Norbert Burgmüller : String Quartet No.4 in a minor, Op.14
自分でピアノが弾けなくとも、自分の子供や孫が習うピアノ教室のおさらい会が年度末頃に開かれる頻度が高く、会場に足を運ぶことになる。課題曲の中では、可愛らしい題名がついたブルグミュラー(Friedrich Burgmüller, 1806-1874) の小品に気が惹かれる。曲自体は他愛もないのだが、ソナチネの何番とかではなく、1曲1曲ごとに気の利いたタイトルをつけたことも、この作曲家の知名度を、特に日本のピアノ教育界で高めている要因なのだろうと思う。しかし今回取り上げたいのはこの人物ではなく、その弟の26歳で夭折したノルベルト・ブルクミュラー (Norbert Burgmüller, 1810-1836) のことである。
今を去る約10年前の2010年のことだったが、ドイツのデュッセルドルフのTV局で制作されたノルベルト・ブルクミュラーの生誕200年記念のドキュメンタリー番組の抜粋と彼の作品のアンソロジーをYoutubeで見る機会があった。今でも覚えているということは、それなりのインパクトがあったからだ。20代そこそこながらすでに交響曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ・ソナタなどを作っていて、作曲家およびピアノ演奏家として認められていたという。亡くなる1年前に完成していた弦楽四重奏曲第4番(1835) は演奏時間30分を超える大作で、その完成度には驚かされた。ドイツ・ロマン派中期の弦四といえば、メンデルスゾーンとシューマンくらいしか思いつかず、ブラームスは38年後の1873年になってやっと2曲を出版しているのだから、その空白を埋めるに足る作品として、今後広く認められることを期待している。
Norbert Burgmüller (1810-1836) - String Quartet Nº 4 in A minor Op. 14
Mannheimer Streichquartett
当時すぐに、独MDGから出ていたマンハイム弦楽四重奏団の演奏による彼の弦四全4曲のCD2枚を買ったものの、楽譜が手に入らず、もどかしい思いをしていた。2年前にYoutube に第4番のみ音源がUPされ、さらにIMSLPにも第4番のパート譜が掲載されたので、実際に試演できる環境になったところである。これもコロナ後の楽しみの一つになった。
https://imslp.org/wiki/String_Quartet_No.4%2C_Op.14_(Burgm%C3%BCller%2C_Norbert)
第1楽章:アレグロ・モデラート
二つの半音階の和声の強奏から始まる冒頭のモティーフが印象的だ。イメージ的には、両手で頭を抱え、思わず天を見上げるような苦悩を思わせる。12/8拍子だとわかりにくいが、大きな4拍子としてカウントしている。バロック時代にはパストラーレ風で使われた拍子だが、ここでは全く性格の異なるイ短調の緊迫感のある表情を持っている。
第一主題の経過句も各パートの絡み合いに深い味わいがある。
それが高まりを見せると第1ヴァイオリンから、渦を巻いて回転するように下降する激しいパッセージが出る。これは「ヘミオラ効果」(Hemiola) といって、拍子を急に変則的に変えて、聞く側を幻惑させる効果を意図している。ここでは16分音符6個を1拍で奏く代わりに16分音符4個を(譜例の赤字)続けて4回奏いて帳尻を合わせている。4拍目には第2ヴァイオリンが合いの手を入れるが、聴いているだけではヴィオラを思わせる低弦が良く響いて惚れぼれする。これはマンハイム四重奏団の奏者の低弦のG線をうまく鳴らす腕前でもあると思う。このパッセージは各パートに代わる代わる現れる。アンサンブル上の難所でもある。
第二主題は平穏で流麗なメロディに心がなごむ。
第2楽章:アンダンテ
ハイドンの緩徐楽章のおごそかさと穏やかさを想起させる。ドイツ声楽曲の精髄のような四重唱の響きを思わせる。中間部は珍しい♭5つの変ニ長調(Des-dur)で、網の目のように動く装飾パッセージの音程を狂わせない注意が必要だ。
第3楽章:テンポ・ディ・メヌエット
イ短調のメヌエット楽章。ウィーン風というよりももっときびきびしたドイツ的な風土を感じさせる。
