粟生線志染行きの電車は、私達を木津駅に届けた。鈴蘭台駅からは4つ目の駅で、普通しか停まらない。

Ki 君と地下鉄名谷駅で待ち合わせて、湊川公園駅で神鉄に乗り換えた。9時8分の志染駅行きをホームのベンチで待っていると、N君が目の前に立った。小学生の案山子作りのボランティアをしていたと言った。K君もやって来て、木津駅で会う事にしていたが、早同窓会状態となった。

車窓からの景色は、愈々田舎を感じさせるモードに一転した。山を削った後に葛や竹などの植物が迫り、急に田園が広がり、トンネルに入ったりした。

木津駅はとても綺麗だが、無人駅だ。田舎に建った、近代的建築駅と言えるだろう。11時に集合だったが、そこでシマさんと奥さんとその男性のお弟子さんがもう来ていた。7人が、誰もいなかった駅を埋めた。そこには、山や田が広がり、その規模の大きい自然的箱庭の景色は、田舎の原風景だった。

空の青さが、都会では見られない程鮮やかで、吸い込まれそうだった。その上大きな真っ白い雲が幾つか散らばっている。こんなに眩い雲も、感動ものだった。心が洗われて行く。その見返りが、暑さだった。

「ロスでは50度あると聞いた」

と、娘さん夫婦が住んでいるロスからの状況をK君が聞かせてくれた。

「抱き合っている方が涼しいらしい」

と彼は笑わせたが、真剣には笑えなかった。余りにも高温だからだし、風呂なら大火傷である。

そうこうしていると電車が着いた音がし、更に7人が姿を見せた。14人が待ち合わせていた事になる。まだ、車でやって来る者もいたりして、いつものバーベキューの飲み会の会場に着くと、全員では24人位が集まった。

シマさんのお弟子さんがこの小高い場所の所有者で、それもこの辺一帯の一部に過ぎない。お陰で、四方が緑色の、素敵な景色に目が染まる所だった。オーナーも、いつもお世話をして下さり、これには感謝の至りだ。

竹などで柱を立て、その上にビニールシートなどを掛け、日除けを作った。それは男の仕事だった。

オーナーには、テーブルも、焼き肉の一切の道具も、焼酎も、今回も捕らえたイノシシの肉も提供して貰った。

簡単な設置を終わると、男達はビールで乾杯を始めた。デーンと豚足が並んだ。我ら同窓生4人。2人はそれを食べた。握り拳以上の大きさだが、初めての者は敬遠していた。私は何度か目で、1個丸々食べた。コラーゲンだと言いながら。

味噌汁にはシシ肉が入っており、豚肉とは柔らかさが異なるものの、まるで豚肉のような味だった。野菜も入って、日頃は食べられない、乙なものだった。イノシシの焼肉も並ぶ。贅沢そのものではないか。

私より齢は上だがお元気なWさんが、モズクの酢の物を作って来ていた。いつも好評で、そこらで売っているものより甘く、とても美味しい。あっと言う間になくなった。沢山、前の日より作っていたと言った。

他に長い島ラッキョウの浸けたものが並び、あとラッキョウ部分だけのものも出て来た。どんな流れだったか忘れたが、これは私が貰うようになり、1日明けた今朝、持ち帰った焼き蕎麦と一緒に食べた。これはどちらも美味かった。特に白いラッキョウは、小さいがご飯にも晩酌にも合うと思った。

沖縄の三線の名手が釣ったと言う大きなチヌが幾つかに分けられ焼かれていた。呼び名は違うが、正にチヌに違いはなかった。立派なものを頂いた。泡盛も焼酎の1升瓶も2本並んだ。泡盛は25度だったが、これは美味い。43度の古酒を以前飲んだ時、少しだったのにも拘わらず、その店で立てなかった事を思い出す。これなら薄めて飲めば焼酎と同じだ。どこかで探して飲みたいと思っている。

K君が差し入れたお菓子類も好評で、私も美味しく頂いた。

オーナーは畑も持っていて、何と西瓜を2つ提げて来た。満足な程食べてしまった。普段高くて買えない。無花果でも枇杷でも、もうそんな理由で食べられない。Ki 君とは帰りの電車の中でそんな話が出て、子供の頃自分達の庭に生っていた美味しい無花果の事を話した。それを狙う椋鳥に食べられる話もしたりした。美味いものは、人間以外にだって美味く、よく知っているものだ。

焼きそばやソーメンが並べられ、皆、もう食べられないと言った。余ってもと思い、ジッパー付きのビニール袋に入れて、少し持ち帰る事にした。

飲んで食べていると2時頃になった。早速シマさんの奄美の三線の弾き語りが始った。これがないと、この会も片手落ちとなる。これで盛り上がる。もう40年もやっているお師匠さんの歌も撥捌きも一流だ。いつも当たり前のように聴くが、贅沢なものだ。

お弟子さんや三線仲間の歌も混じって来る。先に書いたWさんの娘さんがバーベキューの炭にバーナーで火を点ける所から始まって、シシ肉やチヌなどの焼きを担当していた。男子のお孫さんも1人付いて来ていて、目まぐるしく動いていた。若い方では1、2番を争っていた。ラップが出来るそうで披露もして貰ったが、シマさんやそらの陽さんと相談の上、なんらかの形で出演して貰ったら、と言う話になった。

そらの陽さんが積極的に話して来たが、最初は何の事か分からずにいた。それが9月25日のYOSOMIの事だと分かり、そうだったのかとやっと納得した。

Sさんが頻りにソプラノリコーダーで何か吹いていた。最初は、「おおモーツアルトだ」などと言っていたが、私の作った「万華鏡」だと知って顔の色を変えずに赤面した。

また、何だか違う曲で、私は「モーツアルトだ」と言っていた。仲間は「ベートーベンだ」などと言っていたが、曲を聴いたからではなかった。それがまた私の曲で「野ぼたん」だった。ただ聞いているだけでは、自分の曲だとは全く分からなかった。Sさんは、実際にはアルトリコーダーで吹くと言った。こうして吹いて頂けるのは、有り難いものだ。

そらの陽さんもオカリナを吹いた。私は特に吹く気でいるのではなかった。意欲の低下だろうか。

また三線が始まった。これがもっとないと気分が盛り上がらない。しばらくして、周りにいる者がこぞって私を急き立てた。

「持って来てるやろ」

確かに2本は、チャックが利かなくなった鞄に入れていた。この鞄、次のを見付けたら捨てる積もりでいる。

数日前に手にした「オカリナ18号」の冊子に載っている「いきものががり」の「ありがとう」を、機会があれば吹く積もりで、でも余り練習もしていないので短い楽譜も鞄に入れていた。暗譜は、簡単な曲でも、メロディーが飛ぶかも知れないのだ。

