頭は混乱し、足は地面を踏みしめる感覚がなく、細胞たちは期待を裏切られたかのように一気に閉塞して悶えた。
東京にいる事に、訳が分からなかった。全て事が済み、神戸に戻って来ると、その事は夢でしかなかった。そう思われるのも無理はなく、この世の事は全て夢の中なのだとさえ感じさせられたのだった。幾ら古稀を過ぎたとは言え、だから耄碌したのではとも思われない。
K君が手配してくれたJALで、伊丹空港から羽田空港へと向かった。Yさんも一緒で、お昼を跨いで小一時間の、主翼が邪魔をしたり真ん中の席だったりした事も影響して、地上も富士山も雲さえ見えない、エンジン音だけの空の旅だった。
飛行場はどこもそんなに驚くほどの変化がある訳ではなかった。羽田に着くと、東京に来たと無理に思おうとした位だったから。私の中では、もう来る事もないと思っていた東京で、それは学生時代を過ごした経験と、誰かの結婚式で来たり、私のオカリナ演奏を或るライブハウスに聴きに来てくれた6、7人の女性達の有り難かった思い出を抜きにした東京は、余りにも遠ざかった世界だったのだ。
Yさんは身内の人と会ってから会場に来ると言って別れ、K君とお互いの通っていた大学を見たりしながら会場に行こうと話し合っていた。だが、羽田空港の食堂でカツ丼を食べ、会場に荷物を置いてから行こうと言う事になりそのようにしたけれど、もう3時間もしたら始まろうとしている事もあり、また懐かしいD君がロビーのテーブルの椅子に座っている所に出くわすと、そこで話に花が咲き、ホテルから出掛ける気にはなれなくなった。
ホテルは「島根イン青山」と言い、港区青山7丁目にある。この15日は、18時から同窓会が始まる事になっていた。
D君は真っ黒に日焼けしていたが、それは釣り三昧の日々を送っているからだと言った。この前は30センチ位の鯵を15枚釣ったと言っていた。釣りが好きでたまらない様子で、私も誘ってくれたが、今更行く歳でもなかった。彼とは高校生になって初めて出会ったが、その歓迎遠足で、8キロメートルは離れているだろう出雲大社に歩いて行く途中、ずっと喋っていた。その時からの親しい友達になった。
そうこうしていると女性もやって来て、数人がテーブルを囲んで話し始めた。かつてない一番小さな13人の同窓会が、ここ東京の青山で開かれる事になっている。K君と同室に泊まる事にしていて、取り敢えずチェックインをした。その部屋にSa君が入って来て、以前に写してくれていた沢山の関係のある写真をくれた。暫く思い出話で時が過ぎて行った。
高校は出雲で、出雲に在住の者や関西に住んでいる者、東京近辺にいる者達が集った。高校3年生の4組の同窓会だ。私に取っては小学校以来初めての女性の担任のD先生のクラスだった。その先生も去年の初春に亡くなられ、皆悲しんだ。4組になった仲間も個性的で、それぞれが好きに過ごしているような感じさえあった。
だが、皆奈良女子大を出たD先生が好きだったし、才媛の香りが漂っていた。だが、先生も私達の事が好きで、亡くなられる前の同窓会では、クラスの1人ひとりの名前を、出席順に全員諳んじた程だった。D先生の誠実さや愛情は、1人ひとりそれぞれに向けられていた。まるで太陽の光のようだった。
それはもうともかくとして、だからこうして皆が遠方から四方八方から集まった原因の1つであると思う。「二十四の瞳」は大石先生を入れて13人だったか、我々は参加者全員で13人で、D先生と大石先生の何処かが重なる思いがした。
午後6時前になり、宴会場と言うよりも懇親会場に入っていった。一瞬懐かしい顔が目に入ったが、これまた一瞬の事だったのだが、大学の教授風に見えた人物がいた。それは高校で楽しく過ごした親友の1人の I 君だった。
