午前の9時30分が過ぎようとしていた。ウオーキングに出掛けるかどうしようか思案に暮れる時間だった。

45分は掛かるいつものウオーキング。戻ったら必ずシャワーをしなくてはならない程の汗をかく。これも運動で、早歩きの所為かも知れない。いつもTシャツは後半位から徐々に湿って来る。

高速バスに乗る時間から逆算すると、今出掛ける事が得策かどうか。シャワーをして準備をして、10分間の余裕がある位だ。こんな場合、それを余裕とは言わないかも知れないのだろうが。

止める方を決断した。途端に本当の余裕が出来、オカリナの練習をした。オカリナフェスティバルがもうそこに控えている。

バス到着まで3分を残し、バス停に立っていた。自販機で「午後の紅茶」のレモン味を買って飲みながら。これが特に好きなテイストだ。本来ならコーヒーをブラックで飲むのが1番だが、缶コーヒーは私には合わないし、家ではいつも飲んでいるから、紅茶が新鮮で美味い。

三ノ宮に着くと、神戸市役所の1号館に急いだ。12時10分までには、15分の時間があった。椅子が殆ど埋まっていて、パンフレットが置いてある椅子が幾つか見受けられた。誰かが席取りをしているのだろうか。私は、もう159回になるシティーホールコンサートを立って聴かなければならないかと覚悟を決めた。すると係の人が、

「空いている所に座って下さいよ。パンフレットが置いてある所は空いていますから」

と言った。前から3列目の椅子が1つ、両側の人の圧力を感じながらぽつんとしていた。私はそこに座る事が出来た。

今日のコンサートは、「フルートカルテットSion《四音》」によるフルートだけ4人の演奏だった。

いつも12時10分から12時45分までのミニコンサートだが、これは月に1度あるので、単純に計算しても13年は続いている事になる。

青と言っても濃かったり薄かったりしているが、まるで海の色を着た人魚かと思わせる程の鮮やかなステージ衣装だった。コバルトブルーの手には銀色のフルートがキラキラと光っていた。

松浦詩子、来田千佐登、富岡貴代、小松香織の4人で、皆間違いなく個性的な美人だった。フルートのカルテットなどは、聴いた事もなかった。きっと綺麗な音が流れるだろうと思うばかりだった。

フィオリトゥーラ           八木澤教司  作曲

木星のファンタジー         伊藤康英    作曲

4seasonsより~SUMMER    小松香織   作曲

ムービーメドレー         𡈽方逸郎   作曲

Amazing Bach!        小松香織    作曲

アンコールは、漢字か平仮名か分からないが、「あした」と言う曲だった。市役所の職員の昼の休み時間に演奏する事になっていて、終了時刻の45分が過ぎると片付けが大変になるので、担当者は時間内に終わるのを望んでいる。だが、これはアンコールがない訳がなかった。全員が少しずつ喋ったが、それがもう少し縮められていたら、楽に45分に終わっただろうと思う。

アンコール曲が結構長く、50分を過ぎて終わった。こちらとしては、もう数曲聴きたい位だったから、アンコールはそんな気持ちになった時、自然に拍手が巻き起こるようになっている。

1+1+1+1=4は算数の式と答えだが、今回は1+1+1+1=10の世界ではなかっただろうかと思えた。大阪で聴いた3人のフルート演奏と比べると、それも良かったが、少しレベルが違っているようだった。上にはまだ上があるが、これが無料で聴けたのはラッキーだった。奈良在住の人のようである。

特に好きな曲もあったが、どれも素敵に楽しく聴けた。4人共普通のフルートで始まったが、後は富岡さんと小松さんはそのフルートで、松浦さんはテナーフルート、来田さんはバスフルートで演奏した。テナーやバスのフルートは管が少しずつ太くなり、また長くなるので、Jのように曲げられている。それで音に奥行きが出て、畢竟感動を齎すのだ。

また機会があれば是非聴きたい。無論ソロなどでも演奏活動の最中にあるようだが、これを機に、神戸でも演奏して貰いたいものである。

帰りは美味しいコーヒーを飲み、元町から三宮に移ったヤマハ楽器を覗いてみた。元町とは違って、綺麗で広々としていた。1階は楽器売り場になっていて、2階は楽譜だけではないが楽譜売り場になっていた。1階には、オカリナが所狭しと置いてある。元町ではショーウインドーに入れられていたが、ここでは高価なトリプレットまで触れる所に置いてある。誰かがきっと壊すだろうと思うが、機種もアケタオカリナ中心ではなく、フォーカリンク、ポポロ、オオサワオカリナなどが、並んでいた。