もう作られていない、元祖と言ってもいいアケタの2連オカリナを出した。私はずっと以前に買っていたが、イカロスに出会う前は吹かなかった。必要性を感じなかったからで、アルトCとソプラノFの2本を所有していた。今回はソプラノFを持参。と言いっても、アルトCより遥かに音程と1連と2連の繋がりがいいのである。

アルトCは吹かないと思う。

「これはプレミアムもので、100万円でも売らないよ。そしてこれは庵オカリナで、女性の作家のものです」

と言って、真っ白な庵のオカリナも並べた。弱い息で吹かなければならず困っていたが、小さな捨て穴のような穴がありそれをビニールテープで塞いだ所、半音は低い音になった。これなら私のやや強い息に対応してくれると思った。その2本を持って来た。

100万円などと言うから、皆手に取って見たりしていた。そらの陽さんには吹いて貰った。やっぱりアケタのFがいいと言った。

10人位は周りにいた。演奏会ではないから、本当は聴こうが聴くまいがどちらでもいいし、遠くにいても聴いているかも知れず、聞こえているかもしれない。飲んだり食べたりしていたら、それは当たり前の事である。

「ありがとう」を吹き、庵オカリナでは「ある愛の歌」を吹いた。

竹藪があり、その前に無花果の木などなかった筈だ。だが、今はデーンとその木が1本、青い実をつけていた。身長以上の高さはある。

何度も向こうに電車が走り、その度に音が聞こえて来た。2輌だったり3輌だったり4輌だったりした。緑の水田に、その車両の色はとても綺麗に融合していた。

そろそろお開きの時間となったが、5時前だった。オーナーが設置したものの後片付けはしなくていいからと言った。今度から、暑い夏ではなく秋か春にしてはと提案された。シマさんに伝えた。彼も皆に伝えた。来年から、秋の涼しい時に開催される事になった。オーナーは、

「そうすれば、テントなどしなくてもいいし、柿が食べられるし」

と言った。柿が食べられるなど、またまた贅沢な会になりそうだ。

帰り道、矢張り夏の草の匂いに噎せ返っていた。たまには友達と来て、この景色に染まるのもいいと思った。匂いまでするクレバスの中に潜り込んで、その中で遊んで来てもいいだろう。

沢山飲んでいないので、名谷駅のベンチで眠る事はなかった。Ki 君と別れてバスに乗った。帰ってからシャワーをしてTVを観ていたが、ブログを書く気にはならなかった。

9時だったが、眠る事にした。毎晩のリオに釘付けで、寝不足もいい所である。普段の寝不足に拍車を掛けている。書こう、と思ったが気持ちが動かなかった。何度も2時間毎に起きてはトイレに行き、何度か眠った。ラジオも聴かなかった。起きる気になったのは翌朝22日の5時過ぎだった。

無気力になると、体が動かない。

気持ちが高まらなくては、意欲が湧かない。

情熱が無かったら、火が点かない。

体力の衰えを心が励ますが、それでもついて行かない。気力が充実する時は、体がそれに従える準備が出来ていなくてはならない。普段の寝不足の蓄積は痛ましい。それにも増して、人為的貼り付け的に観ざるを得ないリオオリンピック。あの世界的祭典の自国や他国の頑張りやとてつもない力を観る時、それは幸せな一時だったと思うのだ。

沢山あるが、男子400mリレー。それは、37秒60の、1分にもならない時間だった。それをライブで共有出来た喜びは、何ものにも換え難い。銀メダルを予想していた者は殆どいないだろう。区切って言えば、4年間の努力や練習の堆積が、その結果を表すのに1分とかからなかった。それを思うと、「努力」などと言う言葉を、安易に使えなくなった。

空の青はキャンバスだ。真っ白な雲がそこに流れるのではなく、悠々ともくもくとその存在に感動させてくれた。愉快なバーべキューの、奄美の会だった。
10日、10時20分、夜の時間が止まったままだ。

後まだ、卓球の試合が続く。これから水谷準の準決勝戦が控えている。だが、時間は止まったままだ。

一部屋のしじまが、まだ終わってもいない戦いの、福原愛を記録して置きたいとの思いを、急かせる。

1ゲームも落とさないで来た福原愛の戦いは、神掛かっていると思わせるのに十分だった。「木鶏」の話を彷彿とさせるのに十分な気がしていた。福原愛の、技術は元より、気力が充実して来たのではないかと目を瞠らせた。何の心配もなく、強豪を押さえて勝ち進み、期待された準決勝戦が終わると、止まったままの時間に私の指だけが、キーを打ち鳴らしている。

相手は中国の李暁霞だった。174センチの体躯は圧倒しながら機敏に動き、更にその打ち返しもダイナミックで、角度もある。福原愛がコースを打ち分けても、その反応は全て勝っていた。あれだけ多彩な技を持っている福原愛にして、それは通じなかった。

戦術はそれまで勝った相手に対したと同じ様な、細かい部分の相手に対する技術は除いて、彼女の戦形だった。だが、李暁霞には、それが全くと言っていい程通じなかった。李暁霞の力が上回っていた。ツキがあるとかないとかも超えていて、それは問題外だった。

何かをどう変えれば勝てるとかの問題でもない。福原愛の、今日までの力が、今回のリオのオリンピックでの結果だったのだ。気力も充実していたようだったが、準決勝で崩れた。

福原愛  4-11  李暁霞
       3-11
       1-11
       1-11

ラバーは両面に貼っているが、片方は回転の掛かるラバー、もう一方は回転の掛かり難いラバーだ。この使い分けで相手は手古摺って来たが、李暁霞はそのビデオを観てしっかり組み立てを考えて来たのか、それともずっと前から研究していたのか、スピードもコースも考えられていて、何度も受けた逆コースに福原愛はお手上げだった。

回転しないラバーで相手が苦しむ所か、返って来た球を打ち返すと、それが相手の台に触れずにオーバーした。そのラバーの変化と技術が、研究された李暁霞には通じなかったとしか言いようがない。回転もパワーも違い、強かった。

怪物がここにもいた。李暁霞は「木鶏」なのかと思ったが、多分それに近い力を持っているだろう。パフォーマンスも少なく、声は上げたが、顔の表情は変わらなかった。勝っても変わらないし、どこで笑うのかと思われた。しかし、これこそ相手に対する勝者の思いやりではなかったろうか。

準決勝はこの後、中国の丁寧と北朝鮮のキム・ソンヒとで戦われ、勝者は李暁霞と金メダルを賭けて、決勝戦が行われる。敗者は銅メダルを争う戦いとなる。福原愛には、悔しい気持ちはあっただろうが、せめて胴メダルは取って欲しい。それが、オリンピックに参加した、はっきりとした証しになるからだ。きっと皆も、それを願っているに違いない。

