義母の七回忌が豊後高田市の嫁の実家で行われた。服は何でもよいとの事で、V字の緑色のTシャツに夏用の白っぽく軽い上着を用意しただけだった。
10人の親戚だけが、17日は誰も住まなくなった家に、9時30分に集まった。暑い事は暑かったが、辛抱出来る暑さだった。
以前は亀の井ホテルと言っていたが、今はAZと言う名称になっている。相変わらずリーズナブルで、泊まるだけなら持って来いの宿舎だ。そこから車で、長兄夫婦を除いた8人がこの家にやって来た。これが、主な目的だった。
お坊さんが10時にやって来て、かなり長い読経が始まった。30分位だったが、長いと思ったのは、修業の為だと、その間正座していたからだ。最後の方になると足が痺れた。こうして、親族に依る行事は終わった。
皆ラフな格好で、こんな七回忌には出会った事がなかった。しかし、男は皆、ポロシャツと言えども襟のあるシャツで、幾ら何でも私はTシャツだけと言うのは憚られた。それで、1人上着を着ていた。それで良かったと、自分で納得した。
前日16日は未明車4時に車で家を出て、大分には昼の1時頃に着いた。その日はAZに泊まるだけなので、福沢諭吉の生家は既にもう行っていて、今回は名古屋場所もまだ続行している事もあり、宇佐市の「双葉の里」に行ってみた。後の時津風理事長である第35代横綱双葉山の事がビデオも流れていて、よく分かった。
学校の成績は優秀で、全部「甲」だった。その双葉山が不滅の69連勝を成し遂げているのは、周知の事実である。
資料展示室に入る前に「超六十連勝力士碑」なるものが外に建てられていて、それは60連勝を超えた力士の六角柱だ。超六十連勝の3人の力士の簡単な略歴と手形がある。私はそれぞれに自分の手を当ててみた。大体3人の手の指が更に2センチ位長かった。確かにこんな手で叩かれたら吹っ飛ぶだろうと思われるが、別段お化けのようだとは思わなかった。
双葉山、白鵬、谷風の3人がその対象だった。白鵬もその碑に名を連ねている。63連勝でストップだった。1年の開催回数が少なく、11日だったり13日だったりした頃の双葉山の、何年(約3年)も掛けての69連勝は途轍もなく凄いものだと思わせられる。
無料な上にお茶まで頂いた。それから、ゆっくりとホテルに向かい、相撲を観た。
2歳の男の子も入れて、8人で夕食を摂った。義理の次兄とはビールや焼酎を酌み交わした。5人で、加古川から来ている。それで初日はお仕舞いだ。
17日の法要が済むと、近くの蕎麦屋さんに行った。皆冷たい蕎麦を注文していたが、熱い蕎麦は2人だったか。私は熱くて辛い蕎麦にした。久し振りに辛いものが美味かった。これは私には辛いとは言えなかったが、同じもので冷たい蕎麦を頼んだ者は、その辛さに悲鳴を上げていた。
夜は全員10人で、臼杵の「湯の里」に泊まる事になっていた。その夕食を6時30分にしていたが、加古川からの5人は、私と嫁とその妹の3人並びに長兄夫婦とは別行動をしていたし2歳の子供もいて、やや時間は延びた。そののんびりが、気の置けない者同士の良さかも知れなかった。
ここに来るまでに、お坊さんの常住しているお寺に、こちらの5人は行った。ここは「泉福寺」と言い、大分では曹洞宗の本山のような寺だ。石原軍団はここに来ていたのだ。舘ひろしや神田正輝の写真もある。何と、ダライラマも来ていたのである。
和尚さんが、
「本堂まで上がって、そこから回廊を下ると景色も良いですよ」
と言うので、長兄の嫁と義妹との3人で上がった。だが、どこから入っていいか分からなくて、下まで石段を下りてしまっていたのだ。再び3人で本堂まで上がり、そこを開けて中に入った。自分で開けなければならないのが、盲点だったのだ。
綺麗に磨かれた回廊の床。窓の外には楓も見える。秋には紅葉で綺麗だろうと話しながら、靴は手に持って下りた。スカッとした気分だった。だが、熱気には勝てなかった。
そうして、そんな規模のお寺を後にした。
温泉の湯けむりを山間に見ながら来た「湯の里」だ。夕食までに早速湯に浸かる事にした。気持が良い。腕がぬるぬるした。表現は、つるつるしたと言う方が綺麗だが、この方が薬効がありそうに響くと思う。実際に、ぬるっとしたのだ。
10人だけの食事の部屋に入った。まあ、家族宴会とでも言えばいいような広さだった。先ずは生ビール。次兄は次から麦焼酎にした。私と長兄はひれ酒を飲んだ。香ばしい、フグのひれの味が何とも言えぬ美味さを喉に引き込んだ。次からは芋焼酎に切り替えた。