すぐ傍に試奏室が2つあり、そこで試奏出来るので便利だ。

何も買わなかったが、3,500円もするオカリナのエチュード集があった。いいなとは思ったが勿体ないので、さっと立ち読みをしてその人の考えを読み取らせて貰った。2,000円なら買ったかも知れないし、1,000円なら必ず買っていた。

「トト姉ちゃん」の楽譜もあったが、これも買わなかった。無暗に買う事だけは避けようと思っている。これから、何で入用になるか分からないのだから。

そうそう、コーヒーを飲む前に、吉野家に入った。牛丼にしようと思ったが「麦とろ鰻御膳」があり、オクラや味噌汁は勿論の事、肉付きと鰻付きがあった。鰻の方が高かったが、30日の丑の日に食べられるかどうか分からないので、1切れだけでも十分と思い、鰻付きの方を食べた。中々の組み合わせで、これは私の一押しだ。多分880円だったと思う。

家に帰ると相撲を観て、朝出来なかったウオーキングではなく、ジョギングをした。汗は凄く、シャワーの後はテレビを観、オカリナを吹いたら井岡のボクシングを観て、やっとブログを書き終わった所だ。
義母の七回忌が豊後高田市の嫁の実家で行われた。服は何でもよいとの事で、V字の緑色のTシャツに夏用の白っぽく軽い上着を用意しただけだった。

10人の親戚だけが、17日は誰も住まなくなった家に、9時30分に集まった。暑い事は暑かったが、辛抱出来る暑さだった。

以前は亀の井ホテルと言っていたが、今はAZと言う名称になっている。相変わらずリーズナブルで、泊まるだけなら持って来いの宿舎だ。そこから車で、長兄夫婦を除いた8人がこの家にやって来た。これが、主な目的だった。

お坊さんが10時にやって来て、かなり長い読経が始まった。30分位だったが、長いと思ったのは、修業の為だと、その間正座していたからだ。最後の方になると足が痺れた。こうして、親族に依る行事は終わった。

皆ラフな格好で、こんな七回忌には出会った事がなかった。しかし、男は皆、ポロシャツと言えども襟のあるシャツで、幾ら何でも私はTシャツだけと言うのは憚られた。それで、1人上着を着ていた。それで良かったと、自分で納得した。


前日16日は未明車4時に車で家を出て、大分には昼の1時頃に着いた。その日はAZに泊まるだけなので、福沢諭吉の生家は既にもう行っていて、今回は名古屋場所もまだ続行している事もあり、宇佐市の「双葉の里」に行ってみた。後の時津風理事長である第35代横綱双葉山の事がビデオも流れていて、よく分かった。

学校の成績は優秀で、全部「甲」だった。その双葉山が不滅の69連勝を成し遂げているのは、周知の事実である。

資料展示室に入る前に「超六十連勝力士碑」なるものが外に建てられていて、それは60連勝を超えた力士の六角柱だ。超六十連勝の3人の力士の簡単な略歴と手形がある。私はそれぞれに自分の手を当ててみた。大体3人の手の指が更に2センチ位長かった。確かにこんな手で叩かれたら吹っ飛ぶだろうと思われるが、別段お化けのようだとは思わなかった。

双葉山、白鵬、谷風の3人がその対象だった。白鵬もその碑に名を連ねている。63連勝でストップだった。1年の開催回数が少なく、11日だったり13日だったりした頃の双葉山の、何年(約3年)も掛けての69連勝は途轍もなく凄いものだと思わせられる。

無料な上にお茶まで頂いた。それから、ゆっくりとホテルに向かい、相撲を観た。

2歳の男の子も入れて、8人で夕食を摂った。義理の次兄とはビールや焼酎を酌み交わした。5人で、加古川から来ている。それで初日はお仕舞いだ。


17日の法要が済むと、近くの蕎麦屋さんに行った。皆冷たい蕎麦を注文していたが、熱い蕎麦は2人だったか。私は熱くて辛い蕎麦にした。久し振りに辛いものが美味かった。これは私には辛いとは言えなかったが、同じもので冷たい蕎麦を頼んだ者は、その辛さに悲鳴を上げていた。

夜は全員10人で、臼杵の「湯の里」に泊まる事になっていた。その夕食を6時30分にしていたが、加古川からの5人は、私と嫁とその妹の3人並びに長兄夫婦とは別行動をしていたし2歳の子供もいて、やや時間は延びた。そののんびりが、気の置けない者同士の良さかも知れなかった。

ここに来るまでに、お坊さんの常住しているお寺に、こちらの5人は行った。ここは「泉福寺」と言い、大分では曹洞宗の本山のような寺だ。石原軍団はここに来ていたのだ。舘ひろしや神田正輝の写真もある。何と、ダライラマも来ていたのである。

