三ノ宮に着いたのが4時15分頃だった。5時からの集まりにはまだ時間があった。元町の割烹「三ツ輪」が会場である。

5時までの30分をどう過ごそうかと思った矢先、三ノ宮のセンター街の前で、参議院比例区(全国区)自民党公認の演説があった。ここで時間を潰そうと考えた。えらい人だかりである。若手の議員が数人応援演説をしている。中には、宮沢賢治のあの詩を、朗々と全部暗唱した奴もいた。もう、止めて欲しかった。だが、周りの人は、写メに余念がなかった。私も、その1人だったかも知れない。私は、ミーちゃんかハーちゃんか。

その本人が演説するまでに、何人の若い議員が応援演説をした事か。段々暑くなって来た。

今井絵理子が話し出した頃には、もう4時30分になっていた。私は、西へと歩みを進めた。今井絵理子。それはかつてのスピードの一員だった。顔が頗る小さく、舞台慣れもしていて、物怖じしていなかった。正に芸能人の姿だった。

時間が気になった。私は元町に歩みを進める。流石に暑くなり、元町のスクランブル交差点にやって来た時、大丸デパートに入る決心をした。冷気に浸る為だった。だが、もう40分を過ぎていた。すぐにそこを出ると、やっぱり暑い。

ちょっと東へ戻り「三ツ輪」に着いた。15分前で、もう半分は来ていると思った。2階に上がってみると、何と私が1番に着いた。暑い。クーラーは26度を示していた。すぐに24度にした。

この日は5人集まるように聞いていた。私に取ってはN親分とT親分、それにK先輩と I 子分を入れて5人の筈だった。だが、6人の席が用意されていた。親分が来た。6人目は誰か分からなかった。何と、F君だった。現役の頃、彼はインドに3年間派遣され、いい思いをしている。私よりは年下である。

N親分は、私の家に電話をして来た時、嫁に「最後の晩餐会をする」と言ったそうだ。癌が十二指腸の外に出来て、抗癌剤投与の治療しかないと言う。7月は、Vポケットの手術から始まり、薬を飲む治療が始まるそうだ。

T親分も、来月は心臓の検査をする。カテーテルを何度か入れる手術をしているのだ。K先輩は、心臓の手術をとっくにしている。20年前位は、こんな事全くなかった。元気な親分子分だった。

私は、たまたまN親分が呼んでくれた。まあ偶然のようなものだ。あんなに飲んでいたN親分もT親分も、びっくりする位飲まなかった。N親分は、毎晩缶ビール1本と日本酒1合だけと言うから、余程体には気を遣っていると思った。

N親分は来月からそんなこんなで、皆と飲んで置きたいと言った。抗癌剤で癌が消滅してくれる事を願う。そうすれば、また7月に飲めるではないか。

F君は私より年齢が上だと思っていたらしいが、そうではないと分かった時から、妙に私には後輩面をする。現役を過ぎたらもういいのに。そんな事どうでもいいのに、彼はいつでもその事に拘るのだ。

楽しい時は、あっと言う間に過ぎた。N親分、K先輩、F君は東に向かった。私とT親分と I 君は西へ。JR神戸駅で I 君は降りた。垂水駅で残りの2人は降りた。T親分は西出口へ、私は東出口へと分かれた。親分親分と言うが、義理人情の世界の親分子分ではない。Nさんが大親分なら、Tさんは小親分だ。だが、どちらも凄い力を持っているのは確かである。皆慕って、ここまで付いて来ているのだ。

T親分と I 君と私は、電車に乗る前に元町商店街の「観音屋」に入った。ここはチーズケーキが有名だ。久し振りに堪能した。

私は、2人に7月10日の事を話した。 I 君は頻りに、行けないと言っていた。T親分はメモをしていた。「来て頂けたら、シマさんが喜びます」と言った。どうなるかは半々だと思う。来て貰えたら、シマさん主催の発表会も、更に盛り上がるだろう。

もう明日から7月だ。半分が終わる。7月は私に取っては時間的に忙しい月になる。最大のイベントは、神戸文化ホールの「オカリナフェスティバルin神戸」だ。7月23・24日の2日間のイベントが、無事に終わるよう祈るばかりだ。イタリアからモリネッラオカリナグループをゲストに呼んでいる。7重奏だが、人員は10名。翌日のゲストは舞歌さんである。

このフェスティバルもこの夏で16回目になる。技術が先行する事がはやされる昨今だが、今一度、オカリナの本質を見直してみたいと思うのだ。素朴な、オカリナならではの音が、聴衆の胸に残る瞬間を見直したい。その為にも舞歌さんは大切なゲストである。東京都のヘブンアーティストの資格を持っていて、東京のどこでも勝手に演奏出来るのだ。兵庫の出身で、大阪音大を出ている。

私は、今年はゆったりした曲はやらない。速いパッセージの含まれる曲2曲を演奏する積もりだ。上手く行くかどうかは分からない。だけど、そんな曲もやるんだ、と言う所を見て貰いたいと思うが故に。

