アホでハンカクサイ、変人な僕の新人時代 (ボケ防止の青春備忘録)  その2 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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僕のアホでおっょこの、新人時代 2

 

 

自律神経がやられて、不眠、生あくび、視線恐怖、対人恐怖の私がよくまあ、普通の会社で、33年間も営業をやりつづけてこれたなあと思う。つくづく、部下のおかげだと思う。(日本1は数回取ったし、いろいろな記録があり、懸賞論文一位でフランスにも行かせてもらえたありがたい会社だった。)

 

 

アホでおっちょこちょいの私をたくさんの人が支えてくれたのだった。(助けてやらんとこいつは死ぬ、と思ったのだろうか。)

以前、旭川で若い頃、26歳の頃に、年上の女性たしか、33ぐらいのKという女性と、付き合ったことがある。

私の転勤でつきあいはおじゃんになり、また、彼女もそれはそれで、しょうがないという了解つきの、こだわりの付き合いでもあった。
私自身がまだまだ人生のい・ろ・は・しか知らない頃であったから、彼女からはいろいろなことを教えてもらえた。

特に、ジャズの名盤、そして今何が流行っているのか、それから旭川といってもまだまだ田舎の街の中に、女特有の嗜好でジャズと料理の美味い店をよく知っていて連れて行ってもらった。

彼女のきさくな性格と明るさでどこのお店に行ってもマスターやママと仲が良くて、私はなるほどこんな風にしてお店のママと話をすると楽しいなという新しい人生の楽しみ方も見つけた。

ただ、私はどちらかというと、人見知りが激しくお店に行くと、そこのマスターやママと楽しく話しあうことよりも、ひとり雰囲気を楽しむ方なので、逆に連れて行く女性は彼女のような「社交的な大人の女性」の方が、楽なのである。

彼女はいつも洋服はアカルく大きなデザインの柄の花や鳥を好んだ。赤や黄色やトルコブルーのようなはっきりした色彩がよく目鼻立ちのはっきりした顔にあった。

「◎◎さん、がんばりなさい。あんたは絶対ものになるわ」
と、今、ものになっていない現在でも、^^懐かしく彼女の独特の励ましを思い出す。

医者から妊娠できない体と告げられて離婚した女だけに、現実から逃避しない強さとユーモアが彼女の魅力であった。
彼女は五木寛之を読み瀬戸内晴美をその時読んでいた。今ならば村上春樹を読むようなそんな不易と流行の、「流行」という言葉がよく似合う打ち上げ花火のような女だった。

ある時。

仲間と旭川の汚いビルの七階で何かのプロジェクトの打ち上げをしていて、昭和五十五年頃の北海道の遊び方は皆二次会ではディスコで踊るのである。その少し東京のバーをイメージした狭い室内に少しの踊り場があり、そこで皆で我々は踊っていた。気がつくと目の前に帽子をかぶった二十代の身長のでかい男が異常な手振り身振りで私の前で踊り始めた。今から思えばからかわれたと思うのだが、まだ青くてつっぱりの性格の私はその帽子を二メートルほど手ではじきとばすと、彼が私に殴りかかったきた。

私はひょいと逃げるのは得意なので、馬鹿やろうと叫んだ後、帰るぞとばかり皆を誘い、エスカレーターで逃げ出した。その時、我がグループの仲間の中に相撲取り志望の男の子がひとりいて彼の塞き止めをかってやったくれたのだ。チンピラ相手に全然顔色ひとつ変えずに、彼は塞き止めをしてくれた。

二分後に仲間のチンピラが階段から上がってきた時には、相撲取り志望の彼はその帽子の男をおとなしくさせ、見事全員逃げることに成功していた。

あとでそこのマスターにそのチンピラのことを聞いたのだが、私もけんかっぱやいので、説教されたことを今思い出す。

Kはその夜とっておきのバーボンを出してくれて、「怪我などはないか」と心配してくれ、馬鹿な私のその喧嘩の一部始終を黙って聞いてくれ、照明のよく計算された女性がひとりで住むのには少し大きめの部屋で、「ミドル・マン」ボズ・スキャッグスの「ジョジョ」のレコードをかけてくれた。

その夜、音楽とウィスキーと喧嘩の三位一体で、青二才の私は、生まれて初めて大人の恋愛を意識したのである。

正直いって、「男も女によってつくられる」のではないだろうか。「女が男によってつくられる」ように。Kの部屋で聞いた、特に名曲でもないけれど、女性のセンスで部屋の雰囲気を良くしたいという「インテリア」感覚で選ばれた曲もなかなか悪くはないなあ、と私はバーボンを舌で味わいながら感じた。

芸術に対