和尚さんが、

「本堂まで上がって、そこから回廊を下ると景色も良いですよ」

と言うので、長兄の嫁と義妹との3人で上がった。だが、どこから入っていいか分からなくて、下まで石段を下りてしまっていたのだ。再び3人で本堂まで上がり、そこを開けて中に入った。自分で開けなければならないのが、盲点だったのだ。

綺麗に磨かれた回廊の床。窓の外には楓も見える。秋には紅葉で綺麗だろうと話しながら、靴は手に持って下りた。スカッとした気分だった。だが、熱気には勝てなかった。

そうして、そんな規模のお寺を後にした。

温泉の湯けむりを山間に見ながら来た「湯の里」だ。夕食までに早速湯に浸かる事にした。気持が良い。腕がぬるぬるした。表現は、つるつるしたと言う方が綺麗だが、この方が薬効がありそうに響くと思う。実際に、ぬるっとしたのだ。

10人だけの食事の部屋に入った。まあ、家族宴会とでも言えばいいような広さだった。先ずは生ビール。次兄は次から麦焼酎にした。私と長兄はひれ酒を飲んだ。香ばしい、フグのひれの味が何とも言えぬ美味さを喉に引き込んだ。次からは芋焼酎に切り替えた。

長兄は、フグのコースを注文してくれていたのだ。てっさやフグの寿司、唐揚げ、鍋と、勿論だが全部フグだった。大分は鮮魚にも恵まれていて、関アジや関サバ、鱧などの他も、豊富な魚類で満ちている。臼杵は殊にフグで有名なのだ。堪能した所で、最後は卵雑炊で終わった。

2歳のYちゃんは歌と踊りが好きな様で、何度も、

「コチコチカッチンおとけいさん コチコチカッチンうごいてる おとなのはりと こどものはりと こんにちはさようなら コチコチカッチンさようなら」

と、頭を横に動かしながら振り付けもして歌っていた。今なら、子役に間に合いそうだ。可愛い姿に、誰の目も細くなっていた。おじいちゃん子で、いつでも膝の上に抱かれたがった。

その後は、長兄の部屋に皆集まった。また焼酎を飲んだ。長兄もお嫁さんもそうだが、ここまでするの、大変だったと思う。いつも有り難く、お疲れ様でしたと言いたい。

私は少し曇りがちな空ではあったが、夜の3時前に目が開いたので外に出てみた。本当は、煌めく、降るような星が観たかったのだ。だが、やっと目に入ったのは、光の弱いカシオペアだった。その反対側には北斗七星がある筈だが、こんなに周囲に明かりもなく好条件でも、曇っていては仕方がない。辛うじて北極星は見付かった。頭を首が痛くなるまで反らせて、薄い星空を暫く観ていた。

流れ星がさっと過ぎた。帰るの合唱がグワッグワッと迫り、それは天に上って行くようだった。斎藤茂吉の歌を思い出していた。

「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」

それから部屋に戻り、再び気持ちのいい布団に潜り込んだ。ここは2度目である。その時は、今よりは随分星が瞬いていた。


18日の朝は8時から朝食にしていた。和食に決まっている。量は贅沢だったが、そうそう美味いとも言えなかった。事情もあるのだろう。だからと言って、不満な訳ではない。

ここで全てが終了した。加古川組も5人が帰って行った。こちらも2人、長兄とお嫁さんと義妹の3人が乗った車の後を追った。義妹は空港に送って貰う。東京に帰る為だ。その岐路で、私達は車の中から手を振って別れた。

折角だからと、山口県岩国の錦帯橋を観る事にした。久し振りの感動で、素晴らしい思いをした。河原に車を置き、橋を歩いて渡った。300円で往復出来るとあって、その感激は一入だ。

弧になった橋が3つ連なっている。遠くからはなだらかに見えるが、実際に渡ろうとすると、眼前の円弧の迫力と頂点への高さが感じられる。それだけで、渡って良かったと思った。

流されない橋として有名でもあるが、1673年に渡り初めがなされている。1674年にすぐに流出。また渡り初め。1922年には「名勝」の指定を受け、1950年には、文化財保護法による「名勝」となった。延宝2年(1674)より不落を誇った橋もキジア台風による洪水で、昭和25年(1950)に流出した。1951年に再建工事。1953年渡り初め式が行われ、2001年には平成の架け替え工事が起工し、2004年に平成の保管工事、完成式、渡り初め式となる。

ここに来るちょっと前に、「橋出」と言う地名を見た。それは当時錦帯橋の維持管理の為に、橋出米(はしだしまい)」と言う税金が、領民全員に収入に応じて納めるように設けられているものだった。不落を誇った錦帯橋は、こうして長い間支えられていた事も分かった。だが、幕末になると税制が破綻し、メンテナンスが出来なくなtったそうだ。