1日目が過ぎて懇親会の時、私は乾杯の音頭を取らなければならないだろう。イタリアから来ている。「乾杯!」と日本語で言うのは、今一つ面白くない。イタリア語で「乾杯」と言いたい。

「チンチン!」

こう言えば分かって貰えるだろうか。きっと、イタリアの人以外は、私がご乱心遊ばしたと思うに違いない。けれど、グラスとグラスが触れ合う音。それがチンチンである。元はフランス語に起因する。

4月からイタリア語を勉強しようと思った。だが、それは続かなかった。その見返りとして、「チンチン」が、妙に私の胸に響いて来る。

「それでは、今から乾杯をしたいと思います」

「チンチン!」

ああ、3週間もするとフェスティバルだ。2日目は私の仲間が5、6人、加古川や神戸や大阪から来てくれる。終わったら、三ノ宮で是非とも杯を傾けたい。

「チンチン!」
頭は混乱し、足は地面を踏みしめる感覚がなく、細胞たちは期待を裏切られたかのように一気に閉塞して悶えた。

東京にいる事に、訳が分からなかった。全て事が済み、神戸に戻って来ると、その事は夢でしかなかった。そう思われるのも無理はなく、この世の事は全て夢の中なのだとさえ感じさせられたのだった。幾ら古稀を過ぎたとは言え、だから耄碌したのではとも思われない。

K君が手配してくれたJALで、伊丹空港から羽田空港へと向かった。Yさんも一緒で、お昼を跨いで小一時間の、主翼が邪魔をしたり真ん中の席だったりした事も影響して、地上も富士山も雲さえ見えない、エンジン音だけの空の旅だった。

飛行場はどこもそんなに驚くほどの変化がある訳ではなかった。羽田に着くと、東京に来たと無理に思おうとした位だったから。私の中では、もう来る事もないと思っていた東京で、それは学生時代を過ごした経験と、誰かの結婚式で来たり、私のオカリナ演奏を或るライブハウスに聴きに来てくれた6、7人の女性達の有り難かった思い出を抜きにした東京は、余りにも遠ざかった世界だったのだ。

Yさんは身内の人と会ってから会場に来ると言って別れ、K君とお互いの通っていた大学を見たりしながら会場に行こうと話し合っていた。だが、羽田空港の食堂でカツ丼を食べ、会場に荷物を置いてから行こうと言う事になりそのようにしたけれど、もう3時間もしたら始まろうとしている事もあり、また懐かしいD君がロビーのテーブルの椅子に座っている所に出くわすと、そこで話に花が咲き、ホテルから出掛ける気にはなれなくなった。

ホテルは「島根イン青山」と言い、港区青山7丁目にある。この15日は、18時から同窓会が始まる事になっていた。

D君は真っ黒に日焼けしていたが、それは釣り三昧の日々を送っているからだと言った。この前は30センチ位の鯵を15枚釣ったと言っていた。釣りが好きでたまらない様子で、私も誘ってくれたが、今更行く歳でもなかった。彼とは高校生になって初めて出会ったが、その歓迎遠足で、8キロメートルは離れているだろう出雲大社に歩いて行く途中、ずっと喋っていた。その時からの親しい友達になった。

そうこうしていると女性もやって来て、数人がテーブルを囲んで話し始めた。かつてない一番小さな13人の同窓会が、ここ東京の青山で開かれる事になっている。K君と同室に泊まる事にしていて、取り敢えずチェックインをした。その部屋にSa君が入って来て、以前に写してくれていた沢山の関係のある写真をくれた。暫く思い出話で時が過ぎて行った。

高校は出雲で、出雲に在住の者や関西に住んでいる者、東京近辺にいる者達が集った。高校3年生の4組の同窓会だ。私に取っては小学校以来初めての女性の担任のD先生のクラスだった。その先生も去年の初春に亡くなられ、皆悲しんだ。4組になった仲間も個性的で、それぞれが好きに過ごしているような感じさえあった。

だが、皆奈良女子大を出たD先生が好きだったし、才媛の香りが漂っていた。だが、先生も私達の事が好きで、亡くなられる前の同窓会では、クラスの1人ひとりの名前を、出席順に全員諳んじた程だった。D先生の誠実さや愛情は、1人ひとりそれぞれに向けられていた。まるで太陽の光のようだった。

それはもうともかくとして、だからこうして皆が遠方から四方八方から集まった原因の1つであると思う。「二十四の瞳」は大石先生を入れて13人だったか、我々は参加者全員で13人で、D先生と大石先生の何処かが重なる思いがした。

午後6時前になり、宴会場と言うよりも懇親会場に入っていった。一瞬懐かしい顔が目に入ったが、これまた一瞬の事だったのだが、大学の教授風に見えた人物がいた。それは高校で楽しく過ごした親友の1人の I 君だった。

