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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

15 猪谷駅(P20)

 


 
 猪谷駅舎は、木造モルタル作りの鄙びた駅舎である。この駅に降り立った旅人たちが、駅舎を撮影する風景が定番になっている。秘境の駅にやって来たという気持ちにぴったりの駅舎なのだろう。
 駅舎は、飛越線の笹津~猪谷間が開通した昭和五年(一九三〇)に建てられたもので、その当時から、建物の様子は殆ど変わっていないという。高山本線が開通する昭和九年(一九三四)以前からこの地に建ち、豪雪にも負けず、昭和と平成の時代を見守ってきた駅舎である。駅舎の入口に掲げられている駅名の看板は、少し歴史は浅いが、手書きで書かれていて、これも旅人たちには人気がある。猪谷駅は、JR東海とJR西日本の境界の駅で、この駅で、運転手と車掌の引継ぎが行われる。そのことがあるのか、乗り降りする客がきわめて少ない駅ではあるが、「特急ひだ号」が停車する。              
「細入村史」参照

『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

14 神岡鉱山猪谷事務所跡(P18)

 

 
 三井鉱山は、製品を搬出するため,大正二年(一九一三)笹津より専用軌道の工事にかかり、大正一二年(一九二三)船津までの三六キロの軌道を完成させ、三〇数台の軌道馬車挽きで富山鉄道の笹津駅へ搬出していた。その後、馬車挽きからガソリン車に変わった。
 昭和五年(一九三〇)飛越線(現在の高山線)が猪谷まで開通したことにより、対岸の舟渡地内より神通川を渡りこれに直結するように高さ七六メートル、レール幅六七センチの巨大な鉄橋を作り猪谷駅構内に乗り入れるようになった。昭和六年(一九三一)には猪谷地区の二分の一近くの広大な敷地に三井鉱山猪谷事務所を建設し、隣接して購買部、診療所等を建設した。
 昭和四一年(一九六六)「国鉄神岡線」の開通により神岡軌道は廃止され、猪谷事務所等関係施設は撤去された。
 鉱山の広い敷地の一部に猪谷小学校の校舎が建設され、昭和四三年(一九六八)に鉱山従業員用の鉄筋五階建てのアパート二棟が建設され、六〇世帯が入り賑わいを呈した。鉱山の事業縮小から国鉄神岡線は廃止され、第三セクターの神岡鉄道が営業を行ったが、これも平成一八年(二〇〇六)廃止になった。アパートも閉鎖された。
「細入村史」参照

『猪谷の史蹟・見学ポイント』

 

13 殉職教員慰霊碑(P16)

 

 
 神通川には、長年、下夕地域(舟渡、小糸、伏木)と猪谷をつなぐ橋が、なかった。下夕地域の人々は、神岡鉱山軌道の眼もくらむような猪谷三井鉄橋を、危険を承知で、通行して、神通川を渡っていたのである。
 昭和二十三年(一九四八)、新制猪谷中学校の建設に伴い、下夕地域に住む中学生の通学の安全から、舟渡と猪谷をつなぐ吊橋を建設することになった。工事は、順調に進み、昭和二十四年(一九四九)、下夕地域の人たちにとって、念願の橋が完成した。
 村の橋梁検査を終え、九月二十六日には、県の検査を受けるという九月二十二日のことである。国指定の天然記念物になっている「猪谷の背斜・向斜」の地層を観察するため、新設されたばかりの猪谷新橋を渡っていた八尾区域小学校教育研究会の先生たちが、突如、吊橋のワイヤーを支えているアンカーボルトが破損し、吊橋もろとも落下し、神通川の激流に呑まれるという大惨事が発生したのである。この事故で、二十九名の先生が殉職した。慰霊碑が、吊橋落下地点近くの川辺に建てられた。現在、慰霊碑は、旧猪谷小学校校庭に移設された。
 この事故の後、下夕地域の人たちは、猪谷へ渡る橋がなくなり、再び、神岡軌道猪谷三井鉄橋を渡らねばならないことになった。細入・下夕両村は、再度、同じ地点に強力な吊橋を建設するべく、強力な請願運動を展開した。この努力によって、昭和二十五年(一九五〇)、国・県の補助を受けて、再び吊橋の建設が着工され、翌昭和二十六年(一九五一)四月一日、悲願の吊橋が完成し、「神峡橋」と名付けられた。このようにして、下夕地域に住む人たちが、安心して神通川を渡れるようになったということである。
 昭和四十年代に入り、細入村と下夕地域を直接結ぶ橋が、続々と永久橋化されていった。昭和四十四年(一九六九)、猪谷から下夕地域の舟渡に至る神峡橋が、猪谷駅前から直線で繋がる形で、永久橋化され、旧神峡橋は取り払われ、今に至る。
「細入村史」参照

『猪谷史跡・見学ポイント』

 

12 細入南部地区センター(P15)

 

 

 
 この敷地には、以前猪谷小学校があった。現在は、建物が改築されて細入南部地区センターとなり、地域住民の活動の場となっている。
 旧猪谷小学校の沿革史は次のようである。
 明治七年(一八七四)に猪谷関所の役人をしていた橋本作七郎の自宅を啓蒙小学校として創設し、その後石田・本多・出島・西禅寺と転々と住居を借用していたが、明治二〇年(一八八七)に猪谷小学校となり猪谷二一六番地に校舎を建てた。大正一五年(一九二六)に片掛分教場を統合した。昭和四二年(一九六七)に地上一部四階建ての近代的な校舎を竣工、細入村大沢野町学校組合立猪谷小学校となった。加賀沢分校、下夕地区の伏木、東猪谷両分校を統合した。昭和四五年(一九七〇)体育館を新築。平成一五年(二〇〇三)三月閉校、楡原小学校と統合し神通碧小学校として再出発した。
「細入村史」参照

『猪谷の史跡・見学ポイント』

 

11 アメダス定点観測所(P14)

 

 

 毎年冬になると、猪谷の積雪情報がニュースで流れる。猪谷に設置されたアメダスの観測所のデータが貴重な役割を果たしている。
 アメダスとは、「地域気象観測システム」のことを言い、雨、風、雪などの気象状況を時間的、地域的に細かく監視するために、昭和四九年(一九七四)十一月一日から運用を開始した。猪谷にあるアメダスは、降雨量と降雪量のデータのみを記録している。
 観測所の周囲には、風の通りを妨げないような柵を設置し、外部からの侵入をできるだけ防いでいる。また、さらにその周囲は開けた場所とし、樹木や建物などによって日光が遮られたり、風通しが悪くなったりしないよう配慮されている。               

「ウィキペディア」参照