橋の長さは193.3m(旧橋長195.7m)、幅員は5m(有効幅員4.2m)だ。立派な遺産だと思う。

また向こう側に渡ると、佐々木小次郎の燕返しの技を編み出した松がある。

ソフトクリームを売っていた。なんと70種類位のソフトクリームが売られていた。私達は、バニラにした。

日も少し暮れかかったので、もうどこにも寄らず岩国 ICから山陽自動車道に入った。只管走りに走ったが、予想通りの10時半頃が到着時刻となった。閉め切った雨戸などを開け、独特の匂いを追い出した。シャワーをしてTVを観たりPCを観たりしていたら、真夜中を通り過ぎて3時になった。それから徐に寝始めたが、6時には目が開いていて、それから夕方になっても体はぐったりしている。

相撲が終わったらジョギングをして、また周りの景色を見てみたい。もう合歓の花は枯れたりして満開状態ではないが、北九州自動車道路から見える山々の美しい景色に癒されながら、まだ今が盛りの合歓の花が幾らかでも見られた事は、更なる喜びと感動を呼んだ。

もう終わってしまった、充実してはいたが呆気ない3日間ではあった。今思い出してもまだ鮮やかだが、その脳裏には同じ映像が、思い出そうとする度に流れるだけである。
珍しく黄蝶がひらひらと飛んでいた。高く、低く。バス停の前の車道の上を。

アスファルトの上に止まった。手前の車の左側への動きが気になった。早く、上に飛んで行け。そう思った。そこまで行って抓んで安全な場所に移動させる事も考えたが、車の動きは左へ連なっていた。風圧で少し飛ばされたが、次の車の擦れ擦れに保たれた。

もう轢かれるだろうと誰しも思っただろう。軈てその黄蝶は動かなくなった。

やって来たバスに乗った。空腹を感じた。昼食を食べ忘れたのだ。11時42分のバスに乗って、垂水へと急いだ。急いだってどうにもならないバスに身を任せて。

快速に乗って須磨駅に着いたが、そこには普通電車が待っていなかった。垂水からの普通を待つしかなかった。

普通に乗り換え、新長田駅に着いた。12時30分にKi君と待ち合わせをしている。オカリナを一緒に練習している女性が、聴きに来たいと言っていた。だが、その姿はなかった。

焼きそばパンとレモン味の午後の紅茶を買って、新長田の噴水の側のお尻安めの椅子に凭れて食べ始めた。急に鳩の一群が私の元に舞い降りた。その数は百羽までも行かなくても、それに近い感じがした。驚いたの何の。私はもてるのかと思ったりした。

何の事はない。私のパンを狙っていたのだ。恐れる鳩は1羽だにいない。食べて食べて、飲んで飲んで。もう貰えないと思ったのか、少しずつその場を離れて行った。ちょっとでもパンの切れ端を投げ与えようものなら、隣りにいる人にも迷惑を掛けた事だろう。

向こうにKi君の姿が見えた。手を挙げると、彼はこちらにやって来た。

もう1度駅に入ると、45分までに来るかも知れない人を待った。誰も来なかった。2人は奄美会館に歩みを向けた。

分かり難かったが、その3階に上がると、シマさんがいた。25、6人の人がいた。もう私とはよく話もした事のある人がいて、二分の一は、少なくとも知った人だった。

1時になると、シマさんが主宰するばしゃ山会の教室内の発表会が始まった。彼がこしらえた5枚綴りのパンフレットは時間の掛けられた立派なものだった。1番から15番まで生徒さんの演奏があった。1人に対して1曲が基本で、中には2曲演奏しながら歌う人もいた。

皆さん、自分のやって来た演目の披露をして、それは其々に力を発揮していた。シマさんは流石に師匠である分、彼の声は未だに衰えてはいなかった。朝花節以下、発表する人の歌詞は悉く彼が載せ、その奄美の言葉の意味を翻訳してあった。

私はゲストに呼ばれていて、7番目がその演奏だった。

1番前で扇風機の風を浴びていた私は、前に出ると急にその風も当たらなくなった。クーラーの冷房も、殆ど利かなかった。それは後から感じる事であって、演奏している間はそれはなかった。

精一杯の演奏を心掛けるしかない。ああ、聴きに来たいと言っていたOhaさんは、若い誰かと始まってすぐにやって来た。私の傍に来るよう手招きをしていたから、後ろに来て座布団に座った。