どうしているだろうとの思いはずっとあったが、会うのは50年振りと言う事になる。或る部分はお互いに違っていたが、握手をし、抱き合った。数字にしてみると左程でもないが、その生活は人を変えて行く。それが歳を取るに連れて成長したり変革されて行ったり、自分を良くも悪くも変化させる半世紀だった。
他の友も勿論、よく会ったりしている者もすぐに高校時代の頃に引き戻される。ビューンと轟音がしたかと思うと、「過去50年前駅」に立たされているのだった。丁度舟木一夫の「高校三年生」が盛んに歌われていた時で、カラオケで歌うようになってからその画面に映る教室のクラスナンバーが「3の4」だったのが痛快だった事も思い出されるのだ。
物故者もいるが、全員が集まれば13人と言う事はない。だが、何かの集えない理由があるのだろう。出雲の市会議員をしている者もいて、彼は近しい者に懇親会の時間に電話を掛けて来たし、手紙も寄越していた。
D先生のいない初めての同窓会となったが、先生から送られて来た手紙を読む者もいて、皆誠実な先生の心に打たれた。誰に来た手紙であろうとも、みんな自分に来た手紙の様にそれを聞いていた。
I 君はこの会の発起人をO君とやってくれていた。最初に写真を写し乾杯し、彼はこの会を特別の思いで計画していたのだろう。自分が亡くなる時にこの歌を教会で歌って欲しいと言って、楽譜を皆に渡した。1番を彼が歌い、また1番を皆で歌った。それは讃美歌687番の「まもなくかなたの」だった。
♪まもなくかなたのながれのそばで たのしくあいましょう またともだちとかみさまのそばのきれいなきれいなかわで みんなであつまる日のああなつかしや
彼の素晴らしい喉とその純真な思いに触れ、それは高校時代に遡るものだと思った。彼は、そんな風に成長していた。魂と向き合って来た50年だったのではないかと思えた。
Is君は音楽が好きで、高校時代はホルンを吹いていた。この日はピアノが弾きたかったようだがピアノはなく、 I 君がキーボードを持参してくれていた。それを彼は弾いた。校歌の伴奏をした。それと、私にはオカリナを持って来るように言っていたので数本持って行ったが、私はラジカセがないものかと期待していた。CDも用意して臨んだ。だが、何処を探しても楽譜のファイルが見付からなかった。結局は家に忘れていたのだ。
彼のキーボードでコラボをする事になり、結果的にはそれの方が良かったのかも知れない。3曲位演奏した。聞く所に依ると、彼は田舎でピアノを教えていると言った。すぐに伴奏出来るのが幸いだった。
オカリナの話が出たので、席に戻っても調子に乗って2曲アカペラで吹いた。アルコールが入っているので、苦しそうな息遣いの所も在ったかも知れない。だが、数人が私の方に携帯やスマートフォンを向けて、録音していた。やっぱりオカリナの音には、人はよく反応してくれると思った。そんなに親しくはなかった仲間が、最終的には2枚CDを買ってくれ、これには嬉しくもあり驚きもした。
もう既に以前買ってくれている者もいたけれど、皆よく買ってくれたものだと思った。それも、K君が私のオカリナに就いて熱弁を奮ってくれたお蔭もあったのだろう。売り付けるようで余り気は乗らなかったが、こんな場ででしか、人に聴いて貰える事がないから仕方がない。男性に比して女性は少なかったけれど、それでも高校時代の色々な事を聞いたり思い出させてくれたりした。
2時間のバイキン形式、飲み放題の懇親会は2時間となっていた。だが30分の延長が出来た。島根県在住の者は宿泊料金などの待遇が特に良い。チェックアウトの時間も2時間延ばして貰える。私は出身地が島根でも在住ではないので、そんな待遇は一切なかった。けれど出雲弁の番付表が貼ってあったり、ビデオでは出雲大社や大蛇退治など島根に関わる映像が流れていて、故郷を彷彿とさせた。
2次会と言っても派手な事はせず、 I 君の部屋に皆集合し、ベッドの上に上がったり、地べたに座ったり、椅子に座ったりして飲み直しをした。ここでまた2人の女性がCDを買ってくれた。これにもポン吃驚!