そろそろ止まった時間の呪縛も取れて、水谷準の準決勝戦が行われる。これに勝てば決勝戦となるが、彼も金メダルが悲願である。しっかり応援したいと思う。

福原愛も、世界でトップクラスの選手だ。準決勝まで行ったのを褒めたいとは思う。凄い事だからである。だが、戦いはそれで止まるものではない。世界一の王者になる事は、並大抵な事ではない事を遥かに超える事なのだ。私には、そんな思いは分からない。分かりそうなのは、孤独だと言う事位だろうか。

全く関係ない事なのに、自分はこの止まった時間に、ふと人生について考えてみた。

歩くより走る方が目的地に速く到達するだろう。ストレートに考えると、そう思える。だったら走り続ける事が結果に結び付く。歩くのはどうなのか。

器械的に考えられたら事は簡単である。人間の走る歩くはそんなに簡単ではない。人生の道程は、走り続けられるものだろうか。息が切れて休まなければならない時もあるだろう。歩く事は走るより遥かに遅いが、長く歩けるだろう。それでも、歩き疲れて休まなければならない事もあるだろう。結局、どちらにしても同じ時間にゴールに辿り着くように思われてならない。

だが、人生にはゴールと目標が見え難い。それがはっきりしていたら、それに向かって皆は走るか歩くかの、或いはそのどちらも交える手段を講じるだろう。歩けば道が出来ると言った詩人もいる。

この卓球を通した戦いを観ながら、世界レベルの凄い戦いに思いを馳せ、ふと自分を見つめてみる。観る事は、内省する事だ。やっぱり、そこには甘い自分しかいない。何かにしがみ付きながら、そこから目標を見出そうとしている、何か忸怩たるものを感じる自分がいる。

兎も角、卓球を応援しなくては。結果はどうなるか分からないが、まだ眠れない。福原愛の3位決定戦は北朝鮮のキム・ソンイと争う事になった。情報の極めて少ない北朝鮮の戦士とどう戦うか、それを見たい。

水谷準の戦いも勿論見たい。そろそろ始まるだろうが、まだ始まらない。送って頂いた静岡の新茶が美味しい。今から2番茶を飲みながら、まだ始まらない卓球の応援の準備をしよう。


2番茶が美味い事。このチャンネルはオリンピックの放映を終えた。他に換えてみるが、柔道のビデオが流れている。睡眠不足に祟られる。寝る方が得策だと思うので、この辺でテレビのスイッチを切る勇気を持とう。12時48分になった。



付け加えたい事がある。

11日4時過ぎに、眠い目を擦りながら卓球をやっていないかテレビのスイッチを入れた。何処にもその気配がない。もう1度眠ろうと思ったが、体操男子の6種目の個人総合の演技が繰り広げられていた。これで寝てしまえば、ビデオでは観られてもライブで観る事は生涯出来ない。ずっと見続けてしまった。

オレグ・ベルニャエフ(ウクライナ)は圧倒的に美しい、難度の高い演技を続け、1位をキープしていた。メダル争いは熾烈なものとなり、連覇を狙う内村航平は2位を保ちながら、最後の鉄棒となった。

1点に近い大きな点差の中での争いとなった。内村航平が、ベルニャエフの前に演技をする。それは、迷いのない、難度の高い完璧と言える演技だった。鉄棒から4度大きく手を離し、それも神業のように瞬間に鉄棒に飛び付き握る。美しい演技は全て終わり、最後の着地だ。微動だにしない、素晴らしい着地だった。

ベルニャエフは、演技はやや内村航平を超えていなかったかも知れないが、決め手は着地だったのである。ベルニャエフは決め切れずに、前へ1歩跳んでふらついて止まった。この着地が決まっていたら、彼は金メダルをゲットした事だろう。その点数も内村航平が15.800、ベルニャエフが14.800だった。これだけ見ればかなりの差ではある。しかし、ここまで5種目の差が1点に近い差だったのだ。

鉄棒でのこの差がありながら、内村航平は前回のオリンピックに続き、金メダルを得たのだった。14.800でなく14.900だったら、ベルニャエフは優勝だったのだ。

内村航平の演技を見て、心が動揺したとも考えられる。鉄棒に全力を尽くし、最後の着地を完璧に行えば、勝てる。金メダルがちらついた事だろう。また、内村航平の完璧なまでの演技に、プレッシャーを感じていたのかも知れない。最後の最後に、雑念が入り込んだに違いない。凄まじい逆転劇だった。

もう眠れない。8時15分からは卓球の「女子シングルス3位決定戦」に関する放映がある。試合は何時から始まるかは分からないが、福原愛の銅メダルを叶えたい。

夜10時頃からは「男子」シングルス準決勝戦」がある。世界ランキング1位の馬龍(中国)との戦いだ。これも目が離せない。寝不足で朦朧としている私には、昼の間に眠って置くしかテレビを観られる手段がない。
母校が甲子園に出る! 何人かの電話で聞いた。創部68年目にして出場すると言う甲子園は、私に取って殆ど縁のない球場だった。

もう思い出す事が遠くなった巨人ー阪神戦で、巨人のクロマティーが打ち出す白球が1塁線上を超えて入ったホームラン。ナイターの眩い程の灯りが鮮やかにグリーンの芝生を照らし、白線の内側を弧を描いて消えて行ったその時間的経過を覚えている。大先輩に連れて行って貰った、バックネット裏の特上席から観たその甲子園が最後だった。

島根県立出雲高等学校が甲子園に出る! 誰もが願ったとしても、考えた事のない快挙だった。4日に抽選があり、1日目の7日に当たった。その日予定がありほんの少し考えたが、しっかり心の中は甲子園に応援に行く事に定まった。

K君、Ki 君、O君と8時に阪神甲子園駅の改札口で会う事にした。途中で既に甲子園駅に来ているKi 君から、乗車中の携帯に「西口」を指示したメールが入った。甲子園は西口から出るからだ。早く来ているなと思った。

相手校は春の覇者、春夏の連覇を狙う奈良の智弁学園である。この日は入場行進と開会式が重なっていて、願ってもない初日だった。

入場券売り場は売り切れていて、残った1塁側アルプス席の長蛇の列に並んだ。道を挟んだ向こう側に渡って、もうすぐ買えると思った矢先に窓口のカーテンが降ろされた。大分前から「まもなく売り切れ」と言う表示が点滅していたから、手に入らない気もしていた。

3塁側のチケットまだはありそうだったが、出雲は1塁側である。4人は意を決して、外野席に行く事にした。ここは無料である。随分球場の周りを歩いて、23番ゲートから入った。何よりもこの満員に近い状態に驚いた。兎に角空いた席に座った。4人が座れたので、もう心配はなくなった。私の席は、26列299と書いた席。