私が喋った事は割愛するが、演奏曲は「故郷の原風景」「船頭小唄」「アランフェス協奏曲」「さとうきび畑」「千の風になって」だ。示し合わせたように、シマさんがアンコールを要求すると途端に「アンコール、アンコール」と言ったお決まりのコールが始った。そらの陽さんが、シマさんから依頼されていたのだろう、私をやたらに写していた。

アンコールは「剣の舞」だ。それが終わると、再びアンコールはなかった。2曲用意していた私は、

「私からアンコールをさせて下さい」

と言った。そして、徐に演奏したのは「島唄」だった。

ここで休憩となり、サータアンダギーとお茶が振る舞われた。人参やジャガイモの入った、もちもちしていて美味しいものだった。

勿論だが、彼がとりを取る事になっていた。突然、彼はその前にそらの陽さんにオカリナを演奏するように言った。彼女はオカリナは持って来ていた。「浜辺の歌」と「思い出のアルバム」をアカペラで演奏した。そらの陽節の、あのビブラートが炸裂した。

それで席に戻ろうとするとアンコールの声が掛かった。私は透かさず出しゃばって、「ふるさと」を一緒に吹こうと言った。ハモる面白さを伝えたかった。そらの陽さんが先ずソロで。2コーラス目で私が下の部分を吹いた。

最後の最後、「六調」をシマさんが奏で始めた。有志が踊り出した。今度はゆっくり踊りを観られると思っていた。だが、案の定、或る人が私を踊りの輪に入るように促した。遂に捕まったと思った。すぐに立って踊ったが、手の合わせ方や仕草が上手く行かなかった。そらの陽さんは写真を撮っていて踊らなかった。

終わった後は、板宿にある飲み屋さんに集まる事になっていた。狭いので、誰も彼もと言う訳には行かなかった。このメンバーの1人がそこのママさんで、先に帰って暫くしたら来てと言われていた。この3階は暑い。シマさんは何度「死にそうだ」と言って扇風機の側に移動した事か。

2階に移動すると、皆生き返ったように「涼しい!」を連発した。3階の半分位の部屋だった。

少しして、バスに乗った。バス停に着いてからが遠いような気がした。

「遠いなあ」

と言うが早いか、その店はすぐ右手にあった。

「近いなあ」

と私は言った。勝手なものだ。

カウンターではない小さな席に男性6人が上がった。後はその壁側に丸椅子を並べ、女性4人が座った。暫くすると1人2人と、さっき一緒にいた人も、いつもこの店に来ているだろう人などが集まって来た。カウンターも6、7人が座って満席になり、溢れかえった。

料理が奄美の郷土料理のように見えて、フレンドリーで楽しいものとなった。生ビールの後は、「まんこい」と言う黒糖焼酎を注文した。

オカリナを吹いてと言われた。他のお客さんもいるのに、大丈夫かなと思った。

私のアタッシュケースの中の11本のオカリナを見せた。今は私が好んで使っているお気に入りのオカリナを詰め込んでいる。そらの陽さんにファエンツァの5Cを試奏して貰った。彼女には好評だった。そのファエンツァも、5年振りに改良され販売されている。タイミングのものだと思うが、もうどんな事があっても買う事は出来ない。それだけ高価なものなのだ。音もデザインも満足度は高い。

私がすぐに吹くならアカペラでの「リュブリャーナの青い空」だ。飲んでいる割りには間違いもせず吹けた。演奏根性なのだろうか。例え飲んでいても、これだけはいい加減に出来なかった。

シマさんが長い三線を弾くと、どんどん入れ替わって歌って行く。この店には、特にそれが相応しい気がした。

もう1度アンコールがあって、今度はラジカセで伴奏を鳴らしながら「かあさんの歌」をソプラノB♭管で吹いた。それでオカリナは終了となった。

9時前になり、シマさん夫婦も私も、後数人も帰る事になった。残っている人もいた。西に帰る者は3人で、初めて出会った男の人とそらの陽さんと私は、新長田駅を目指して高架沿いに歩いた。だが、無暗に遠い。結果、鷹取駅まで歩いていた。

そらの陽さんとトリプルオカリナの話をしていて、彼女に言われなかったら垂水駅を過ぎる所だった。慌てて降りた。男の人は加古川まで。そらの陽さんは姫路まで乗る事になる。

垂水駅で降りた私は、吉野家で特大の肉皿を買った。帰ったら飲むあてにする積もりだった。

バスが来たが乗らなかった。そして、次のバスに乗るべく、ベンチの1番前に座って待つ事にした。オカリナの入ったアタッシュケース。ラジカセの入ったバッグ。楽譜など小間物諸々の入ったバッグ。肉皿。それに、頂いたものの入った紙袋などがやけにかさ高く、そして重かったからだ。バスの1番前の左側の席に座って、荷物を置きたかった。