1部屋に13人は圧巻で面白かった。
部屋にそれぞれが帰った後、 I 君は片付けが大変だっただろう。それもまた、どちらにも良き思い出となる事だろう。ぐっすりと眠れたが、次の朝少々アルコールは残っていた。
出雲や各地に帰る者もいる。朝はきっと7時頃から朝食を摂っている者がいるだろうと思い、K君と2人7時過ぎに食堂に行った。前日割引券を貰っていたので、和食か洋食かの食事が出来た。殆どが和食だった。6人はもう食べている真っ最中だった。
それぞれが飛行機などの時間が違うけれど、何人かを見送った。その後私とK君、D君、 Is君、S君との5人は散歩をする事にした。すぐ近くに青山学院大学がある。どうも正門ではなく裏に回ったようだった。敷地内に入るのは憚られたが、そこの関係者に正門への行き方を聞き、5人は構内に入って行った。
まるで大学に関係のあるものの様に歩いたが、50年以上前に門から見えたギリシャ風の建物が見えなかった。中等部の女生徒達が10人は並んで座っていて、こちらを見ている。話しかけたそうに見えたし、笑ってもいた。横を向くとまた笑っている。何と思ったのかは謎だが、無垢な明るさがあったのは確かであろう。
門の方に向かうと、一丸となった大学生が入って来る。流石に女子学生が多いが、早歩きで急いでいる。最初の授業が始まるのであろうか。もうすぐ9時になる所だ。
門の外に出ると、向かって右に「青山学院」、左に「大学」と書いてある。そこから真っ直ぐに見ると見える筈のその建物は見られない。その疑問が解けた。モミの木のような大きな木が、でーんとその前に立ちはだかっていたのだ。どうしてこんな木を植えたのだろうと思ったし、半世紀の長さを思った。
どんどん学生の群れが渋谷駅方面からやって来る。バックパッカーのような姿の者が多い。前はそんな事なかったのに。次から次へと湧いて来る。もう別の人種の様だった。自分のその頃を懐かしむ事もなかった。時は確実に過ぎていた。もう初老の我々だった。
この正門の横には銀杏の並木が続き、その白い建物の前には桜の花が咲く写真を、「蛍雪時代」で見たように記憶している。それに、確か英文科の写真が表紙になっていて、多くの女子学生が授業を受けている真ん中に、たった1人の男子学生が写っていたのを、今も印象深く思い出す。一瞬持てるだろうなと思ったが、後から、絶対に持てないと思った。
ホテルへの帰りに雨が落ちて来て木の下で雨宿りをしていたら、おばあさんが傘を貸して上げようと言って話しかけて来た。5人共、それは辞退した。ホテルに戻る所だと誰ともなく言うと、そのホテルにはよく行くとの返事だった。
タクシーで帰ろうと言う者もいたが、それまでしなくてもと考えていると、そのおばあさんが道の向こうから呼んだ。そこはバス停で、バスに乗ればいいと言う。「青山学院西門」と言うバス停だったが、次が「青山4丁目」で、そこからホテルはすぐだと教えてくれた。おばあさんも乗った。雨に祟られず、歩けばかなり遠かっただろうが、ホテルにすぐ近い所にバスは止まった。
ハチ公バスと言って、100円だった。皆がホテルに入ると、一番近い入口から入ったと思われるそのおばあさんがいた。コーヒーでも毎日飲みに来ているのだろうと推測した。それにしても不思議な縁のようなものを感じた。雨にも左程打たれず、道案内をしてくれたからだった。
11時になると3年4組ではない女性が4人、1階の喫茶にやって来た。これは会う約束をしていたのだ。男性6人は私とK君D君 I 君 Is 君S君、女性は Ishさん、Yさん、Tさん、Hさんだった。これが合コンなんだと思った。