どうしているだろうとの思いはずっとあったが、会うのは50年振りと言う事になる。或る部分はお互いに違っていたが、握手をし、抱き合った。数字にしてみると左程でもないが、その生活は人を変えて行く。それが歳を取るに連れて成長したり変革されて行ったり、自分を良くも悪くも変化させる半世紀だった。

他の友も勿論、よく会ったりしている者もすぐに高校時代の頃に引き戻される。ビューンと轟音がしたかと思うと、「過去50年前駅」に立たされているのだった。丁度舟木一夫の「高校三年生」が盛んに歌われていた時で、カラオケで歌うようになってからその画面に映る教室のクラスナンバーが「3の4」だったのが痛快だった事も思い出されるのだ。

物故者もいるが、全員が集まれば13人と言う事はない。だが、何かの集えない理由があるのだろう。出雲の市会議員をしている者もいて、彼は近しい者に懇親会の時間に電話を掛けて来たし、手紙も寄越していた。

D先生のいない初めての同窓会となったが、先生から送られて来た手紙を読む者もいて、皆誠実な先生の心に打たれた。誰に来た手紙であろうとも、みんな自分に来た手紙の様にそれを聞いていた。

I 君はこの会の発起人をO君とやってくれていた。最初に写真を写し乾杯し、彼はこの会を特別の思いで計画していたのだろう。自分が亡くなる時にこの歌を教会で歌って欲しいと言って、楽譜を皆に渡した。1番を彼が歌い、また1番を皆で歌った。それは讃美歌687番の「まもなくかなたの」だった。

♪まもなくかなたのながれのそばで たのしくあいましょう またともだちとかみさまのそばのきれいなきれいなかわで みんなであつまる日のああなつかしや

彼の素晴らしい喉とその純真な思いに触れ、それは高校時代に遡るものだと思った。彼は、そんな風に成長していた。魂と向き合って来た50年だったのではないかと思えた。

Is君は音楽が好きで、高校時代はホルンを吹いていた。この日はピアノが弾きたかったようだがピアノはなく、 I 君がキーボードを持参してくれていた。それを彼は弾いた。校歌の伴奏をした。それと、私にはオカリナを持って来るように言っていたので数本持って行ったが、私はラジカセがないものかと期待していた。CDも用意して臨んだ。だが、何処を探しても楽譜のファイルが見付からなかった。結局は家に忘れていたのだ。

彼のキーボードでコラボをする事になり、結果的にはそれの方が良かったのかも知れない。3曲位演奏した。聞く所に依ると、彼は田舎でピアノを教えていると言った。すぐに伴奏出来るのが幸いだった。

オカリナの話が出たので、席に戻っても調子に乗って2曲アカペラで吹いた。アルコールが入っているので、苦しそうな息遣いの所も在ったかも知れない。だが、数人が私の方に携帯やスマートフォンを向けて、録音していた。やっぱりオカリナの音には、人はよく反応してくれると思った。そんなに親しくはなかった仲間が、最終的には2枚CDを買ってくれ、これには嬉しくもあり驚きもした。

もう既に以前買ってくれている者もいたけれど、皆よく買ってくれたものだと思った。それも、K君が私のオカリナに就いて熱弁を奮ってくれたお蔭もあったのだろう。売り付けるようで余り気は乗らなかったが、こんな場ででしか、人に聴いて貰える事がないから仕方がない。男性に比して女性は少なかったけれど、それでも高校時代の色々な事を聞いたり思い出させてくれたりした。

2時間のバイキン形式、飲み放題の懇親会は2時間となっていた。だが30分の延長が出来た。島根県在住の者は宿泊料金などの待遇が特に良い。チェックアウトの時間も2時間延ばして貰える。私は出身地が島根でも在住ではないので、そんな待遇は一切なかった。けれど出雲弁の番付表が貼ってあったり、ビデオでは出雲大社や大蛇退治など島根に関わる映像が流れていて、故郷を彷彿とさせた。

2次会と言っても派手な事はせず、 I 君の部屋に皆集合し、ベッドの上に上がったり、地べたに座ったり、椅子に座ったりして飲み直しをした。ここでまた2人の女性がCDを買ってくれた。これにもポン吃驚!