そらの陽さんからは揖保乃糸の冷や麦を頂いた。好物だ。また、聴きに来てくれたOhaさんからは日本酒を頂いた。それは、開けて吃驚だった。包装紙をビリビリと破ると、そこから出て来たのは720mlの「獺祭(だっさい)」だった。あの味の感激が蘇った。特大の肉皿ももう終わりに近い。「獺祭」と吉野家の肉とのコラボが、絶妙な味のハーモニーを醸し出している。

ウインブルドンは、マーレーが3年振りに2度目の優勝を遂げた。この死闘も終わってみれば瞬間だったが、私の1日も、瞬間に終わった。もう全てが固定されてしまい、終わった瞬間からの過去が、どんどん遠ざかって行く。オカリナの演奏が出来た事。シマさんが演奏の機会を与えてくれた事に、改めて感謝したい。

どれだけ練習しただろう。そんな積み重ねが、瞬間に終わった。瞬間瞬間を歩み続けることこそ、生きる実感の場だと思った。私は私のオカリナでいいし、私のオカリナ以外の何ものでもないなと思う。
もう忘れてしまったジョギング。思い出してはウオーキングをする位。西瓜腹が復活しそうだ。なんて、もう立派な西瓜が風呂上がりの向こうの鏡に映る。肌色の西瓜なんて、見た事もない。

「とと姉ちゃん」が済むとぼちぼち子供達の登校も終わりに近くなり、絶好のウオーキングタイムがやって来る。4キロ弱の変わらぬ道程を歩く。2、3歩歩く度に、ミミズがコンクリートの歩道の上に縮んで干乾びている。横に数匹が並ぶ状況だ。

白内障の手術をしてからと言うもの、周りの木々の葉がくっきりと青い。葉脈だって見える事に、まだ感動する自分がいる。一番遠い頂点から戻り、スタバの所でもう1度ループする。さっきの頂点に再び来ると、今度は反対側の道を只管家に向かうのだ。

その途中、合歓の木に、ふわっとしたピンクの花が真っ盛り。7、8メートルの大きな木で、横幅も7、8メートルはある。8メートル四方の額縁に納まるのを頭に描きながら、歩く。まだ、そんなに暑くはない。それにウオーキングだから息が切れる事もなく、早目に歩いて家に着く。45分掛かった。

帰ると風呂に入り、クーラーを入れ、「よ~いドン!」を観る。11時を過ぎるとちょっとだけオカリナの練習をした。

ラジカセをバッグに入れ、楽譜とCDをA4対応の鞄に入れた。アタッシュケースに入れた私のオカリナ。自分のものでこれ以上はないオカリナが詰まっている。12本だ。それ以上必要なら、A4の鞄に入れる。それと譜面台。

昼食も、出来るだけカロリーの少ないものを食べ、1時15分を待った。須磨の竜が台の同期の仲間の家に向かう。35分には着いてしまった。ここに、他の仲間と50分に集合する事になっている。一緒に入ろうと言う計画だ。

奥さんが出て来た。

「入って下さい」

と言った。計画の話をすると、

「馬鹿みたい」

と、親しみを込めて言われた。が、外の温度は35度。中はクーラーで涼しいので、待つくらい問題はない。TVを観ていた。訪ねたOさんは車で出掛けているそうだ。「えっ?!」と思った。そんな事出来るのかと。

彼が戻って来た。姿を見て、遊びに来たような感覚に陥った。彼の家に属した駐車スペースに2人の車を縦に並べた。その内、5人が乗った車がやって来た。こんなに沢山来る事になっていたのかと思った。更にもう1人が車で来た。敷地内のスペースの外に2台の車が並べられた。

私は4つの荷物を肩に掛けたり持ったりして、初めてのOさんの家に上がって行った。

シマさんを始めNさん(女性)、Nさん、Tさん、Yさん、Mさんと私の7人が訪問した。ソファーに座ったり、木の椅子にすわったりした。Oさんは奥さんと2人で、色んな話をしてくれた。Oさんこそ癌ステージⅣと宣告された本人である。

昨年の暮れ、病院の医師から初対面で急にステージⅣを告げられた。そして余命1年か1年半だと。延命治療はどうするかまで。Oさんの気持ちはどうだったのだろう。多分、寝耳に水とはこの事だと思った。彼の親類縁者に癌になった人はいない。本人は煙草も吸わない。

この医師の語り口の理不尽さから、病院を換えた。その医者は笑顔を絶やさず、彼に応対した。そこで治療をする事に決めたと言う。飾られている絵さえ統一されていて気持が良いと言った。それからは通院で抗癌剤を貰って飲んでいる。今日はとても調子がよく、それでこの日を彼は指定したのだ。水1滴も飲めない日が1週間続き、脱水症も味わったそうだ。

