我が家は、勿論、藪内流とは何のご縁もないのですが、でもよく考えてみたら、こんなものがありました。

 考えて見ると、何でこんなものが我が家にあるのだろうかと思うのですが、我が家の先代も、あまり流儀に拘る方でもなく、自分が好きな道具は使うという、諸流皆同一式に考える方だったようですから、何かの理由で所持していたのでしょう。交友関係から頂戴したり、譲られたりしたものもあるのかも知れませんが、なにしろ先代存命の内は、私は茶の湯には殆ど関わらず、道具の話もしたことがないので、来歴はわからないのです。ともあれ、家には、以下の写真のような茶杓があるのです。

 藪内節庵の茶杓です。節庵は、藪内流九代家元宝林斎の次男で、十一代家元透月斎の弟に当たります。珍牛庵紹庵の孫、比老斎竹隠の曾孫です。実父が死んだ時は、まだ6歳でしたが、成人した兄が十一代家元を継ぎ、養父の十代休々斎竹翠が大阪に退隠することになると節庵もそれに従って大阪に移ります。休々斎は、加賀大聖寺藩の藩医の福田家の出で、藪内家に迎えられたのですが、福田家は茶の湯の方では、随竹庵と称して、休々斎はその三代目でした。節庵は、この養父の福田家を継承することになり、随竹庵四代を名乗ります。もっとも、茶の湯世界では、姓は藪内のままで通したようです。随竹庵は、現在も藪内の分家として、節庵の玄孫が七代を継いでいます。さて、節庵は、茶室、茶庭の設計に優れ、関西の多くの庭園や茶室を作り、大徳寺真珠庵の茶室の修理や、如庵の東京移築などにも関わりました。関西の財界人を大勢弟子にし、中でも筆頭は、野村美術館を作った野村徳庵でしょう。明治41年には、流儀を超えて、関西財界の数奇者に呼びかけて、篠園会という持ち回りの茶会を楽しむ組織を結成します。野村、村山、上野、藤田、山口、住友、嘉納、磯野、高谷など錚々たるメンバーが集まり、名器を競い合いました。これは東京の和敬会に匹敵する会となりました。和敬会は大正大震災を機に解散しますが、篠園会は、昭和15年に節庵が死去するまで続きました。戦前の数奇者の茶の湯世界を語る時、節庵はなずせない人物で、その名は、東都茶会記などにも登場します。ところで、この茶杓、銘が千代の友と使いやすそうですが、私はまだ茶会で使ったことが一度もありません。何か数寄者系の道具とでも組み合わせればとも考えますが、思いつかず、仕舞い込んだままになっています。

 もう一つ、我が家には、下の四方盆があります。

 藪内写しとありますから、箱の花押も藪内流の茶人だろうと思いますが、誰かはわからないままです。他に、下の朱中次があります。これは小間などで使いやすいので、茶会でも何度か使いました。

 作家の遠坂宗仙は、藪内流で代々の職方の塗師で、明治大正頃の人です。昔これをある道具屋さんに見せたら「いい仕事してますねえ」と褒めた後、「今はこういう渋い道具は人気がないんで、値は付かないだろうけど」と言われたのを思い出します。

    萍亭主