産と認識していたのがわかる。この茶碗は是非展示したかったのだが、相国寺展(東京芸大でやっていました)と重なるので、貸して貰えなかったという事。それから、石州の手作り茶碗としては、奈良の慈光院に、花押を彫り込んだ赤楽がある事。そんなお話でした。 さて、高原焼・浅草焼は、片桐石州が愛好し、幕府に推挙した茶碗窯とされます。実は、これに関しては、当ブログ2022年6月21日のブログで書いておりますので、そちらをお読み頂ければと思います。そこにも書きましたが、高原焼の来歴については諸説あり、定説はないようです。下村先生のお説も、ほぼこれと同じです。ただ、浅草焼は高原焼の異名とされますが、高原焼の窯場と別に、同時期に浅草焼の窯があったという説を紹介され、また、高原焼の由緒についての町方書き上げに、拝領した一町四方の地所に五間と二間半の窯場があったが「天明六年の出水(洪水)の砌(折に)、破却仕り、その後は上方表にて相整へ候」、つまり京阪地方で焼かせた、或いは仕入れた品を納入したということですが、この話は私は初めて知りました。下村先生の話では、石州の茶会記では、浅草焼は二回使われているそうで、また、別の会記で「石州が高原焼の茶碗を持参した」という記述があることも初めて知りました。ちなみに、高原焼の遺品は、前にブログに書いたように、とても少ないのですけれど、滴翠美術館には、幾つかのコレクションがあるそうです。 なんとなく小難しい話が続いてしまいましたが、茶の湯文化学会の先生方のお話を紹介すると、どうもこうなってしまうようで。 萍亭主