1部屋に13人は圧巻で面白かった。

部屋にそれぞれが帰った後、 I 君は片付けが大変だっただろう。それもまた、どちらにも良き思い出となる事だろう。ぐっすりと眠れたが、次の朝少々アルコールは残っていた。


出雲や各地に帰る者もいる。朝はきっと7時頃から朝食を摂っている者がいるだろうと思い、K君と2人7時過ぎに食堂に行った。前日割引券を貰っていたので、和食か洋食かの食事が出来た。殆どが和食だった。6人はもう食べている真っ最中だった。

それぞれが飛行機などの時間が違うけれど、何人かを見送った。その後私とK君、D君、 Is君、S君との5人は散歩をする事にした。すぐ近くに青山学院大学がある。どうも正門ではなく裏に回ったようだった。敷地内に入るのは憚られたが、そこの関係者に正門への行き方を聞き、5人は構内に入って行った。

まるで大学に関係のあるものの様に歩いたが、50年以上前に門から見えたギリシャ風の建物が見えなかった。中等部の女生徒達が10人は並んで座っていて、こちらを見ている。話しかけたそうに見えたし、笑ってもいた。横を向くとまた笑っている。何と思ったのかは謎だが、無垢な明るさがあったのは確かであろう。

門の方に向かうと、一丸となった大学生が入って来る。流石に女子学生が多いが、早歩きで急いでいる。最初の授業が始まるのであろうか。もうすぐ9時になる所だ。

門の外に出ると、向かって右に「青山学院」、左に「大学」と書いてある。そこから真っ直ぐに見ると見える筈のその建物は見られない。その疑問が解けた。モミの木のような大きな木が、でーんとその前に立ちはだかっていたのだ。どうしてこんな木を植えたのだろうと思ったし、半世紀の長さを思った。

どんどん学生の群れが渋谷駅方面からやって来る。バックパッカーのような姿の者が多い。前はそんな事なかったのに。次から次へと湧いて来る。もう別の人種の様だった。自分のその頃を懐かしむ事もなかった。時は確実に過ぎていた。もう初老の我々だった。

この正門の横には銀杏の並木が続き、その白い建物の前には桜の花が咲く写真を、「蛍雪時代」で見たように記憶している。それに、確か英文科の写真が表紙になっていて、多くの女子学生が授業を受けている真ん中に、たった1人の男子学生が写っていたのを、今も印象深く思い出す。一瞬持てるだろうなと思ったが、後から、絶対に持てないと思った。

ホテルへの帰りに雨が落ちて来て木の下で雨宿りをしていたら、おばあさんが傘を貸して上げようと言って話しかけて来た。5人共、それは辞退した。ホテルに戻る所だと誰ともなく言うと、そのホテルにはよく行くとの返事だった。

タクシーで帰ろうと言う者もいたが、それまでしなくてもと考えていると、そのおばあさんが道の向こうから呼んだ。そこはバス停で、バスに乗ればいいと言う。「青山学院西門」と言うバス停だったが、次が「青山4丁目」で、そこからホテルはすぐだと教えてくれた。おばあさんも乗った。雨に祟られず、歩けばかなり遠かっただろうが、ホテルにすぐ近い所にバスは止まった。

ハチ公バスと言って、100円だった。皆がホテルに入ると、一番近い入口から入ったと思われるそのおばあさんがいた。コーヒーでも毎日飲みに来ているのだろうと推測した。それにしても不思議な縁のようなものを感じた。雨にも左程打たれず、道案内をしてくれたからだった。

11時になると3年4組ではない女性が4人、1階の喫茶にやって来た。これは会う約束をしていたのだ。男性6人は私とK君D君 I 君 Is 君S君、女性は Ishさん、Yさん、Tさん、Hさんだった。これが合コンなんだと思った。

すぐに打ち解けたが、私は昨日の様には饒舌ではなかった。アルコール疲れと地に足が着かない疲れとが混ざっていたのだろう。月替わりの料理を食べて、 Is君とD君は出雲に向けて帰って行った。我々8人は、折角なので近くの2つの美術館を巡った。

もう詳しくは書かないが、「生きる尊厳ー岡本太郎の縄文ー」を観に、岡本太郎記念館に行った。太陽の塔を思わせるモチーフのような作品で飾られていた。これは明らかに岡本太郎の世界だと思えた。

もう1つは根津美術館で、「鏡の魔力(コレクション展)」と「若き日の雪舟(特別企画)」をやっていた。前3世紀辺りの鏡は誠に立派なものだった。この根津美術館は庭が素晴らしく、暫く散策した。季節が違えばもっと素晴らしいだろうとも思った。桜や紅葉の季節になれば。今は新緑が美しい。

久々に出会えた女性達とはそこで別れた。会えて嬉しかった筈なのに、体は飲み過ぎの所為か重かった。我々4人は、取り敢えずホテルに戻り荷物を受け取って、タクシーに乗った。渋谷駅まで乗ったが、最初の料金表示が730円。最近滅法乗らなくなった私には、随分高いと感じられた。

I 君とS君は反対の方向へ、私とK君は、K君の息子のアパートに行った。ここに泊めて貰う事になっていた。息子は出掛ける所だった。もう夕方なので食事に行ったが、ステーキでも6、7百円で、リーズナブルで美味かった。

そのあとセブンイレブンでビールやワイン、あてを買い込んで帰った。11時過ぎまで飲んだと思うが、私は寝転ぶと、そのまま朝までぐっすり眠った。手品のプロである息子が帰って来たのは、真夜中だったと言う。


