大光院の茶室
大徳寺塔頭大光院の茶室に入ります。 広い渡り廊下から入る水屋は、畳が3畳敷かれ、台目幅くらいの水屋棚が、茶道口の反対側斜めに設けられています。広々としていますが、入れるのはここまでで、茶室は、茶道口から、覗き込めるだけ。以下が略図です。 二畳台目、上座床で、茶道口は火灯口に作られ、給仕口はありません。風炉先窓、墨蹟窓、突き上げ窓があり、点前座と反対側は、かなり大きい窓が広がり、にじり口側にも二つの窓が設けられ、割と明るい感じの茶室です。天井は蒲の落ち天井、にじり口側畳一枚分は掛け込み天井、残りは平天井ですが、材は解りません。床の間の天井がどうなっているかは見えません。中柱は赤松で大きく湾曲しています。雲雀棚がついています。床柱の材はなんだか解りません。全体の印象は、特に変わったところもない、武家風の茶室という感じでしょうか。 そもそも、この茶室は、ほとんど文献に載っていません。戦前の創元社の「茶道」にも載っていませんし、茶室の本などでも私は読んだ事がありません。近年の京都の茶室の紹介本の一つに、「三つ石の席」の名で載っているそうですが、私は読んでいません。ただ、昭和36年に出た「大徳寺」(河原書店)に、こういう記述があります。「茶室蒲庵は二畳台目にして、黒田如水の好みで大光院の移転に際して移築された」とあります。随分簡略な記述で、移転の際というのは、郡山からの移転か、昭和の移転を指すのがわからないし、移築されたというが元はどこに建っていたかも不明です。茶室の案内人というか見張り番のおじさんが言うには「蒲庵の名は、古溪和尚の別号から来ており、建ったのは昭和30年に寺がここに移って来た時。古図があって、忠実に再現した」と。三つ石の席というのは、加藤清正、福島正則、黒田長政の三人の武将が、石を一つづつ寄付したからだというのですが、多分、露地の庭石などを指すのでしょうが、じゃ、それは今どこに?というと「今は無くなっちゃった」という答え。いつ、無くなったのか、そもそも本来どこに建っていたのか、古図はどこで見つかったのか、大光院と茶室との関係は?蒲庵の名は、いつ誰が付けたのか?案内人は何も答えられません。寺の人でもなく、アルバイトで、教えられたことしか言えない。だから、床柱の材を尋ねても「中柱は赤松です」というだけ。ちょっと意地悪く「屋根は銅板ですか?」と聞くと「うん、そうだと思います」と頷きましたが、実際は瓦葺き(水屋棚の側は板の掛け込み)でした。茶室が、あまり古びた感じが少ないのは、まだ築70年弱のせいでしょうか。露地門から眺めた露地も近年の造成に思えました。続きは次回。 萍亭主