昨日12月14日は、赤穂浪士吉良邸討入りの日ですが、実は前日の13日が、茶の湯世界では、一つの記念すべき日なのです。

 12月13日は「有楽忌」なのです。織田信長の弟、織田長益、号を如庵有楽斎、利休の弟子で、国宝茶室如庵を残した、有楽流の祖である大茶人。彼が歿したのが1622年(元和7年)のこの日です(ただし旧暦)。一般的によく知られる赤穂浪士に比べ、茶の湯に関係のない人々が、この日を知らないのは当然ですが、茶の湯世界でも、義士祭の華々しさに比べ、一向に注目もされないようです。「茶道歳時記」などには、一応載っている日なのですが。12月には19日が「宗旦忌」で、毎年、三千家で法要茶会が盛大に行われて、ご存知の方も多い筈ですが、それに比べれば、認知度はは遥かに低そうです。勿論、有楽流では、この日に行事が行われるのでしょうが、忌憚なく言って、現在の有楽流は千家に比べて弱小ですから、どうしても目立たないのかもしれません。有楽流は、衰微していたのを、戦後、有楽の子孫が家元に祀りあげられて復興したと聞きますが、中京地方が地盤の筈です。もう一つ、尾張徳川家の茶頭として流儀を伝えた平尾数也の系統も、尾州有楽流を名乗って、名古屋で活動しているので、中京地方では案外知られた行事で、関東の私がそれを知らぬのかもしれません。

実は、有楽流は、東京にも分派はあるようです。はるか昔ですが、大寄せで、有楽流の席に入った折に、ご席主は無口な老女でしたが、「お家元は織田長繁さんとおっしゃいましたか?」と、本で読んだ知識を確かめようとしたら、席主は無言で、半東が「こちらがお家元ですよ!」と席主を指さすではありませんか。えっと驚いて、その後はウヤムヤになりましたが、どうも、成り立ちはよく知りませんが、複数の分流が存在したようです。情報に疎い私には、現在もそうなのかは、一向に分かりませんが。

 今年は、私にとって、有楽と関わり深い年ではありました。2月にサントリー美術館で開催された織田有楽展を見に行き、6月には、如庵を再訪する機会があったのですから。ちなみに、有楽展は、本当は2021年が有楽歿後400年に当たるので、それを記念して行われる筈が、コロナで遅延し、やっと去年京都、今年東京で開かれたわけだそうです。本来の年にも、遅延についても、特に話題になった記憶もなく、利休四百年忌の時のような盛り上がりはなかったのは、やむをえないことかもしれません。有楽は利休門下ですが、通説の利休七哲のメンバーには入っていませんし、いわゆる台子七人衆にも入っていません。台子七人衆とは、秀吉が利休から台子秘伝を授かった後、自分の許可なく他に伝授することを禁じ、指定した七人だけに自分から伝授したのですが、その中に有楽は入っていませんでした。後に有楽が懇望したので、秀吉は「有楽は年来、数寄巧者なれば」と、自分の面前で利休から直接伝授することを許します。伝授が終わり、次の間に下がってから、利休が「御前なので(秀吉の前なので)、極意は語り残した」と言ったので、有楽が「この上、何の極意があるのか、是非とも教えてほしい」と願うと、「それでは教えよう。総じて茶道に大事の習いということは更にない。全て自己の作意、機転で行い、習いのないことを台子の習いとするのである」と言ったというのです。この話は、有楽の甥の子供で、有楽流の茶を伝えた織田貞置の言葉を集めた貞要集という本にあって、「誠にこの道の名言なり」としています。もしかしたら、これが有楽流の精神かもしれませんが、門外漢の私には何とも言えません。

   萍亭主