次の朝、9時まで喋ったりしてゆっくりしていた。いい話も沢山聞いた。それからそこから1分も掛からない好条件のアパートから駒込駅へ。そこから東京駅へと向かった。折角なので、煉瓦造りの、しかし工事中の東京駅を目の当たりにした。だが、アルコールが残っているのか足は地に着かず、ボーっとしていた。東京に来ている実感がなかった。

神戸に住み、大阪や京都によく行く私には、東京だからと言って、そんなに都会を感じなかった。範囲が限られていたのと飛行場と飛行場を行き来しただけの事で、東京へ来たと言う実感がなかった。だが、ビルは高く聳え、大丸の建物の凄さは感じた。

もう2時30分の離陸までにそんなに時間はない。彼と羽田まで行こうと言う事になり、モノレールに乗った。

国内第1ターミナルで食事をした。やっぱりカツ丼になった。

後は、国際線ターミナルに無料バスで向かい、彼の息子に教えて貰った4階の「江戸小路」に上がってみた。素敵な食堂も有り、ここで食べても良かったなと2人で話した。アジサイ展があり、色々な種類のアジサイで飾られていた。

日本橋も実際に短く作られ、結構楽しめた。あれこれしている内に時は過ぎ、国内第1ターミナルに戻り、JALに乗り込んだ。地に足の着かない3日間は、呆然と過ぎた。長い間行ける日を描いていた東京。それが飛行場とホテルの行き来で終始したのだから、大地を踏みしめている感覚や感激などはある筈もない。

皆に会えたのは嬉しいが、それと東京とが合わない。タイムラグが感じられる。夢か現か幻の何処かで、それは浮遊している。巨大な大東京の軒下に過ぎない青山通りも、それが東京だとは到底思えなかった。貴重な出会いがあったにも拘わらず、そこが東京だとは感じられなかった。もう1度、しっかり足を地に着けて見て回れる日を頭に描く。

長い間思いの深かった東京が、そう感じられても不思議はない。それもそうだろう。巨大な東京が極小の私のそんな思いなど、いとも簡単に呑み込んでしまったからだ。

楽しい感謝の日々であった事に違いはないが、駄目押しをするかのようにJAL121便は、足の地に着かない私を乗せて、17日午後2時30分の予定を少しばかりずらし、滑走路を滑るとぐんぐんと上空に飛び上がって行った。
遂昨日だったかカンテレのよ~いドン! で知り得たお薦めの店。それが、梅田大丸とホワイティ梅田の店だった。

孫や娘から電話があったり、娘や妹やその旦那や悠介からメールがあったりした後4時間少々を残した私の誕生日は終わる。

そんな1日ではあるが、ホワイティ梅田にある大阪府警察コミュニティープラザに出掛けた。家に居ても仕様がない。

6月5日のNESSO”WUTH”コンサートは2時から始まる事になっている。

その前に、梅田大丸の地下に足を進めた。「My Grill deli.」は弁当の販売だけで、そこで食べられる訳ではなかった。私が買ったのは「国産牛ステーキカレー」だ。如何にも上等の肉がスライスされ、カレーのルーが付いている。1,000円だった。

食べる場所がないが、6回のJR寄りに広場がある。そこのベンチに座って食べた。美味い! どこか、ちゃんとした場所でゆっくり食べたいと思った。こんなに旨い弁当があるものだと感心した。

スターバックスでコーヒーを飲み、時間を潰す。

次の知り得た店、ヨネヤを探した。そこは串カツの店で、何と隣りも串カツの店だった。隣りが閑散としているのに引き換え、ヨネヤは満員状態だった。1時40分頃でそうだ。兎に角場所が分かったので、コンサートの会場に入った。と言っても、通りの人達の喧騒が丸分かりの場所だ。私もシマさんと何度か演奏をした所である。

「歌の翼会」の演奏は、2人の歌手と1人のピアノ伴奏者で構成されていた。

2人一緒に歌う事は殆どなく、交替で歌った。「歌の翼会」のメンバーの名前は書いてない。だが、その説明があった。「私たちは日頃はそれぞれが音楽教育・音楽指導に当たる傍ら、関西を中心に演奏活動を続けているグループです。色々なジャンルの曲にチャレンジしています」。

若くはないグループだが、その声は正統派の声楽家だと思えた。凄い高音を出して歌った。崩れる事はなかった。やや精一杯過ぎた感じはあったが、この歳でこの声量は圧倒される。

ピアノの伴奏も、最初はさほどとは思わなかったが、途中からとてもいい音を奏で出した。音響の良い場所とは決して思われない所で。

「世界旅行」と言う流れで進んだ。

オープニング      すみれの花咲くころ

日本            さくらさくら
               さくら横ちょう(別宮貞雄)

アイルランド       庭の千草 オペラ「マルタ」より (フロトウ)

ドイツ           菩提樹 (シューベルト)