勿論1塁側の、黄色いポールの立っている後ろの方だ。ホームランかファウルかの境目になるポールである。

陽は東の方に斜めに昇っていて、顔の右側に当たった。家を出る前に考えたのは、Tシャツを着て、その上に薄い長袖のシャツを着る事。帽子を被る事。首を巻くタオルを持って行く事。前日からペットボトルの水を凍らせて置く事、この4つだった。結果論だが、この4つはとても役に立った。

35度にはなっていると思われる炎天下。陰になる1塁や3塁の席、またはバックネット裏の席は外野席のように陽に焦がされる心配はない。その代わりと言うのも変だが、1,500円と2,000円を取られる。

かくして、9時には第98回全国高校野球選手権大会の入場行進が始まった。ブラスバンドの音が無ければ始まらないと言う程の楽器の数の迫力がある。国旗や大会旗を先頭に、49校がプラカードと共に入場して来た。私達のすぐ斜め下の入場門から入って来る。

真ん中辺りで「出雲」と書いたプラカードが、出雲高校の球児を従えて入って来た。流石にその時は現実を失っているような感覚が、例えようもなくぐるぐる頭の中を巡っていた。この予測しなかった「出雲」の入場行進。また、自分をこれらの球児と重ねようとする遠い過去との飛び降りる事の出来ないでいる段差に、大きな戸惑いがあった。

だが、その姿を観ていると、涙が出そうだった。確かに感動や感激はあるが、それは説明の仕様のないものだった。各校の校旗が外野のグランドに並び、選手もカステラのように直方体に並び、内野側に歩みを進めた。

開会式が始まった。TVで観ている時は顔も全部分かるのに、外野席ではそれは不可能だった。ただ、音量などの音響は素晴らしく、TVでは反響ではっきりしなかった言葉も、ここでは鮮やかに聞こえた。

やや俯瞰するように、球場全てがよく分かった。外野席も殊更悪くもない。また、塁側の席やバックネット裏の席も、それぞれの見え方が違うし、メリットもデメリットもあると思う。バッターが打った球筋も、それぞれに違って見えるだろう。

第1試合の佐久長聖と鳴門の試合の途中で、K君はアルプス席のチケットが1枚あると言って、後からやって来たYさんと、外野とアルプスを太い針金の柵で挟んだアルプス席の前列の空いた所に移動した。私は、動きたくなかったし、ここで不満はなかった。3人はここに腰を下ろし続ける気持ちでいた。

1試合目は1点差のいい試合をした。太陽は高度を上げ、ジリジリと肌を焦がして行く。右の頬が黒くなって行くのではないかと思ったが、大した心配事ではなかった。それよりKi 君とO君は半袖シャツなので、きっとひりひりしたり黒くなったりして行くのではないかとの思いが先に立った。

ビールやジュースやかき氷やカチ割りを売って回っている。K君が移動する前に3人が飲んだ。炎天下のビールもいいものだ。何度もトイレに行くだろうと覚悟したものの、結局最後まで行く事はなかった。凍らせた水をちょびちょび流し込んだりお茶も飲んだりしたが、それでも何ともなかった。汗で出て行ったのだろうと誰かが言ったが、そうかも知れないと信じる気持ちになった。服の下に、確かに汗はべっとりと感じていた。

勝つかも知れない、勝って欲しいとは思ったがそれは微かな願望で、「出雲」が「智弁学園」に勝つとは思えなかった。また、勝つとは言えなかった。だが結果であるから、最後まで観るしかなかったし、応援するしかなかった。

智弁学園は朝日新聞に依れば、「2年ぶり18回目の出場を決め、春夏連覇を狙う切符を手にした」とか「チームの柱は右腕のエース村上。最速145キロの伸びのある直球を武器に、キレのあるスライダーやカーブ、チェンジアップを使い分ける」。「奈良大会では5試合で36奪三振」と書かれている。しかし私には、また私達にはそんなデータなど関係なかった。只管、応援する多くの仲間と見守り、楽しむ事しかないのだった。

孫程の後輩と言うには可愛らし過ぎる「出雲」の球児たちが「智弁学園」に挑んだ。68年目にして甲子園に初出場した「出雲」は、1時20分に第2試合目のグランドに立った。

先攻の「智弁学園」はいきなり2点本塁打を叩き出した。3回目にはまた1点を入れたが、その後すぐ「出雲」が1点を取り返した。その時点で、凄いぞと思った。点数が最後まで入らなく、2桁の得点で負ける事だってある。この1点は貴重で、ひょっとして、などと考え出していた。Ki 君の応援には吃驚した。大声で、最後まで声援を送っていた。

「昨日教えてやったようにやれよ」

とか言って、周りの者達を笑わせていた。デカい声で、ひょっとして届いていたのではなかったろうか。

「頑張って行こう」

最初、私は何処のおじさんだろうと思っていた。彼も、必死で応援していただろう事を思うと、母校愛の気持ちが伝わって来る。私にはあんな大きな声は出せないが、何処に隠されているのだろう、この古稀の声。

4回5回と両校無得点。やるなあ、「出雲」。6回目に先攻は1点を入れた。4-1。まだやれるかも、と思った。流石に8回目に2点入れられると、諦めムードになったが、外野席のこの辺りは「出雲」に関係のある者が多い。Ki 君やO君とよく話していた2人の前の席の女性は、どちらも小さな男の子を1人ずつ連れて来ていた。1人の女性は旦那も一緒のようだった。

私は8回の裏に4点取り、9回の裏で2点、またその逆でも延長戦になると考えた。これを妄想と言うだろう。思いとは、そう言うものであると思うのだ。この女性達は奈良と京都から来ていて、どちらも出雲高校の出身だった。彼女たちの応援は、決してマイナスの応援ではなく、まるで我が子に接しているような、「まだ大丈夫だよ」と言った、暖かくて優しいものだった。私は、心がほのぼのとした事を思い出す。

太陽は真上に近く昇り、真っ白い大きな雲は3割位の雲量だったものが7割近くなり太陽が一瞬隠れ涼しくなった事があった。それから試合が終わる頃には5割位になり、最も後ろまでは観ていないので大体だが、雲はもくもくと変化していたのだ。

K君が置いて行ったお茶も飲み干し、買ったカチ割りも溜まった冷水をストローで飲んだり、口に入れて溶かしたりした。

相手のピッチャーがボールだと拍手が起こり、こちらのピッチャーがストライクを決めると拍手が起こる。ずっとそれの連続だった。アーチを描いた打球がヒットになると凄い拍手。アウトになるまでの瞬間は「ウオー」と言う声援とも驚きともつかぬ声が上がる。

一喜一憂したり、また後輩たちを慈しみながら応援したり、1つになった戦いは終わった。最後は、大きな拍手が続いた。「ありがとう」と言う思いしかなかった。「よく頑張った」と言う気持ちしか湧かなかった。「夢を見させてくれた。それもこうして生きている間に・・」。それは出雲高校の出身者も、出雲の人達も皆同じ思いだっただろう。