長兄は、フグのコースを注文してくれていたのだ。てっさやフグの寿司、唐揚げ、鍋と、勿論だが全部フグだった。大分は鮮魚にも恵まれていて、関アジや関サバ、鱧などの他も、豊富な魚類で満ちている。臼杵は殊にフグで有名なのだ。堪能した所で、最後は卵雑炊で終わった。
2歳のYちゃんは歌と踊りが好きな様で、何度も、
「コチコチカッチンおとけいさん コチコチカッチンうごいてる おとなのはりと こどものはりと こんにちはさようなら コチコチカッチンさようなら」
と、頭を横に動かしながら振り付けもして歌っていた。今なら、子役に間に合いそうだ。可愛い姿に、誰の目も細くなっていた。おじいちゃん子で、いつでも膝の上に抱かれたがった。
その後は、長兄の部屋に皆集まった。また焼酎を飲んだ。長兄もお嫁さんもそうだが、ここまでするの、大変だったと思う。いつも有り難く、お疲れ様でしたと言いたい。
私は少し曇りがちな空ではあったが、夜の3時前に目が開いたので外に出てみた。本当は、煌めく、降るような星が観たかったのだ。だが、やっと目に入ったのは、光の弱いカシオペアだった。その反対側には北斗七星がある筈だが、こんなに周囲に明かりもなく好条件でも、曇っていては仕方がない。辛うじて北極星は見付かった。頭を首が痛くなるまで反らせて、薄い星空を暫く観ていた。
流れ星がさっと過ぎた。帰るの合唱がグワッグワッと迫り、それは天に上って行くようだった。斎藤茂吉の歌を思い出していた。
「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」
それから部屋に戻り、再び気持ちのいい布団に潜り込んだ。ここは2度目である。その時は、今よりは随分星が瞬いていた。
18日の朝は8時から朝食にしていた。和食に決まっている。量は贅沢だったが、そうそう美味いとも言えなかった。事情もあるのだろう。だからと言って、不満な訳ではない。
ここで全てが終了した。加古川組も5人が帰って行った。こちらも2人、長兄とお嫁さんと義妹の3人が乗った車の後を追った。義妹は空港に送って貰う。東京に帰る為だ。その岐路で、私達は車の中から手を振って別れた。
折角だからと、山口県岩国の錦帯橋を観る事にした。久し振りの感動で、素晴らしい思いをした。河原に車を置き、橋を歩いて渡った。300円で往復出来るとあって、その感激は一入だ。
弧になった橋が3つ連なっている。遠くからはなだらかに見えるが、実際に渡ろうとすると、眼前の円弧の迫力と頂点への高さが感じられる。それだけで、渡って良かったと思った。
流されない橋として有名でもあるが、1673年に渡り初めがなされている。1674年にすぐに流出。また渡り初め。1922年には「名勝」の指定を受け、1950年には、文化財保護法による「名勝」となった。延宝2年(1674)より不落を誇った橋もキジア台風による洪水で、昭和25年(1950)に流出した。1951年に再建工事。1953年渡り初め式が行われ、2001年には平成の架け替え工事が起工し、2004年に平成の保管工事、完成式、渡り初め式となる。
ここに来るちょっと前に、「橋出」と言う地名を見た。それは当時錦帯橋の維持管理の為に、橋出米(はしだしまい)」と言う税金が、領民全員に収入に応じて納めるように設けられているものだった。不落を誇った錦帯橋は、こうして長い間支えられていた事も分かった。だが、幕末になると税制が破綻し、メンテナンスが出来なくなtったそうだ。
橋の長さは193.3m(旧橋長195.7m)、幅員は5m(有効幅員4.2m)だ。立派な遺産だと思う。
また向こう側に渡ると、佐々木小次郎の燕返しの技を編み出した松がある。
ソフトクリームを売っていた。なんと70種類位のソフトクリームが売られていた。私達は、バニラにした。
日も少し暮れかかったので、もうどこにも寄らず岩国 ICから山陽自動車道に入った。只管走りに走ったが、予想通りの10時半頃が到着時刻となった。閉め切った雨戸などを開け、独特の匂いを追い出した。シャワーをしてTVを観たりPCを観たりしていたら、真夜中を通り過ぎて3時になった。それから徐に寝始めたが、6時には目が開いていて、それから夕方になっても体はぐったりしている。
相撲が終わったらジョギングをして、また周りの景色を見てみたい。もう合歓の花は枯れたりして満開状態ではないが、北九州自動車道路から見える山々の美しい景色に癒されながら、まだ今が盛りの合歓の花が幾らかでも見られた事は、更なる喜びと感動を呼んだ。
もう終わってしまった、充実してはいたが呆気ない3日間ではあった。今思い出してもまだ鮮やかだが、その脳裏には同じ映像が、思い出そうとする度に流れるだけである。