イタリア          花占い (マスカーニ)
               オーソレミーオ

ロシア           赤いサラファン
               カチューシャ
               カリンカ

チェコ           月に寄せる歌 オペラ「ルサルカ」より (ドヴォルザーク)

美空ひばりコーナー  ひばりの花売り娘  津軽のふるさと

365日の紙飛行機

時間があり、アンコールがあった。それは凄い高音を使う「花占い」だった。

知った歌も多く、結構楽しめたと思う。

さてそれからだが、折角知り得た店ヨネヤ。串カツの店。3時頃にして満員で、少し並んだ。盛り合わせは720円で5本。牛、海老、蓮根、しし唐、キス。それと生ビール。イカやウズラの卵も注文し、レモン酎ハイ、芋焼酎のウーロン割りも頼んだ。最後に、お薦めの和牛の串カツ。他の串カツは分からないが、この満員具合はやっぱりTVの影響だろうか。それは私には分からない。

もう満腹でこれ以上食べられない。しかしこの辺りには食堂が切れずに並んでいる。来る度に違った店で飲み食いするのも楽しみである。

明るい内に帰ったが、それでもすぐに男子バレーが始った。日本対フランス。1セット目は25対18で勝ったが、今2セット目は22対22になっている。オリンピックには出場出来ないが、精一杯力を尽くしている。有終の美を飾りたいのだろう。そう、飾って欲しい。出られないからと言っていい加減にやるのも問題だが、おお、ポイントが日本に。25対23で2セット目も取った。

ここでブログのアップをしたいと思う。後は、しっかり応援したい。せめてフランスには勝ってほしいと思っている。こうして、私の誕生日は、後、3時間半で終わる。71歳となるが、何だか感慨がない。
バスが停留所に停まると、傘を差さなかったら歩けない降り方になっていた。

夕方とは言え、もう7時過ぎのこの街は暗かった。水溜りに足が浸かったりした。そうしながら家に着いた。

三ノ宮のニューミュンヘンで飲んで、店を出る頃には喉も乾いていた。セブンイレブンでオランジーナを買って三宮のバス停に並び、一気に飲んだ。ニューミュンヘンにはシマさん夫婦とそらの陽さんが集い、4人で、3人は大ジョッキを注文した。あては何かは聞く方がアブノーマルだろう。デカい唐揚げが定番だ。ミックスピザも頼んだ。


2時からの「 Shuko &  Satoko Duo Concert 子供の憧憬」を聴きに来ていたのだ。

御影にある三響楽器の3階にある会場は40人近く入るキャパであるが、全部埋まったので満員である。

紗の入った素敵な衣装で鷲見周子さんは出場した。大学が後輩だと言う宮本智子さんとのピアノの連弾と2台のコラボである。

鵜川真理子さんは、ナレーションを担当した。力強い、澄んだ声が存在感を示していた。

プログラムは、

最初が、ビゼーの子供のあそびから「舞踏会」

連弾 G.フォーレ(1845~1924 フランス)作曲「ドリー組曲」

   1 子守唄
   2 ミ・ア・ウー
   3 ドリーの庭
   4 子ねこのワルツ
   5 優しさ
   6 スペインの舞曲

連弾 M.ラヴェル(1875~1937 フランス)〉作曲「マ・メール・ロワ」

   1 眠れる美女のパヴァーヌ
   2 おやゆび小僧
   3 パゴダの女王 レドロネット
   4 美女と野獣の対話
   5 妖精の花園

二台 三善 晃(1933~2013 日本)作曲「唱歌の四季」

   1 朧月夜
   2 茶摘み
   3 紅葉
   4 雪
   5 夕焼小焼

アンコールが、ビゼーの子供のあそびから「小さなだんなさま 小さなおくさま(おままごと)」

ピアノのこんな近くでの演奏。それは美しく、しかし音量と迫力があった。それもそうだろう、今迄に聞いた事もないピアノの音だったからだ。

連弾の素敵さを感じると共に、音のクリアさと強さを頭に刻む事になる。日本にも6か所にしかないと言う35年位前に設立された会社のピアノ、FAZIOLI。初めて聞く名前だった。

パオロ・ファツィオリは1944年、6人兄弟の末っ子としてローマに生まれた。1981年にFazioli.s.r.l.社を設立した。1982年には、月2、3台の製造になる。

今F308は一番長いグランドピアノである。ウラジミール・アシュケナージ、アルド・チッコリーニ、マルタ・アルゲリッチなど著名アーティストが使用している。2011年には、チャイコフスキー国際コンクールで公式ピアノとして採用された。

そんな短い歴史の中で、このFAZIOLIは、ピアノ界を駆け上り、君臨している。

連弾フォーレも、連弾ラヴェルも、二台の三善晃も、それはそれは素敵な曲だ。「唱歌の四季」の編曲には思わず快哉を叫んだ程だ。やっぱり癖が出て、この主旋律をオカリナで吹けたら、と思ってしまった。そんな事は不純な事なのだろう。

