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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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我、尊敬する、鈴木大拙。

 

 

 

 

やはりバランスなんでしょうね。

 

 開高健は、手足(体)を見捨てた、頭だけの人間はダメだとはっきり書いていますね。
 

 

 


 日本の禅、インドのヨガ、中国の道教=タオ、これらは言語脳を休ませるべく、「無」を奨励する。
たしかに、茶道、華道、あるいはその他の武術などでも頭で知識を獲得することよりも、準備段階などを儀式化することによってしだいに「無の境地」を体得するようなしくみになっていますね。
 相撲もそうでしょう。

 考えて、考えて、その最後にやってくる、何も考えない境地。これ、結構難しいですよね。何も考えないというのは。無心ということでしょう。

 

  カプラ先生も、日本 東洋と西洋の科学や物理学と、哲学の相似を早い時期に、指摘してましたね。人を物、部品として扱う西洋医学や哲学の限界を、70年代くらいに、指摘していました。そして、量子力学の観点から、東洋の禅、哲学、東洋神秘思想に、学ぶべきだと。

  私たちは、二元論に慣れてしまっていますから。

  禅の言うところの、一元論への憧れを、忘れてはいけません。

 

 

 

 

 

 


 中高生の自殺の事件を見るたびに、美術や体育や音楽のセンセイ達にもっとがんばってもらいたかったといつも思うのは私だけでしょうか?

 

 


音楽でさへ、専門にやっている人は右脳で音を聞いていますが、理屈でつまり左脳で音楽を聞く習慣から抜け出せない人もたくさんいます。

絵も、理屈で、見ようとする人もいます。

 

なんでも、理屈理屈です。

 ホップヒップであれ、jazzであれ、マイケルジャクソンであれ、身体が自然にうごきだすようなリズムのなかで何も考えない行為に没頭できる時間を少しでも一日のなかで、もてるようになれば、自殺なんかはもっと減るのではないでしょうか?

 

散歩とか。

ダンスとか。

盆踊りでもいいし。

カラオケで踊るとか。

ヨガ。

ストレッチ。

スポーツ全般。


没我。

左脳のためにも、精神健康上でも、潜在意識の向上のためにも、もっと音楽・体育・美術の時間が見直されるべきでしょう。



無我夢中で自分の好きなこと・もの・をやっている人がこの危機の21世紀に適応して乗り越えることのできる人ではないでしょうか?

 

 

 

◉資料

カプラ

オーストリアのウィーン生まれ。1966年、ウィーン大学で理論物理学の博士号を取得。素粒子物理学とシステム理論の研究をパリ大学(1966–1968)、カリフォルニア大学サンタクルーズ校(1968–1970)、SLAC国立加速器研究所(1970)、インペリアル・カレッジ・ロンドン(1971–1974)、ローレンス・バークレー国立研究所(1975–1988)で行った。 バークレー滞在中、エリザベス・ラウシャー(Elizabeth Rauscher)とジョージ・ワイスマン(George Weissman)が作った基礎フィーサイカ・グループの会員となり、哲学と量子力学について議論した[3] 。また、カリフォルニア大学サンタクルーズ校とサンフランシスコ州立大学で教鞭をとった。

エコロジー・シンクタンク、エルムウッド研究所(Elmwood Institute, 1985~1994)の創設者&所長。同研究所はエコリテラシー・センターと発展的に改称し、カプラは現在ディレクター。エコリテラシー・センターは、初等・中等教育の段階へのエコロジー・システム論的発想・持続可能な食事などの普及をはかっている。

現代物理学と東洋思想との厳然として同じ認識に向かっていることを指摘したThe Tao of Physics(邦題『タオ自然学』1975年)は、当時のディープエコロジー、ニューエイジ・ムーブメント、エコフェミニズム、社会エコロジーなどの流れに乗って、ベストセラーとなった。

1980年代初頭ドイツへ旅した後、エコフェミストのシャーリーン・スプレットナックと『グリーン・ポリティックス』を書いた。

1990年、リブ・ウルマン、サム・ウォーターストン、ジョン・ハードが主演した長編映画『マインドワオーク』(監督はフリチョフの弟のブレント・カプラ)にブレント・カプラ (ストーリー)、フリッチョフ・カプラ&フロイド・バイアーズ(台本)という形で参加した。この映画は、おおおむね『ターニング・ポイント』に基づいている。

1991年、カプラはベネディクト会修道士のデーヴィッド・ステンドルーラストとベネディクト・カマルドリ修道士でクリヤ・ヨーガの修行の経験を持つトーマス・メイタスとの共著で『われら宇宙に帰属するもの』を書いた。本書は、トーマス・クーンの『科学革命の構造』を足がかりにして、科学におけるニュー・パラダイム思考と宗教のニューパラダイム思考の類似性を探求した。科学と宗教におけるニューパラダイム思考は森羅万象(宇宙)に関して驚くほど両立しうる見方を提起すると、結論づけた。

カプラは、西洋文化は伝統的な直線思考やデカルトの機械論的世界観を捨てるべきだと主張する。あらゆる物は全体を理解するために、部分を研究すれば良いとするデカルト主義者の還元主義的な世界観を批判し、全体論的なアプローチを勧める。

『生命のウェッブ(The Web of Life)』 (1997) で、カプラは、全システムのウェブ状の構造と全部分の相互関連性を強調し、全体の性質を理解する上で重要な付加要素として、あらゆる部分の間の関係から生まれた体系的な情報に焦点を当てた。

フリッチョフ・カプラは、「地球憲章」の国際評議会のメンバー。

 

◉鈴木大拙

石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。

 

第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レインと出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。

 

1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

 

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。1939年、夫人ベアトリス・レイン死去。大拙に先立つこと27年であった。

 

晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年にかけ、アメリカ各地で仏教思想の講義を行った。1952年から1957年までは、コロンビア大学に客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。

 

1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。

 

1966年に、絞扼性腸閉塞のため[8]東京築地の聖路加病院で死去、没年95。[9][10]

 

没後は、鈴木学術財団(松ヶ岡文庫)が設立された。

 

墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎・和辻哲郎・安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。

家族

「東京ブギウギ」の作詞者・鈴木アラン(勝)は、大拙とベアトリスの実子とも養子とも言われる。その妻がジャズ歌手の池真理子で、その間に生まれたのがセラピストの池麻耶である。