バス36台で、朝4時に出発したと言う。感極まっては行くけれど、それは予測無き感動だったと思う。アルプススタンドは、1試合目の1塁側佐久長聖のグリーンの帽子の色から、出雲の赤い帽子の絨毯一色に染まっていた。
すぐにまた出雲に帰って行く36台のバスの中で何が話されるかは分からないが、出雲高校は皆に愛され続けてている母校だと思った。それは何処も大同小異だろうけれど、素晴らしい連帯感が生まれた。甲子園に「出雲」球児たちが、私達をも引き寄せてくれたのだ。

So君が吹田から第2試合目を観る為に来た。バックネット裏のチケットが買えたらしい。今日は開会式もあって、買い辛い状況だったが、試合が替わればその入れ替えでいくらでも入れるのだろうと思った。それでも、入場行進から観られただなんて、何と幸運な事だったろう。

もし8日が「出雲」の試合だったとしたら、開会式は態々行って観たりはしなかっただろう。

最初に切符売り場に集まった。So君と会うのは2年振りだが、それでもこうして会えたなんて。まだ現役の医者で、忙しいのだろう。サンデー毎日の私なんぞとは、暇さ加減が大違いだ。それが会えたのも、「出雲」のお蔭だと思う。

K君、Ki 君、O君、So君、Yさん、私の6人は、大阪まで行った。阪急の28階で、出雲高校の仲間として、楽しく飲み食い喋った。負けたとは言え、春の覇者と当たるとは有り難い事だった。「出雲」の球児たちにも、色々教えられた事などがあった事は、大いなる収穫だった事だろう。また、来春来夏と、甲子園出場が夢ではなくなった。

1対6の結果は、誇りに思える。本当によく頑張ったと思う。そんな話をしながら短い宴を持った。色々取って小皿に取り分けて食べたが、圧巻はアワビの煮物。小さなアワビに生姜の千切りをもっと小さくしたようなアワビの千切りが3切れ貝に乗っている。幾つかのアワビの貝が付いて3切れの身が乗って、凄い値段。書かないで置く方がいいだろう。

Yさんも、今1番シャワーがしたいと言った。私もその通りだ。暑い外野席。7時間もの甲子園が私達には終わった。TVで観ると外野席の太陽や人の熱気を思い出すだろう。暑さは諦めていたが、こうして大阪の地下を歩いていると、尚更のように感じられて来る。

今日の朝8時15分から水谷の凄い卓球の試合を観た。それからクーラーは入れなかった。29.5度だった。ガラス窓は開けている。すぐに29.7度になり30度になった。少しずつ上がったが、今31.3度だ。暑い。汗が滲んで来る。2度上がっただけでこれだけ汗が酷くなるとは。もう、シャワーをして着替えなくてはならない状態だが、これは私の実験だった。

小説家が小説を書く。私がブログを書く。実力の差は歴然としていて話にもならないが、私はそんな事を言おうとしているのではない。私の子供の頃は、ぶんぶん回る黒い扇風機はあったが、クーラーなどなかった時代だ。そんな時を再現してみただけである。こんなに夏の暑さを感じながら何かをしていた時代に私は育っていた。

ひょっとして、これこそが自然なんだと思う。そりゃあ、クーラーのある部屋が涼しくていい。これで2階に上がったものなら、熱射の部屋だ。35度を越え、どうにかなっているだろう。このべたべたした体に今頃クーラーを入れても、と思う。昔はこうだったし、シャワーなんかもないし、行水していたなどを思うと何だか考えさせられる思いだ。

素直にクーラーを最初から点けていたら、ここまで暑い思いをしなくても良かったのだが、夏の外野の熱い甲子園が、私に、家の中でもそれを再現させてしまったのだ。
7月24日にオカリナフェスティバルが終わると、CDにサインをしている舞歌さんに簡単な別れを告げ、5人で三宮の居酒屋に消えた。

K i 君、Om君、Teさん、Koさん、私は、そこで飲み食いし、楽しく語り合った。聴きに来てくれた、出雲高校の同級生である。大阪や加古川からも、よく来てくれたものだと思う。

ああ、これは書いて置かないといけないと思うが、公立校の出雲高校が、初めて甲子園の土を踏む事になった。甲子園に出掛けて、応援と観戦をしたい。1回戦で勝つような事があれば、いやいや言っちゃいけない、奇跡だと言ってはいけない。


26日は、1人車で出雲へ向かった。昼の12時半頃だった。ナビに設定をすると、285kmと出た。大分への半分にもならない。案外近いではないか、と思った。

夕方6時30分着のJALで、横浜の妹の家族が4人で来る。悠介からメールがあり、15分には着くかも、と書いてあった。私は、神戸を発って出雲飛行場へ行くのである。夫婦と2人の兄弟を、いつも乗せて出雲の家に行く。つまり、このアッシーの役割りをもう何年続けているだろう。私には、喜びのアッシーで、役立つ事が嬉しいので、30日の5日間はアッシーに徹する。

飛行機は羽田から出雲空港へと速く到着したが、出て来たのは30分を少し超えていた。

私もまだ上の妹の家には行っていないので、荷物が沢山積んである。皆は宅急便で送ったとの事で、最小限の鞄などしか持っていなかった。乗らないのでは? と心配していたのだが、それは徒労に終わった。

家に着くと、再び出掛けた。上の妹を入れると6人になる。2台の車が要るのだ。私の車には男ばかり4人。横浜の妹は上の妹の車に2人で乗った。

必ず行く店がある。何を食べたかなど載せても仕様がないが、記録として言うなら、私と横浜の旦那と妹はロースカツ定食に。悠介はハンバーグ定食。弟は滅法鰻が好きで、鰻定食にした。それが1番美味かったかもしれない。

コンビニを何軒回っただろう。或る拘りのパンを探していたのだ。妹達はジーマが好きで、この瓶に更にレモンを切って入れて飲む。別段強い訳でもなく、沢山は飲めないのだが。男連中は、殆ど飲まなくて、ビールでも、グラスに半分も入れない。じゃあ、誰が飲むのだ。私しかいないではないか。ビールの缶は幾つか空き、ジーマは1瓶なくなる。

ワイワイ賑やかにしていると、決まって次の日付けに変わる。仏壇に供えたお土産をすぐに持って来て食べ、喋り、何だかんだぐだぐだしているとすぐに真夜中の2時頃になる。それから寝る事になる。次の日? の時間は当然のように通り過ぎ、7時や8時に起きて来る者は誰もいない。


27日、私は5時には目が開くので、仕方なしに起きる。上の妹も朝食の準備に起きる。

「7時半に出掛けよう」

「無理」

そう私が言って、そう妹達が答えていた。

私がリクエストしていた、いつもの食の3種の神器は用意され、私はそれが食べたい為に帰って来たと言っても、嘘ではなかった位好きな食である。分厚い卵焼き、牛肉とピーマンをフライパンの上で味付けしたもの、それと茄子の味噌炒めである。こんな美味いもの、いつも食べられる訳がない。夕食にしてもいい位のものだ。