焼酎は2杯目となり、冷蔵庫に茄子の味噌炒めがあったばかりに、日本と中国の男子バレーを観ながら飲んだ。0-3で惜しくも敗れた。これは残念である。実力差が大きかった訳ではないからだ。

あの会場を去る時、受付をしていたSさんがいた。

「何処へ行くかを聞くのは野暮かな」

と言った。

「ニューミュンヘンに」

「えー、残念。2部があるから」

行けると思っていたが、これは残念だった。S.Sさんのお母様がいて、握手の手を差し出して下さった。来月のバーベキューにはまたお会い出来るのだろう。

良き1日が過ぎた。と言って、午前中は卓球をして、早退し、シャワーを浴び、そうして出掛けたコンサートだった。いい半日を過ごしたのである。
2時に目が開いて、4時に目が開いて、5時過ぎに床を出て、「春夏秋冬」の食パンを食べた。残っているピーナッツバターをスプーンで全部擦り取って、塗った。

2階に上がり、オカリナ演奏に必要なものを鞄に入れ、オカリナを入れたアタッシュケースを持って降りた。譜面台も一所に集め、いつでも出られる準備をした。7時10分過ぎの垂水東口行きのバスに乗った。

7時45分の下り電車に乗り、加古川へと向かった。平日のこんな時間。通勤の時間帯だ。座れる訳がなかった。それでも30分経つと、JRの加古川駅に着いた。

8時40分に、O君と待ち合わせをしている。Ki君は緊急な用が出来て、出雲に帰った。そこで、KikさんにCDを回したり止めたりする仕事を、急遽お願いした。その為に、機器の簡単なやり方とリハーサルが必要だった。Kikさんも加古川駅にO君の車に乗って来ていた。

40分の約束だったが、30分には私は来ていて、O君もその頃来たようだった。早速、陵南公民館へと向かった。

私にオファーしてくれたFさんも、丁度車で着いた所だった。50分頃に着くと踏んでいたのだ。

会場に入ると、椅子をを並べていた。オーディオ機器を始動させながら、CDを鳴らした。とても上手く行った。だが、以前ここでリハーサルをした時、鳴る時と鳴らない時があった。

10時から11時半までの演奏だが、もう加古の里大学のOBの方々は9時20分からラジオ体操をして、それからオカリナ演奏を聴いて頂くので、10時まで待つのもどうかと言う事で、9時45分から始めてもいいかと打診があった。私は一向に困らない。

もともとオカリナの演奏と講演を依頼されていた。公演と講演。オカリナ演奏では珍しい事だろうが、去年同じ事をしている。それを聴きに来ていて、同じように依頼された。

「出会いと仲間作り」が講演だ。これなら、何を喋ってもおかしくはない。範囲が広いのだ。

いよいよ始まった。9時頃には何の支障もなかった。上手く行く前触れだと思った。だが、エラーが出たりして、音源の音が出なかった。何度も挑戦してくれている中、私は時間稼ぎにオカリナの話や説明をした。音が出るまで待つのは時間の無駄だし、聴く人も怪訝そうになる。こんな時、臨機応変は必要だ。

ラジカセはこの公民館にはない。万事休すと思われた。だが、大学がラジオ体操などの為に持っていたのだ。早速私の傍の椅子に乗せ、その前にマイクを置いた。これで生き返った。ラジカセがなかったら、全13曲、無伴奏でやらなければならない羽目になっていた。

「色々ハプニングがありますが、こうなったら吉本になった気持ちでやります」

と言った。聴衆を退屈させてはいけない。笑わせなければ。

ラジカセがセットされてからは私が操作した。Kikさんの出番はなくなった。その分、演奏を聴いて貰える。このホールは192名が許容されている。後でKikさんに聞いた事だが、聴衆は150名位だったそうだ。それでも、私の公演と講演を聴く為に、こんなに来て下さったのだ。有り難いと思った。

皆さん、いい顔をして聴いて下さっている。私も、仲間ででもあるかのように話し、演奏した。

半分以上が済み、「かあさんの歌」になった。それまでにも何人かが泣いていたが、それはオカリナと言う楽器の特質と素朴な音の所為である。私には全員の姿が目に入る。声には出さないが、大泣きをしている婦人がいた。隣りの人が何かを言っていた。また、前の方の婦人も泣いていた。数人が泣いているのが分かった。

「かあさんの歌」の力だろう。私は作詞作曲者を牛窓に友と4人で行った時のことを話した。その張本人に、私の「かあさんの歌」を聴いて欲しかったのだ。それほどこの歌が、曲が好きだった。やっと聴いて貰えた時、懸命に吹いた。本人の前で。

