前回の続きですが、江戸城に登城した大名は、坊主衆の世話にならないと、身動きがとれないわけですから、坊主衆を大切にし手厚く扱いました。
「家頼み」「役頼み」などという言葉があって、大名が代々、特定の坊主の家を御出入りにして、家同士の付き合いを保ったり、奏者番などの役職についた折、その役に詳しい坊主とよしみを結んだりするのは、当たり前のことでした。大名は、坊主に金品や、四季の衣類(いわゆるお仕着せですね。坊主の礼装は、裃ではなく黒系の無地の十徳風の羽織)を贈り、坊主の方は、玄関に出迎える時、贈られた服を着て出迎えるのだそうで、出入りの多い者は、着替えたりする必要があったとも伝えます。玄関に出迎えるのは表坊主の役目ですが、谷村先生の説では、御数寄屋坊主も出迎えに出る例もあるそうです。
坊主の俸禄は安いもので、「天保武鑑」によると、御数寄屋坊主も表坊主も、組頭で四十俵二人扶持、平の坊主だと半分の二十俵二人扶持でした。二十俵二人扶持ということは、現米で十石六斗、天保後期の幕府が札差などに提示する公定価格が、米一石が金一両少々だったといいますから、年収はざっと十二両弱、物価の比較は難しいですが、かなり貧乏暮らしです。ちなみに、今の米の値段で、仮に5キロ4000円とし、一升が1500グラムで換算すると、127万円程にしかなりません。しかし、実際は、大名からの付け届けなどで、かなり楽だったと推測されます。
御数寄屋坊主は、お城勤務は、一日おきなので、非番の日は、門弟に稽古つける副収入もあったわけです。大名本人、その家臣や茶道役、旗本などに教え、町人も江戸町年寄などの高級町人の門弟もあったようです。坊主が町人を教えるようになったのは、五代将軍綱吉の頃からだという説を何かで読んだ記憶があります。大名家での初釜などの茶会や、接待、儀式を手伝ったり指導したりなどもした。谷村先生の説では、表坊主でも茶の湯に堪能な者もいたちされます。しかし、大名が一番頼りにしたのは、情報源としての坊主でしょう。幕閣の情報、他の大名家の情報、政治や人事、経済、流行や嗜好、あるいは婚姻や養子など家に関わる情報等、あらゆる情報は、他の大名家とのバランスを取りつつ、幕府と緊張感を持って対応しなければならない大名家にとって、最も貴重なものです。その大きな情報源が、出入りの坊主衆と、自分の家来の中では、江戸留守居役でした。
坊主衆が、茶の湯の面でも尊重されたというのは、松平不昧が、自分に皆伝を授けてくれた坊主の伊佐幸琢を大変丁重に扱ったとか、井伊直弼は、坊主衆だけを客にした茶会を何度か開いているというような話があり、専門技能に長けた茶人と見られていたのでしょう。「甲子夜話」には、大名が、市中の坊主の私邸の茶会に行ったという話もあり、身分を越えた交際が伺えます。
最後に、身分ということでは、坊主は前述のように御家人ですが、ちょっと専門的な話になりますが、御家人にも三つの種類がありました。譜代、二半場、抱入です。譜代は、当主が死んだり、隠居したりしても、後継者が家督を継ぎ、幕府の家臣として、基本給を貰い続けます。抱入は、本人が死んだり隠居すれば、幕府との縁は切れて子供は跡を継げません。二半場は、譜代と抱入の中間とされ、家督の継承権があることは譜代と同じなのですが、一段下という認識でした。坊主衆は、二半場か抱入のどちらかであると「懐宝便覧」には書いてあります。ただ、坊主衆は特殊技能であるとして、基本的に世襲であったとされます。普通、家督を継いでも、基本給を保障されるだけで、親と同じ役職に就くものでもないので、世襲の職は、そんなにはありませんでした。じゃ、抱入の坊主はどうかというと、実は抱入も建前だけで、当人がが死ねば、上司や同僚が、息子を推薦して、採用してもらう仕組みに、江戸中期以降はなっていたようです。御数寄屋坊主は、技能によって、新規召し出しの例もあったように思える資料もあります。
萍亭主