前回の続きですが、藪内家の見学は、緝熈堂を出て、露地に降ります。幸いなことに小雨もやみ、傘無しで歩けます。

 緝熈堂の露地から、左先の次の露地にに入り、左側(東側)に、小間の雲脚の貴人口が見え、その先、左に曲がると広い土間になっています、土間の左手が、今は寄付きに専ら使われる、六畳の談古堂の上り口になっています。つまり、我々は緝熈堂で茶会が行われた場合の逆コースを来たんだと言えます。談古堂は、土間から通しの船底の化粧屋根裏天井の侘びた席で、床の間もなく、土間から正面の壁の東寄り部分に、上部に煤竹を一本入れて、軸を下げるようにし、その下部分だけ、壁の腰張りもなく、最も簡素な壁床形式になっています。東側に脇床風な、六尺幅の棚があり、後ろの障子が外光を入れています。簡素極まりないのですが、すっきりといい感じに見えます。談古堂から半間の廊下を隔てて、先ほどの雲脚に通じる筈ですが、我々は談古堂には上がらず、土間からを逆戻りして、出た先の雲脚の躙口から、中を拝見。ここは二畳台目向切りで、点前座の炉の先に鱗板(三角の板)を入れ、その斜めの壁を壁床にしているのが特徴的です。点前座の上部と炉の先に壁を塗り回し、点前座と床が、洞床の中にあるように見せています。塗り壁の上部に、瓢形の板に「雲脚」と彫ったのが、利休から贈られたという有名なものですが、今掛かっているのは模造で、本歌はお蔵の中だそうです。雲脚の貴人口は明治以降の地形の変動のために、露地より高い位置となってしまい、実際の出入りが不可能というのは、実見すると納得出来ます。この露地には、北野白太夫と名付けられた火袋の六角形の灯籠や、八坂の塔の礎石という手水鉢があり、古色蒼然としたものでした。この露地が、燕庵にとっては外露地になるわけで、躙口から飛び石伝いに、正面(緝熈堂から見て右側)の壁の戸口を潜ると腰掛です。入ってすぐ左の壁には、大きな露地笠が掛けられ、その先が貴人用、入った右側に相伴用という織部好みの割腰掛です。貴人座は想像以上に広く、一人ではゆったりしすぎ。相伴席との間も、予想より離れていて、相伴席も長く大きい。ここが燕庵の中露地になるわけで、足利義政から先祖に下賜されたという「雪の朝」という灯籠や、袖摺りの松などの名物があります。中でも有名な、利休と小袖三枚で交換したという、三つ小袖石という踏石は、予想よりはるかに大きく、驚嘆しました。貴人腰掛の左側先に、砂雪隠があり、私にとっては、金沢で見て以来、二度目の拝見。下腹雪隠は相伴席の裏に設けられていますが、閉まっていて覗けませんでした。内露地との境の猿戸のところに、利休の子の少庵から贈られたという高低二段になった亭主石があり、客を迎え付ける時、貴人などの客の時は下の段に立ち、門弟などの客には上段に立って迎えるという説明を聞き、内露地に入ります。入るとすぐ、織部好みの延段があります。左側に長い一本の石、右側に幾つもの丸石を一列に敷き並べ、左右非対象にした延段(踏石)で、これも予想よりずっと細く、一本の石の長さも予想よりずっと長いものでした。この延段の先が、反転するように飛び石が打たれ、茅葺屋根の燕庵の前に達します。外露地、中露地、内露地と、それぞれ、そうめちゃくちゃ広いわけでもありませんが、ゆとりも感じられると共に締まった感じもする、いかにも世間から離れた塵外のの境地に見えます。ことに内露地は、竹林などもあるせいか、ちょっと里山に入ったような気分もして、最高でした。長くなったので、続きは次回に。

  萍亭主