蜆の味噌汁あり、高菜の漬物あり、トマトがあり、鮭もある。お茶はふんだんに飲める程、大きなペットボトルが何本か置いてある。烏龍茶がいいか、麦茶がいいか、お~いお茶がいいか。水まである。こんな贅沢していいのだろうか、朝から、と思う。

2階から横浜組がばらばらに下りて来る。10時頃だった。いくらでも眠れると言うのが羨ましい。トイレにも行かないで、ぐっすり8時間位眠ってみたい。いつも何度もトイレに起き、2~3時間しか眠れない私、爺さんである。

「10時半に出掛けます」

「無理無理」

「じゃあ、11時半にします」

けれど、車に乗ったのは12時を過ぎていた。

車は決まって4人と2人。上の妹も私も眠かった。ナビに設定すると53㎞が表示された。意外に近い。27日は松江市の北浦にある北浦海水浴場に行く計画をしていた。計画と言っても、行く場所を決めていただけだった。

Wと言う文字がここまでとがっていず、下は柔らかな弧を描いている。先は岬になっていて、珍しく2つに分かれている。どちらでも好きな方に入ればいい。遠浅だから、ずっと行って、やっと首のあたりまで浸かる。私は甥の海パンを借りて、数十年振りに海に浸かった。少し冷たく感じたが、すぐに温く感じられるようになった。

頭を濡らしたくないので泳ぎはしなかったが、昔泳いでいた時の感覚が蘇った。海に抱かれているようだった。白い雲の間を、飛行機が小さく飛んでいた。

泳ぎたかったが、浸かっただけでも感動ものだった。軈て私は上がり、シャワーをした。車を止めた広場が、
「Beach House」と言う休憩所と関係していた。そこに座って、上の妹とそこで食事の注文をした。その前にカキ氷を食べた。

2人の若い女性が作っていたが、アルバイトかその店の一族かは分からない。どちらも気持ちのいい程愛想がよく、雑談もした。1人はすらっとしていて、こんなに素敵でいいのか、と思った。女性雑誌から飛び出たモデルかと思わせた。

もう1人はもう少し若く、愛嬌があって可愛かった。

私はカレーライス、妹は焼きそばを食べた。サザエの串焼きが2パックだけあると言う。1串に3個サザエが差してあるものが2本ずつ入っている。海から上がって来た者や横浜の妹にも分けてやった。サザエの味がする。本物のサザエだった。1パック600円だから、小さな貝が1個100円と言う事になる。それでも、サザエのつぼ焼きを食べると、大きいにしても大抵1個が500円はする。

「安いね」

と言うと、

「そりゃあ、こちらで獲りに行きますから」

と答えた。私は、これで十分に満足だった。皆、それぞれに注文をして食べた。一緒に茣蓙の上で食べる食べ物は格別に美味かった。

最初からこんなに綺麗な海が見られた事に皆感動していた。島根県でも屈指の海水浴場だと、インターネットで事前に調べた時には書いてあった。これから数日の出雲での生活が、吉と出た気がした。

「始め良ければ終わり良し」と言うことわざだってある。韓国にだってある。「シジャギ パニダ」。初めが半分だ。つまり、始めたら、もう半分は行ったようなもの、と言う訳だ。ニュアンスは少し違うが、それでも似たような言葉があるなと思い出した。

帰りは9号線を通らずに、宍道湖の周りを走って帰った。こんなに近くで宍道湖を見る事はなかったから、これも感動の対象だった。

まだ明るい夜の7時から、スナック「輝子」に6人が集まった。男女3人ずつ。合コンをする訳ではない。小学校時代からの同級生だ。男1人Mo君は、小学校は違った。この店の輝ちゃんも同級生である。ここに来ると必ず、

「おかえり」

と言ってくれる。女性は旧姓でYaさん、Ohさん、Taさん。勿論輝ちゃんも。男性はUs君、Mo君、私だ。いつも私が帰ると、このような集まりをしてくれる。いつもなら女性がもう2人参加するが、何か来られない事情があったようだ。それでも、この畳の上は丁度いい人数で納まった。

カボチャなどの煮物が大きな器に盛られている。お土産のお菓子も渡し、止め処なく喋り、屈託もなく笑い、飲んだ。写真も写し、蕎麦も近くで取ってくれた。

Mo君は何かでこの仲間に入ったようだが、去年まではいなかった。女性達の審査があって、それに通らなければ仲間に入れない、と冗談を言って笑わせる。

「S君はどうなの」

とMo君が女性に聞いた。

「Hちゃんは特別会員だがね」

と、出雲弁で答えていた。私は、悪い気はしなかった。出雲弁で全て話しても面白いだろうと思った。因みに聞いてみた。

「皆出雲に住んどうけん知っちょうと思うけど、これ分かあかね」

「何かね」

「しいけんこ」

何と皆知っていた。

「あの小さな虫だが。すぐ死んでしまう・・」

流石に出雲人だと思った。子供の頃、夜街灯にわんさと集まって来るこのウスバカゲロウのような虫を友達とどっさり取って箱に入れたものだ。その友達も、つい今月7月の始めに亡くなってしまった。

いつもオカリナを吹けと言われる。鞄にいつもはソプラノC管を入れているが、今回はポータブルデッキを持って来ていて、CDを鳴らしながら数曲を吹いた。オカリナも4本位他の鞄に入れて来ていた。他にお客もいなく、気楽に演奏する事が出来た。

終わった頃に、数人の客が入って来た。いいタイミングだった。

もう11時を回りそうだった。帰る事にして、来年又会う事にして、別れた。私は妹が送って来てくれていて、また迎えに来て貰った。10分も掛からない。

帰ると、また話を始め、次の日に変わってから寝た。流石に自分では飲み過ぎたかと思った。ビールに、芋焼酎を水割りにして氷を入れたものを4、5杯飲んだが、帰る間近にもう1杯飲む事になった。只だと言うので。


28日にも早く目は覚めたが、ちょっと飲み過ぎた感があり、9時頃まで寝転んでいた。少し納まったので、台所に食べに行った。

昨日のUs君が、11時に近くの商工会館の図書館の前に迎えに来てくれる事になっていた。小学校1年生から3年生までクラス替えはなく持ち上がりで、その男先生を殆どの者が慕っていた。まあ、滅多にお目に掛かれない素晴らしい先生だった。島根県の代表的な書家でもあった。

もう先生はおられないが、その娘さん、と言っても喜寿位であるが、その先生の家に娘さんH i さんをUs君と去年から訪ねる事にしている。Us君は奥さんと一緒だ。私はその車に乗せて貰う。