今もそんなサイクルになっているようだが、肺腺腫も小さくなっている。転移も可能性はあるが、それは断定出来ない状態にある。そんな隙間に木洩れ日のように見える希望が、彼の顔も奥さんの顔も笑顔にしていた。元々包み隠さず話してくれる性格に私達は和み、彼のテンションは上がっていた。どちらが病人か分からない位、彼は何事もなかったかのように元気だった。

2月20日に、私は彼にメールをした。彼はメールを返して来た。長い丁寧なメールだった。その中に、

「入院して弱気に後ろ向きになってたら、Sさんオカリナ聞かせてくれますか???」

とあった。私は、いつでも呼んで、と思っていた。

先日の我々同期の会でOさんの見舞いに行く話があった。代表で行く話が出た時、私はオカリナの話をした。それで、私も行く事になったのだ。もうかなりの時間が経った頃、Nさんがオカリナを演奏するように言った。Oさんがどう思ったかは知らないが、私は吹く事にした。

「何曲吹いたらいい?」

とOさんに聞いた。彼は、

「何曲でもいい」

と言った。それでも、こんな場合の限度はある。

皆はソファーの後ろの台所にまで下がったりして、それは立体的な聴衆の配置になった。準備をして、座ったまま演奏する事にした。結局4曲演奏した。奥さんは涙脆いのだろう。何度も目頭を拭っていた。少なくとも、感動して貰えた事で、来た甲斐があったと思った。

「もう失礼しよう」

と誰かが言った時、1時間半が過ぎようとしていた。記念に集合写真を撮った。このまま元気になって貰いたいな、と思いながら皆はOさん宅を辞した。

彼は庭でミニトマトを作っていた。6種類のミニトマトを、である。皆は爪楊枝に刺して、それを食べた。甘くて、塩要らずの美味しさだった。そのなかの黄色のトマトは、栄養価が他のに比べると3倍も高いと説明してくれた。奥さんと一緒に植えたり収穫したりすると言った。この姿こそ、お互い信頼に溢れた姿だと思った。

奥さんの愛が、彼を包んでいる。だから、偏食はない。適当な運動もしている。ストレスは少ないのだ。これが内助の功と言うのだろうと思う。

心の持ち様や状態に障害や抵抗がなかったら、ステージⅣと言えども快方に向かうとも思える。「病は気から」と言うのは、強ち嘘ではない。前方に希望を見出す事が出来れば、言霊が快方に向かわせる事だってある。この夫婦はそれに向かって、二人三脚であらゆる可能性を考えながら歩んでいる。

誰がいつそんな状態になるかは分からないし他人事ではないが、こうして行けた事、元気そうな姿が見られた事を喜ぼう。帰る時彼は車の中の私に言ってくれた。

「感動した」

と。オカリナって、やっぱり癒す力があるんだ。元気になって貰いたい為に、昨日の夜慌ててダビングしたCDを2枚、オカリナを吹く前に渡していた。

「これ、きっと元気が貰えるし、癒しにもなると思うので聴いてみて」

と言って。小林エミのダイナミックなジャズヴォーカルと川井郁子のヴァイオリンのイージーリスニングのCDを。小林エミさんのオールディーズやジャズは毎年聴きに行っていて、私とは親しい。また、川井郁子さんにはCDにサインをして貰ったし、ちょっとだけ話して握手をした。私が実際に知っている2人の心と魂が、そのままO君に届いたらと思って、この2曲を選んだ。

今を生きる事が大事だと私は考えているが、奥さんもそんな事を言った。私もオカリナを聴いてくれる人がいる限り、懸命に生きたいと思った。車に表示された外気温は38度を示していた。

家に着くと片付けをしたりTVを観たりオカリナを吹いたりして、5時45分にジョギングに出掛けた。朝はウオーキング、夕方はジョギング。こんな事を1日でやったのは初めてだった。これが毎日実行出来たら自分には理想的だが、ジョギングは各地で猛暑が伝えられる中、気温もここでは下がっていて、少々暑くても風が吹いて来たりして、気持ちがいいものだった。だが最後はふらふらで、以前は30分を切っていたものが、36分も掛かってしまった。

それでも気力を充実させて頑張らなければ、「肌色の西瓜の哀愁のオカリナ奏者」と言われてしまうだろう。
コンサートの予定を見ていたらフルートのコンサートがあった。フルートの優しい音色を想像しただけで、カレンダーに予定として入った。

「明石子午線ウインドオーケストラに所属するフルート奏者です。クラシックやポピュラーなど色々なジャンルの曲をお楽しみ下さい♪」とあった。大体「NESSO”WITH”Concert」の演奏は、大きく当たり外れがある。それもそうだろう、只だし、プロアマを問わず、どんなチームでもエントリー出来るからだ。

