粟生線志染行きの電車は、私達を木津駅に届けた。鈴蘭台駅からは4つ目の駅で、普通しか停まらない。
Ki 君と地下鉄名谷駅で待ち合わせて、湊川公園駅で神鉄に乗り換えた。9時8分の志染駅行きをホームのベンチで待っていると、N君が目の前に立った。小学生の案山子作りのボランティアをしていたと言った。K君もやって来て、木津駅で会う事にしていたが、早同窓会状態となった。
車窓からの景色は、愈々田舎を感じさせるモードに一転した。山を削った後に葛や竹などの植物が迫り、急に田園が広がり、トンネルに入ったりした。
木津駅はとても綺麗だが、無人駅だ。田舎に建った、近代的建築駅と言えるだろう。11時に集合だったが、そこでシマさんと奥さんとその男性のお弟子さんがもう来ていた。7人が、誰もいなかった駅を埋めた。そこには、山や田が広がり、その規模の大きい自然的箱庭の景色は、田舎の原風景だった。
空の青さが、都会では見られない程鮮やかで、吸い込まれそうだった。その上大きな真っ白い雲が幾つか散らばっている。こんなに眩い雲も、感動ものだった。心が洗われて行く。その見返りが、暑さだった。
「ロスでは50度あると聞いた」
と、娘さん夫婦が住んでいるロスからの状況をK君が聞かせてくれた。
「抱き合っている方が涼しいらしい」
と彼は笑わせたが、真剣には笑えなかった。余りにも高温だからだし、風呂なら大火傷である。
そうこうしていると電車が着いた音がし、更に7人が姿を見せた。14人が待ち合わせていた事になる。まだ、車でやって来る者もいたりして、いつものバーベキューの飲み会の会場に着くと、全員では24人位が集まった。
シマさんのお弟子さんがこの小高い場所の所有者で、それもこの辺一帯の一部に過ぎない。お陰で、四方が緑色の、素敵な景色に目が染まる所だった。オーナーも、いつもお世話をして下さり、これには感謝の至りだ。
竹などで柱を立て、その上にビニールシートなどを掛け、日除けを作った。それは男の仕事だった。
オーナーには、テーブルも、焼き肉の一切の道具も、焼酎も、今回も捕らえたイノシシの肉も提供して貰った。
簡単な設置を終わると、男達はビールで乾杯を始めた。デーンと豚足が並んだ。我ら同窓生4人。2人はそれを食べた。握り拳以上の大きさだが、初めての者は敬遠していた。私は何度か目で、1個丸々食べた。コラーゲンだと言いながら。
味噌汁にはシシ肉が入っており、豚肉とは柔らかさが異なるものの、まるで豚肉のような味だった。野菜も入って、日頃は食べられない、乙なものだった。イノシシの焼肉も並ぶ。贅沢そのものではないか。
私より齢は上だがお元気なWさんが、モズクの酢の物を作って来ていた。いつも好評で、そこらで売っているものより甘く、とても美味しい。あっと言う間になくなった。沢山、前の日より作っていたと言った。
他に長い島ラッキョウの浸けたものが並び、あとラッキョウ部分だけのものも出て来た。どんな流れだったか忘れたが、これは私が貰うようになり、1日明けた今朝、持ち帰った焼き蕎麦と一緒に食べた。これはどちらも美味かった。特に白いラッキョウは、小さいがご飯にも晩酌にも合うと思った。
沖縄の三線の名手が釣ったと言う大きなチヌが幾つかに分けられ焼かれていた。呼び名は違うが、正にチヌに違いはなかった。立派なものを頂いた。泡盛も焼酎の1升瓶も2本並んだ。泡盛は25度だったが、これは美味い。43度の古酒を以前飲んだ時、少しだったのにも拘わらず、その店で立てなかった事を思い出す。これなら薄めて飲めば焼酎と同じだ。どこかで探して飲みたいと思っている。
K君が差し入れたお菓子類も好評で、私も美味しく頂いた。
オーナーは畑も持っていて、何と西瓜を2つ提げて来た。満足な程食べてしまった。普段高くて買えない。無花果でも枇杷でも、もうそんな理由で食べられない。Ki 君とは帰りの電車の中でそんな話が出て、子供の頃自分達の庭に生っていた美味しい無花果の事を話した。それを狙う椋鳥に食べられる話もしたりした。美味いものは、人間以外にだって美味く、よく知っているものだ。
焼きそばやソーメンが並べられ、皆、もう食べられないと言った。余ってもと思い、ジッパー付きのビニール袋に入れて、少し持ち帰る事にした。
飲んで食べていると2時頃になった。早速シマさんの奄美の三線の弾き語りが始った。これがないと、この会も片手落ちとなる。これで盛り上がる。もう40年もやっているお師匠さんの歌も撥捌きも一流だ。いつも当たり前のように聴くが、贅沢なものだ。
お弟子さんや三線仲間の歌も混じって来る。先に書いたWさんの娘さんがバーベキューの炭にバーナーで火を点ける所から始まって、シシ肉やチヌなどの焼きを担当していた。男子のお孫さんも1人付いて来ていて、目まぐるしく動いていた。若い方では1、2番を争っていた。ラップが出来るそうで披露もして貰ったが、シマさんやそらの陽さんと相談の上、なんらかの形で出演して貰ったら、と言う話になった。
そらの陽さんが積極的に話して来たが、最初は何の事か分からずにいた。それが9月25日のYOSOMIの事だと分かり、そうだったのかとやっと納得した。