すぐに打ち解けたが、私は昨日の様には饒舌ではなかった。アルコール疲れと地に足が着かない疲れとが混ざっていたのだろう。月替わりの料理を食べて、 Is君とD君は出雲に向けて帰って行った。我々8人は、折角なので近くの2つの美術館を巡った。
もう詳しくは書かないが、「生きる尊厳ー岡本太郎の縄文ー」を観に、岡本太郎記念館に行った。太陽の塔を思わせるモチーフのような作品で飾られていた。これは明らかに岡本太郎の世界だと思えた。
もう1つは根津美術館で、「鏡の魔力(コレクション展)」と「若き日の雪舟(特別企画)」をやっていた。前3世紀辺りの鏡は誠に立派なものだった。この根津美術館は庭が素晴らしく、暫く散策した。季節が違えばもっと素晴らしいだろうとも思った。桜や紅葉の季節になれば。今は新緑が美しい。
久々に出会えた女性達とはそこで別れた。会えて嬉しかった筈なのに、体は飲み過ぎの所為か重かった。我々4人は、取り敢えずホテルに戻り荷物を受け取って、タクシーに乗った。渋谷駅まで乗ったが、最初の料金表示が730円。最近滅法乗らなくなった私には、随分高いと感じられた。
I 君とS君は反対の方向へ、私とK君は、K君の息子のアパートに行った。ここに泊めて貰う事になっていた。息子は出掛ける所だった。もう夕方なので食事に行ったが、ステーキでも6、7百円で、リーズナブルで美味かった。
そのあとセブンイレブンでビールやワイン、あてを買い込んで帰った。11時過ぎまで飲んだと思うが、私は寝転ぶと、そのまま朝までぐっすり眠った。手品のプロである息子が帰って来たのは、真夜中だったと言う。
次の朝、9時まで喋ったりしてゆっくりしていた。いい話も沢山聞いた。それからそこから1分も掛からない好条件のアパートから駒込駅へ。そこから東京駅へと向かった。折角なので、煉瓦造りの、しかし工事中の東京駅を目の当たりにした。だが、アルコールが残っているのか足は地に着かず、ボーっとしていた。東京に来ている実感がなかった。
神戸に住み、大阪や京都によく行く私には、東京だからと言って、そんなに都会を感じなかった。範囲が限られていたのと飛行場と飛行場を行き来しただけの事で、東京へ来たと言う実感がなかった。だが、ビルは高く聳え、大丸の建物の凄さは感じた。
もう2時30分の離陸までにそんなに時間はない。彼と羽田まで行こうと言う事になり、モノレールに乗った。
国内第1ターミナルで食事をした。やっぱりカツ丼になった。
後は、国際線ターミナルに無料バスで向かい、彼の息子に教えて貰った4階の「江戸小路」に上がってみた。素敵な食堂も有り、ここで食べても良かったなと2人で話した。アジサイ展があり、色々な種類のアジサイで飾られていた。
日本橋も実際に短く作られ、結構楽しめた。あれこれしている内に時は過ぎ、国内第1ターミナルに戻り、JALに乗り込んだ。地に足の着かない3日間は、呆然と過ぎた。長い間行ける日を描いていた東京。それが飛行場とホテルの行き来で終始したのだから、大地を踏みしめている感覚や感激などはある筈もない。
皆に会えたのは嬉しいが、それと東京とが合わない。タイムラグが感じられる。夢か現か幻の何処かで、それは浮遊している。巨大な大東京の軒下に過ぎない青山通りも、それが東京だとは到底思えなかった。貴重な出会いがあったにも拘わらず、そこが東京だとは感じられなかった。もう1度、しっかり足を地に着けて見て回れる日を頭に描く。
長い間思いの深かった東京が、そう感じられても不思議はない。それもそうだろう。巨大な東京が極小の私のそんな思いなど、いとも簡単に呑み込んでしまったからだ。
楽しい感謝の日々であった事に違いはないが、駄目押しをするかのようにJAL121便は、足の地に着かない私を乗せて、17日午後2時30分の予定を少しばかりずらし、滑走路を滑るとぐんぐんと上空に飛び上がって行った。