態々ホワイティ梅田に出掛けて聴くので、交通費だけでちょっとした演奏が聴けるのだ。只だからと言って馬鹿にはならないが、情けなくなった演奏もある。

だが、これは変な言い方で恐縮だが、当たりだと信じた。2時から1時間の演奏だが、始まる25分前に70脚程並べられたパイプ椅子に座った。もう7割近くの人が座っていた。3分早く始まったが、もう満員になっていた。常連のおじさんやおばさんが前列辺りを陣取る。毎日のようにやっているので、きっと毎日聴きに来ているのだろう。定かではないにしてもそう思われた。

「子午線フルートトリオ」と名付けられたメンバーは戎知子、寺本貞美、加賀景子の3人だった。リハーサルを長めにやっていたので、出演者の顔は分かっていた。それに、きっと楽しい演奏になるだろう、と言う事が分かった。

誰が誰かが分からない。いつかのコンサートでは、とうとう名前を紹介しなかったグループがあった。これは失礼だと思う。子供が突然、知らないアケビを食べさせられるようなものだ。だが、途中で、司会者が名前を紹介した。

加賀景子さんは最初の2曲をトリオで吹くと、後は全てピアノに撤した。

フルートアンサンブル
 フルート・ドルチェ                 伊藤康英作曲
 小さな世界                     シャーマン兄弟作曲

フルート2重奏
 花束を君に                     宇多田ヒカル作曲
 黄昏のワルツ                    加古隆作曲
 4羽の白鳥の踊り~白鳥の湖~        チャイコフスキー作曲
 愛の讃歌                      アルグリード・モノー作曲
 リベルタンゴ                    ピアソラ作曲

ピアノソロ
 Summer                      久石譲作曲

フルート2重奏
 アマポーラ                     ホセ・ラカジェ作曲
 カーペンターズ・セレクション          カーペンターズ作曲
 キャラバンの到着                 ミシェル・ルグラン作曲
 オリエンタル・ウィンド               久石譲作曲

カーペンターズのセレクションは、司会者が3曲口にした。正確かどうか分からないが、確か「青春の輝き」「イエスタデイワンスモア」「トップオブザワールド」の3曲だったと思う。アンコールは、何処かで聞いたし、私の楽譜集の中にあったような気がするが、これは確認が出来た時にまた載せようと思う。

早速「花束を君に」が入っている所などオーケストラの1員の流石さを感じさせられた。2重奏と言うのが魅力で、この重なりが素晴らしく、気持ち良く安心して聴けた。

帰ってから調べて見たが、この「子午線ウインドオーケストラ」は団員を募集している。フルートは現在5人所属しているようで、その中の3人がこうして演奏して回っているようだ。ここはプロが演奏しても出演料は入らず、入場は無料だ。だが、普段は2,000円とか3,000円を取っているので、楽しく聴ける実力があったのだ。

このオーケストラは最近リピーターが増え、また定期コンサートでは満員になるそうだ。最初は団員も少なく、聴衆も少なかったと言う。因みに、今日の戎知子さんはこのオーケストラの団長だそうである。

帰りには久し振りに32番街の28階のKYKでトンカツを食べながらビールと焼酎を飲んだ。家で晩酌は殆どした事のない私だったが、よく晩酌もするようになった。家以外で飲む事も入れると、6月15日の東京に行った日から今日まで、毎日飲んでいる。こんな事なかったのだが、今日で18日連続で飲んでいる事になる。週に1度は休肝日を取ると言う、かつての私には関係のない話が、今ここにのしかかって来る。

孫にはコンサート会場の近くの駄菓子屋さんで小さなお菓子が沢山入った1,000円の詰め合わせを買った。思い切りが必要だったが、家に来る度に2人に1袋ずつ、色々なお菓子をやれる楽しみが出来たようだった。他にもお菓子のお弁当やお菓子の握り寿司。私用には、昔よく食べた都こんぶ(酢こんぶ)を買った。

もう自分たちの家に帰っている時間だったが、まだ我が家にいた。下の孫はちょっと目を開けたがまた眠った。上の孫は、でんと置いた袋から目を離さなかった。段々手が伸びて来て、中のものを出そうとした。全部見せて、これからのおやつの上げ方の方針を説明した。にやにやしている。

じゃんけんで勝った者から好きなのを1つ取り、分けられるものは仲良く分け合って食べる。そんな事を上の孫には伝えた。下の孫は、はっきり目が覚めていたら騒ぎ出しただろうが、今日の所は迎えの車に乗って、2人共帰って行った。楽しみを知った孫と知らない孫の2人が・・。