Sさんが頻りにソプラノリコーダーで何か吹いていた。最初は、「おおモーツアルトだ」などと言っていたが、私の作った「万華鏡」だと知って顔の色を変えずに赤面した。
また、何だか違う曲で、私は「モーツアルトだ」と言っていた。仲間は「ベートーベンだ」などと言っていたが、曲を聴いたからではなかった。それがまた私の曲で「野ぼたん」だった。ただ聞いているだけでは、自分の曲だとは全く分からなかった。Sさんは、実際にはアルトリコーダーで吹くと言った。こうして吹いて頂けるのは、有り難いものだ。
そらの陽さんもオカリナを吹いた。私は特に吹く気でいるのではなかった。意欲の低下だろうか。
また三線が始まった。これがもっとないと気分が盛り上がらない。しばらくして、周りにいる者がこぞって私を急き立てた。
「持って来てるやろ」
確かに2本は、チャックが利かなくなった鞄に入れていた。この鞄、次のを見付けたら捨てる積もりでいる。
数日前に手にした「オカリナ18号」の冊子に載っている「いきものががり」の「ありがとう」を、機会があれば吹く積もりで、でも余り練習もしていないので短い楽譜も鞄に入れていた。暗譜は、簡単な曲でも、メロディーが飛ぶかも知れないのだ。
もう作られていない、元祖と言ってもいいアケタの2連オカリナを出した。私はずっと以前に買っていたが、イカロスに出会う前は吹かなかった。必要性を感じなかったからで、アルトCとソプラノFの2本を所有していた。今回はソプラノFを持参。と言いっても、アルトCより遥かに音程と1連と2連の繋がりがいいのである。
アルトCは吹かないと思う。
「これはプレミアムもので、100万円でも売らないよ。そしてこれは庵オカリナで、女性の作家のものです」
と言って、真っ白な庵のオカリナも並べた。弱い息で吹かなければならず困っていたが、小さな捨て穴のような穴がありそれをビニールテープで塞いだ所、半音は低い音になった。これなら私のやや強い息に対応してくれると思った。その2本を持って来た。
100万円などと言うから、皆手に取って見たりしていた。そらの陽さんには吹いて貰った。やっぱりアケタのFがいいと言った。
10人位は周りにいた。演奏会ではないから、本当は聴こうが聴くまいがどちらでもいいし、遠くにいても聴いているかも知れず、聞こえているかもしれない。飲んだり食べたりしていたら、それは当たり前の事である。
「ありがとう」を吹き、庵オカリナでは「ある愛の歌」を吹いた。
竹藪があり、その前に無花果の木などなかった筈だ。だが、今はデーンとその木が1本、青い実をつけていた。身長以上の高さはある。
何度も向こうに電車が走り、その度に音が聞こえて来た。2輌だったり3輌だったり4輌だったりした。緑の水田に、その車両の色はとても綺麗に融合していた。
そろそろお開きの時間となったが、5時前だった。オーナーが設置したものの後片付けはしなくていいからと言った。今度から、暑い夏ではなく秋か春にしてはと提案された。シマさんに伝えた。彼も皆に伝えた。来年から、秋の涼しい時に開催される事になった。オーナーは、
「そうすれば、テントなどしなくてもいいし、柿が食べられるし」
と言った。柿が食べられるなど、またまた贅沢な会になりそうだ。
帰り道、矢張り夏の草の匂いに噎せ返っていた。たまには友達と来て、この景色に染まるのもいいと思った。匂いまでするクレバスの中に潜り込んで、その中で遊んで来てもいいだろう。
沢山飲んでいないので、名谷駅のベンチで眠る事はなかった。Ki 君と別れてバスに乗った。帰ってからシャワーをしてTVを観ていたが、ブログを書く気にはならなかった。
9時だったが、眠る事にした。毎晩のリオに釘付けで、寝不足もいい所である。普段の寝不足に拍車を掛けている。書こう、と思ったが気持ちが動かなかった。何度も2時間毎に起きてはトイレに行き、何度か眠った。ラジオも聴かなかった。起きる気になったのは翌朝22日の5時過ぎだった。
無気力になると、体が動かない。
気持ちが高まらなくては、意欲が湧かない。
情熱が無かったら、火が点かない。
体力の衰えを心が励ますが、それでもついて行かない。気力が充実する時は、体がそれに従える準備が出来ていなくてはならない。普段の寝不足の蓄積は痛ましい。それにも増して、人為的貼り付け的に観ざるを得ないリオオリンピック。あの世界的祭典の自国や他国の頑張りやとてつもない力を観る時、それは幸せな一時だったと思うのだ。
沢山あるが、男子400mリレー。それは、37秒60の、1分にもならない時間だった。それをライブで共有出来た喜びは、何ものにも換え難い。銀メダルを予想していた者は殆どいないだろう。区切って言えば、4年間の努力や練習の堆積が、その結果を表すのに1分とかからなかった。それを思うと、「努力」などと言う言葉を、安易に使えなくなった。
空の青はキャンバスだ。真っ白な雲がそこに流れるのではなく、悠々ともくもくとその存在に感動させてくれた。愉快なバーべキューの、奄美の会だった。