木々や山に囲まれ、蝉の声しか聞こえない。出雲から西へ行くと、多岐と言う町がある。そこを少し奥へ入った所だ。

仏壇にお土産を置き、線香を手向け、H i さんは止め処なく言葉を紡いでいく。Us君の奥さんも、家族の事など話してくれた。4人はソファーに座ってタコの燻製やお寿司を食べる。その前にビールを飲むのだが、私は余り飲めなかった。昨日の焼酎が効いていたからである。Us君は幾らでも入った。

私は、飛行場で横浜組を迎えるまでに買って置いた出雲の旭酒造の酒を出した。これは結構美味しかった。だが、量は沢山飲めなかった。

ここでもオカリナの演奏会となり、徐に吹き出すと3人はソファーから椅子席に移って聴いた。何曲も吹いたと思う。最後はH i さんのリクエストで「浜辺の歌」を吹いた。何故早目に吹いたかの理由を話そうとしていたが、とうとう話せなかった。

H i さんは詩吟を習い始め、6時からだと言うので、5時45分にはお暇をした。何と5時間近くいた事になる。

Us君が帰りに車の中で言った。蕎麦打ちをやっていると。30日に持って来てくれるらしい。

帰ると、5人は墓参りに行ったり、仏壇の掃除をしていたようだ。

夕食が済むと、皆それぞれに話したり自分の事をしたりした。

夜も深まって、恒例の遊びをしたが、記憶テストのような問題を1人ひとりが出す事にした。先ず私が20問単語などの言葉を考え、20出来たら皆に鉛筆と紙を置かせ、私が言う1から20までの言葉を覚えさせる。「いち、携帯電話」と言った要領で。次を言う迄、3~4秒位間を置く。

20問全部言い終わると、言った番号の言葉を1から20迄番号を予め書いて置いた紙に書いて行く。番号と言葉が一致しなければそれは点数に入らない。

こうして何度やっただろう。出題者を換えて。

悠介は16問位合っている。私は14問が最高で、後は8問や7問がある。常に2番だった。悠介が1番である。全問正解しようと意気込むのだが、歳の所為は怖い。あの頃の柔軟さが欲しい。

10問でやっても、全問正解にはならなかった。良くて8問だ。

時間がすぐに次の日を知らせる。この日も3時までには寝た。


29日は、私は終日暇だ。

昼頃に、足立美術館へと遠出をした。今度は安来市である。だが、やっぱり53㎞をナビは示している。余り遠くではないらしい。以前にも行った事があるので、もう既に観たと思っていた。だが、移り行く自然の庭円は素晴らしい。5万㎡の土地の庭園は、それはそれは美しかった。携帯の待ち受け画面の為に何回写しただろうか。

展示も素晴らしい。観た記憶のあるものもあった。横山大観の絵は、流石に思想と迫力が内在する。鏑木清方。上村松園。伊東深水。竹内栖鳳。菱田春草などが貫録を見せている。

器と言えば河合寛治郎や北大路魯山人のものがある。河合寛治郎は出雲の出西窯とも縁が深い。北大路魯山人は、和歌山で中々の妥協を許さぬ醤油を作っている。

この庭園は日本でも1番に上げられ、少しでも土の下からミミズの糞が現れようものなら、職人さんが遠くから目を凝らしていて、元の一糸乱れぬ姿に直しに行くのだそうだ。入場料2,300円は高価だが、そんなにしばしば来る事もなく、これが最後だと思えば、全員が観て回った。そして、一杯美しさを詰め込んだのである。

その後は島根ワイナリーに行った。土産はそこで十分に買える。おまけに、ワインだって買える。しかも、試飲が出来るのだ。だが、私は飲む事は出来なかった。ちょっとでも、飲酒運転になると思うからだ。「乗るなら飲むな、飲むなら乗るな」、いつもそう思っているから。

夜はやっぱり次の日にならなければ、誰も寝なかった。念願の南方パン、薔薇のパンを食べた。妹が私の言葉を真に受けて、5個買って来ていた。くるくる柔らかいパンを薔薇の花のように巻いて、その間にクリームを塗っただけのものだが、それでも念願が叶った。


30日は最後の日となった。飛行機は夕方7時10分に出発する。6時までには行って置きたいと言っていた。

私は、出雲大社と日御碕神社と日御碕の灯台に行く事を提案した。Us君から電話があり、蕎麦はいつ持って行ったらいいかと聞いて来た。夕方5時には家にいると言った。

皆と出雲大社方面に向かったのは、やはり正午過ぎだった。

奥の拝殿は行かずに帰る人もいるようだが、ここにお参りをしなければ意味がない。ここにこそ、大国主命が鎮座されている。我々は北に向かって礼拝するが、大国主命は西に向いて鎮座されている。ぐるっと社殿を回ると、西からも拝めるようになっている。これは意外と知らないスポットだ。

更に北側に、素戔嗚尊の社殿が、立派に修復されていた。

その後は車で一路日御碕神社へと。ここ朱色の社殿には、下に天照大神、石段を上ってすぐ素戔嗚尊が祀られている。ここも、知る人ぞ知るパワースポットであろう。

日御碕の灯台はすぐそこにある。やっぱり来て良かった。何も上らなくていいし、上れば今は200円する。ハーハー言う事は分かっているが、初めての人は上ってみる価値は十分だ。

海は青く、水平線は緩やかな弧を描いている。皆なで、燈台を囲む白い塀をバックに写真を撮った。ここは私もお気に入りの場所である。

私は墓参りをしていないので、皆でちょっとお参りする事にした。それを終えるとすぐに家へ。Us君から早々と電話があり、もう家に来ていた。蕎麦を打って来てくれたのだ。立派に出来ている。手作り感がよく出ていた。

蕎麦をあまり食べない者もいる。今から茹でると言っても、積極的に食べたいとは言わなかった。蕎麦を食べる習慣がないのだろうと思った。全部茹でた。かなりの量になった。少しずつなら10人分くらいはある。私は皿に盛り付け、妹が刻んだネギを乗せ、蕎麦用の袋入りだし汁を入れて、それだけで食べた。

これは好き好きもあるが、4人が食べた。その反応は凄まじかった。

「美味い」

食べた者の最初の感想だった。積極的に好きではなかった者が3杯も食べたのは、その美味さを証明している。私も勿論3杯食べた。葱とワサビだけで、本当に美味しかった。

「蕎麦に甘味があって美味しい」

そう言った者もいる。あっと言う間に、蕎麦はもう何処にもなかった。全部完食だ。

5時45分に家を出て、出雲飛行場へ向かった。さして渋滞もなかった。飛行場では、皆買い物をした。7時10分に出発予定が、到着便の遅れで7時35分に延びた。適当な時間に、再会を願って握手をすると、4人は検査を受ける搭乗口へと消えて行った。

