ピリスを聞きながらの夜。最後の仕事の追い込み。今休息中。
人は五感覚のまったくないところで、何日か暮らすと発狂するという。
ゆえに、この世は、路傍の石でさへ、わたしたちの命を支える一つであるということを
その実験は教えてくれる。
嫌いな人でさへ、憎しみという実在のなかで、生きる炎のひとつとしてあり得るわけですね。
かつては、飢饉が世界中であった時期がありました。
今のように飢饉がほとんどないという暮らしは、ここ最近のこと。
柳田國男によると、日本でも、飢饉があった地域、たとえば東京近郊の田舎のことを
書いていて、基本、飢饉の時は子供が犠牲になることをたんたんと書いています。
犠牲というのは、小林秀雄氏が感銘したことでエッセイにもなっていますが、その悲惨さは
日本人としては忘れては行けないことだとも思えます。
この地球上の生物はそのようにして、生きるためにまず食を必死で探しながら、敵と戦い、
病気と闘い、ムラを形成し、仲間とともに、生きてきた筈。
それから、何千年。
人の基本は変わってはいないでしょう。
動物と、天使の間の生き物。
どんどん天使に近くはなりつつありますが、地域によっては、動物そのものの生態を露呈させている地域が、まだまだ、この地球にありますね。
日本は、まだ、良い方でしょう。
たったひとりの命を助けるために、自衛隊員が数十人もかけつけた昨今の冒険家の事故。
泣きながら、こんな素晴らしい国に生まれたことを感謝するようなことを言っていましたが、
それは本当だと思います。
貧しく、豊ではなかったからこそ、そこに仲間同士の知恵や、助け合いが、日本独特の形で、生まれる。
少し、うるさいほどのおせっかいやら、義理やら、人情やら、助け合いの精神やら、孝行やら、
子供への深い愛情やら、・・・・・・・・・・・。
しかも、外国人が驚くように、トイレにまで、「書」を飾ったりする、日本独特の美意識。
衣食住を、ここまで洗練させてきた日本人の我々の祖先やら、仲間やらに、感謝をせねばいけませんし、またまた、そうではなく、近所に住む、猫好きなご高齢の奥様やら、せっせと、ガレージの中で、タイヤを直すためににらめっこしているおじさんたち、彼らも、暇さへあれば、小さな庭の花々を日々絶え間なく、育てています。
こんな田舎なのに、自然が豊富だというのに、自分の庭で、小さな花をたくさんつくりながら楽しむ。
イギリスの有名な90歳まで生きた、ターシャさんほどには、立派な庭園はつくれずとも、みんな、それなりに自分たちのミニ庭園を楽しんでいます。
春の花が終わり、次の季節がこようとしています。・・・・・・