トリオ部分はイ長調に転じる。やや牧歌風になるが、拍の区切りにアクセントがついて、2拍子、4拍子、3拍子と流れの中で変化して、拍の頭が小節の頭と一致しなくなる。これは同年代のシューマンも良く使った手法で、やや夢見心地の心の揺らぎを感じさせる。(言い方を悪くすれば「モヤモヤした」)ロマン派中期の時代の空気だったのかもしれない。
第4楽章:アレグレット・コン・モート
イ長調、2/4拍子の快活なフィナーレ楽章。2拍子の田舎の踊りのような調子の良さがある。
全員でモグラ叩きのようにピシャリと締めたと思った矢先、ヴィオラがひょっこり顔を出す表情が面白い。
途中のチェロの音型は、モーツァルトの弦四プロシア王3番(K.590)のフィナーレ楽章によく似ている。先人に敬意を表すつもりだったかもしれない。様々なモティーフが絡み合う見事なアンサンブルに仕上がっていると思う。
*参考: Mozart - String Quartet K.590 Mov.4
ノルベルトは早熟の天才肌だったように思う。彼が最初に弦四3曲を書き上げたのが15歳から16歳にかけての時(1825-26) で、ベートーヴェンが後期の弦四を作り、シューベルトが「ロザムンデ」や「死と乙女」を仕上げていた時と重なっている。モーツァルトが16歳で初期の弦四を書いていたのと対比しても驚異的だったのではないかと思う。特に1番と2番はどちらも二短調の作品で、手書き稿として残されたものが死後出版されたのだが、同じく早逝したアリアーガと同じくらいの完成度に驚かされる。(この点はフランスのWikipedia でも言及している)
※ノルベルト・ブルクミュラー (Norbert Burgmüller, 1810-1836)
1810年2月8日にデュッセルドルフで生まれた。父のアウグスト・ブルクミュラーはケルンやデュッセルドルフの歌劇場の音楽監督を歴任した音楽家であり、ノルベルトは兄のフリートリヒと同様に初めに音楽の手ほどきを受けた。性格的には感受性が強く、神経過敏で社会生活のルールにはめ込まれるのを嫌う傾向があったらしい。彼が14歳の1824年にその父親が58歳で死去すると、一家は経済的な支柱を失い、歌手兼ピアノ教師であった母親は、地元のネッセルロード・エーレショーベン伯爵に支援を申し入れ、息子のフリートリヒとノルベルトをカッセルのシュポーアのもとで更なる指導を受けるように送り出すことができた。1831年まで、彼らは楽理的に驚くべき進歩を遂げ、楽器の練習も続け、芸術界に頻繁に出入りし、ソリストまたは指揮者として定期的にコンサートに参加した。1830年1月、ノルベルトは自作のピアノ協奏曲の演奏を行い、ピアニストおよび作曲家として知られるようになった。兄のフリートリヒはパリに赴き、ピアノ教育者として成功することになる。
一方でノルベルトは、オペラ歌手ゾフィー・ローラントと婚約したものの、何らかの理由でそれが破棄され、彼女はアーヘンでその年のうちに死去した。彼は激しい抑鬱状態に陥り、アルコール依存とてんかんの発作は以後の彼につきまとうことになる。1832年にノルベルトはデュッセルドルフの母親の許に戻り、音楽家としての活動を続けた。
1834年の1歳年上のメンデルスゾーンとの出会いは、彼の短い生涯の中での幸福な瞬間だった。何気なくメンデルスゾーンに自分の作品を見せたところ、メンデルスゾーンはその驚異的な才能に驚き、その瞬間から互いに称賛と敬意を示すようになった。1835年にメンデルスゾーンがライプツィヒに去った後、同じ気質を持つ詩人グラッベとの親密な関係は彼の日常生活に影響を及ぼした。彼らはしばしば一緒に居酒屋で過ごし、オペラを制作するために協力するという考えに熱中した。彼は1836年5月7日、衰弱した体力の回復を期待して、アーヘンで温浴中にてんかんの発作で溺死した。26歳だった。
彼はいくつかの序曲、交響曲、弦楽四重奏曲、協奏曲、ピアノソナタを書いた。彼の作品のほとんどは手書稿で残っていた。彼の最初の交響曲は1838年にライプツィヒで演奏され、同情よりも好奇心を持って迎えられた。メンデルスゾーンは彼のために葬送行進曲を書いた。また同い年のシューマンは、新音楽時報の中で「シューベルトの早逝以来、音楽界で最大の損失」と語り、ブルクミュラーの早すぎる死を惜しんだ。