妹と私は3階に上がり、滑走路の見えるデッキに出た。今までのように50円を取ったりしなくなっていた。無料はいい事だ。35分が過ぎて皆、飛行機に乗った。

飛び立つ飛行機が暗くなった遠方に見えるが、垂直尾翼が特にシャークの背ビレみたいに不気味に見えた。ボディーはよく見えず、まるで背ビレだけ見えるジョーズのようだった。西から滑走路に着陸した飛行機。これから東に向かって勢いよく飛び立って行く飛行機。4人の乗る飛行機も、8時前になって滑走路の東側に移動すると、次第に速度を上げ、西に滑走した。機体は上に体を上げると、接地する部分は全てなくなり、そのままぐんぐんと上昇し、迂回して、東の空に消えて行った。

家に帰ると何も食べたくなく、9時30分過ぎには神戸へと向かうべく、妹と別れた。

もう、車の灯りしか見えない暗さになってしまった。単調な景色に退屈になる。兎に角、米子道の蒜山高原SAに向かった。そこに入ると暫く目を閉じた。眠い時は、こうしてシートを倒し、少しでも眠るに限る。神戸への到着予定は2時過ぎだった。

蒜山高原のジャージー牛乳のソフトクリームはすっかり有名になり、明るい内なら食べられたが、もうこんな時間には売っていない。それにしても値上がりしたものだ。350円になって吃驚したのも束の間、最早380円に値上がりしている。それでも、食べたい者は食べるのだから感心する。私だって食べた。

余り小さなPAでは寝たくない。次は米子道を出て、中国自動車道の勝央SAに入った。2時に近かった。少し寝たが、気が付いて見ると空が明らんで来ているようだった。5時頃に山の間から朝日が覗いた。もう眠くはない。只管家に車を走らせた。

皆、25キロオーバーのスピードを平気で出している。私はそれを越えないように走った。

家に着くと6時頃ではなかったか。幾ら眠くても、31日はオカリナの練習に行く事になっている。昼の1時に約束をしている。これが終わるとやっと時間が出来る。寝られると思っているのに、こうして今迄ブログを書いている。

8月1日の今日は、福岡の久留米を出て、2番目の娘の家族5人が我が家に来て泊まる。転勤で、随分近くに来るようになった。今晩は旦那と飲まなければならない。しっかり寝て、ビールや焼酎が美味いようにして置かなければ・・。

それにしても出雲の5日間は、新幹線のように唸りを上げて過ぎた。どうしてこんなに、時は速く過ぎていくのだろう。別れる空しさや悲しみを胸に感じながら、また会える日を夢に見て過ごす事になるのだろう。

人の心は、落ち着く事を知らない。安心立命の心で居られる人が果たしてどれ位いるのだろう。やっぱり、人間は旅人なのかも知れない。人と会う瞬間瞬間が愛おしいのだ。
オカリナフェステイバルは今日(24日)は2日間の千秋楽? 大相撲名古屋場所は15日間の千秋楽。ここがぴったりシンクロする事は珍しい出来事だった。

普段は8月の終わりにあるが、16回目の今年は7月になった。いつもはオカリナの祭りが終わったら夏が終わる筈だったが、今年はそれが終わったら更に暑い夏が来ると言った状況だ。

23日のモリネッラオカリナグループのゲスト演奏も素晴らしかったが、今日24日の舞歌さんの演奏も皆に感動を与えた。ゲストに感謝すると共に、皆さんに喜んで頂けるフェスティバルが無事に終えられて、ほっとしている。

さっきまで、私の友達(男2人、女2人)と5人で、三ノ宮の居酒屋で楽しい飲み会をしていた。

2日間とも、かなりレベルは上がっていた。10年前なら凄いと言われただろう演奏も、もう当たり前になってしまっていた。

私に関して言えば、今回のフェスティバルでは、色々な人と会ったり話したりする事が出来た。昨年のゲストからお土産を貰ったり、23日の懇親会では、イタリア人の陽気さに触れた(韓国人もスリランカ人もいたが)時を持てた事が何よりだった。モリネッラオカリナグループとしては付き添いも入れて10人いた。

私は少しでもイタリア語が話せたらと思い、ラジオ講座テキストの4月号を買ったが、それだけの事に終わった。小林理子さんは数年前からイタリア語を真剣に勉強し始め、今では通訳が出来る程だ。私は、外国旅行と言えば韓国の8回を除くと、イタリアとフランスのセットの旅行をしただけだった。

イタリアはオカリナの発祥地だが、その時はツアーなのでブドリオには行けなかった。夢としては、この人達とイタリアで会える事だ。最初にオカリナを作ったドナーティの住んだブドリオとモリネッラは隣接していて、とても感慨深いものがある。

10代が6人いて、20代が2人と、年配の団長兼指導者が1人、このメンバーの1人の父親が今回の参加者だ。

私がナポリでロープウエーに乗ってイタリア人とすれ違う時「チャオ」と言った。その若い女性も明るく「チャオ」と答えてくれた。映画の主役になった気がしたものだが、「チャオ」しか知らなかった。

乾杯の音頭を取る事になった私は皆に、

「イタリア語で『乾杯』と言うので、皆さんも唱和して下さい」

と言った。4月号のテキストに載っている訳がない。PCで調べて、これだけは覚えていた。

「チンチン」

皆は苦笑いをしながら唱和してくれたが、イタリアの人は当たり前のように、しかし喜んで「チンチン」と言った。間違っていなくてホッとした。

今日ゲストで演奏した舞歌さんも参加していて、とっても話し好きな人だと言う事が分かった。それに、聞き上手でもあった。

私は今日24日の51番目の出場で4時半過ぎてからだったが、練習していれば今日が1番良い、と言うものではない。音楽とはそう言うものである。一瞬にして崩れる事もあるのだ。

ゆったり目の曲が多い中で、私は少し速めの曲を選んだ。1曲目は遅い曲だが、指の動きが速い所が何カ所もある。2曲目は、初めから終わりまでがリズムよく、速いのだ。1曲目が「アランフェス協奏曲」。2曲目が「剣の舞」である。

満足の行くものではなく、自分でも分かるミスは数か所に及んだ。致命的なのは、「剣の舞」の最後の決め所で、ずっこけた。修業が、まだまだ足りない事が判明した。練習など余りしない方がいい結果だったかも知れない。だが、それはたまたまの事で、矢張り練習は幾らやってもいいと思った。何故ならある程度自信も付き、深みも増す。発見もあって、練習の方法が違って来る可能性だってある。

また来年に向けて練習しなければならないが、選曲が大切だ。来年はゆったりした演奏がしたいが、それも抽選で通る事が先決である。

演奏が満足に終わる事は決してないが、「2016オカリナフェステイバルin神戸」が終わった事には色々な意味において満足している。もう、16年(回)が終わった。秋の気配など、まだ何処にもない。