しかし、終わっても何にも、一言も言って貰えなかった。この私の落胆振りは、一緒に来てくれた3人にもよく分かった。

この事に就いては、終わって外に出た時、涙が出たと言ったある婦人から「かあさんの歌」の事を言われた。

「この作詞作曲者の気持ちが、私にはよく分かります。きっと感激して、何も言葉にならなかったのでしょう」

私には、感激して喋らなかったとは思えなかった。もう歌い尽くし、歌い尽された歌だから。

「ああ、そう感じられたのですか。それは初めて聞きました。よくよくその事も考えてみます」

と言った。それもありかなと感じた。

もう終わりに近かった。最後の曲を吹いた。皆さんの拍手や笑顔が半端ではなかった。演奏できて良かったと思った。

「アンコール、いいですか」

の司会者の言葉に、嵐とは言えないまでも、拍手が起きた。アンコールの連呼と声援も起きた。ちょっとテンポのいい曲を演奏した。何度も拍手を貰って、私はホールの外に出た。

島根県出雲市出身と紹介されたので、演奏の前に2人の人と話す事になった。

1人は出雲の出身だと言う女性。もう1人は山陰合同銀行のOBの男性だった。彼は、6月1日にそのOB会で出雲に行くと言っていた。400人集まるそうだ。この2人ともゆっくり話したかったが、そうも行かなかった。

今日も、もう演奏した事は忘れてしまった。自分は気持ちよく演奏出来たし、聴衆も気持ちよく聴いてくれたからだった。真心を込めて演奏すれば、必ず伝わるのだ。今日もあっと言う間に過ぎたが、私には特別の日だった。

終わってからO君が、とっても美味しいリーズナブルな店「おおにし」を予約してくれていた。Kikさんと3人で来た。ここの昼食は女性にも大人気だと言う。

さっき聴いて頂いていた女性が数人、奥の部屋にいた。私を見るや挨拶をしてくれた。

食べ終わって帰ろうとする時、奥の部屋に会釈をして外に出た。すると1人の婦人が出て来て、

「あの俳句をもう1度教えて下さい」

と言った。

「『一枝の椿をみんとふるさとに』ですよ」

私は出会いの話で、祖母は私の恩人の1人だと言った時、かの有名な原石鼎に師事していた事を話し、出雲の一の谷公園に、その俳句の句碑がある事を話したのだった。

ふるさとへではなくふるさとに。その「へ」と「に」の違いも話していた。1字で深みが全く違う事を。

O君とKikさんは、フライング・ディスク・ゴルフをやっている。そこで、そのゴルフの出来る所に連れて行ってくれた。フリスビーと言っているディスクで、私は100均のもので孫達と遊んだ事はある。だが、このゴルフに使うものは少し重く、値段も2,000円はすると言った。Kikさんなどはもう10年以上やっていて、そのディスクを14枚も持っていると、O君から聞いた。使い分けると言う。ゴルフのアイアンを思った。2人のどちらも本格的である。

松林の中に一般的なゴルフのホールのようなものがある。それはホールではなく、ディスクが空中で入るような代物だった。私には初体験となったが、結構な運動量だ。18ホールあると言うが、結局は7ホール体験した。

難しいものだ。一番成績の良かったのが、ボギー(全てパースリーだ)である。木に当たったりして、中々上手く行かない。Kikさんのディスクの動きは、流石に真っ直ぐ遠くに飛んだ。また、木を避ける時には右側から回って飛ぶような投げ方をした。ホームも様になっている。2人のディスクは美しく飛んでいく。言わずもがなバーディーやパーで、流石の実力だ。楽しいひと時だった。

最後に喫茶店でコーヒーを飲んだ。3人ともホットコーヒー。私だけ、苺の乗ったショートケーキを注文した。

すぐそこが山陽電車の浜の宮駅だった。車をそこに置いて、駅まで送ってくれた。親切にもKikさんは、

「東二見で特急に乗って下さい」

と言った。その通りにすると、とても早く山陽の垂水駅に着いた。王将の餃子とも思ったが、えびすの握り寿司を買って帰った。安いけれど8貫入っていた。もうとっくに食べてしまっている。鹿児島の西酒造の芋焼酎「宝山」を飲みながら食べた。もう、なくなりつつある。

流れる儘に過ごした演奏と講演。楽しかった。聴衆を呑み込んでしまえば、これこそ私の独壇場だ。気持ち良く演奏出来た。これが何よりだ。

あれだけ待っていた、長かった演奏&講演会が、こんなにあっと言う間もなく過ぎ去るものか。

茶色の小瓶に残った「宝山」を全部入れてストレートで飲もうと思っている。氷を入れて水を加えたいのだが、立って冷蔵庫まで氷を取りに行くのが面倒である。25度だけれど、流石にきつい。これぞ、元の味。俄かに胃の辺りが熱くなった。

公民館を出る前に、

「お話させて貰ってもいいですか」

と、加古川市の女性職員が口を開いた。

「今度、お願いしていいですか」

加古川へは何度か演奏をさせて貰いにやって来たが、またオファーが来た。加古川とえらい親しくなった気がした。加古川の人達って、とても明るく親切で、親しみの持てる人が多く住んでいる所だなと思った。