朝9時に「カインズホーム」の坂の上の駐車場に行った。まだ、そのプレハブの小さな小屋は開いていなかった。もう1度、家に帰った。9時30分からだとアルミの戸に貼ってあったのだ。屡々行く訳ではないので、開く時間まで覚える意識はなかったのだ。

もう10時頃だったろうか。再び行くと1人の男が入っていて、ごそごそ動いているのが見えた。寒いから車の中で、終わるのを待っていた。1台の車がやって来て、その小屋の隣りに着けた。この人も、同じ目的で来たんだなと直感した。

先に並ばれたら、「私が先に来て待っていたのです」と言える元気はない。何故なら、この場合2通りが考えられたからである。

「ああそうだったのですか」と言って譲ってくれるか、「こちらが先に並んだのだから」と言って、知らん顔をするか。だったら、私が車から出て、先に並ぶしかない。これは、経験から得た煩わしい事を避ける知恵だった。私の気持ちに同調してくれる人ばかりではなく、人間の世には、「まさか」の「坂」がある。

先に入っていた男が、狭い小屋から出て来た。こちらを向きもせず、何も言わず、当たり前の様に車の方に行った。別にどうでもよく、私と少し違う行動だっただけである。別に驚きはしない。

ここまで引っ張った私に、ここは何処だと思いながら読んで来た人が殆どかも知れない。分かった人もいるだろう。でも、そろそろ明かさないと叱られそうだ。また、何を書きたいんだと思われそうでもある。

精米機の入れてある小屋なのだ。5分づきとか7分づきなどがあり、私は白米にした。100円を入れて、書いてある手順でやれば、最後は元の袋に入れてお仕舞いである。

並んで待つ間、目の前に150センチ位の高さの塀があり、少し離れたその上に並んだ雀がいて、これには吃驚した。何度か数えてみたが、20羽はいた。外に毀れたお米を狙っているのか、小屋の戸をしっかり締めないで出たのを見極めて、小屋の中に入ってお米を食べようとしているのだ。つまり、常連の雀だった。

私が見つめても、どこ吹く風かのようだ。だが、どの雀も羽毛が膨らんでまん丸く、ふくら雀だった。こんな姿を、集団で見たのはそんなになく、とても可愛く思われた。小屋に入った後暫くしてさっきの方向を見たら、1羽の雀もいなかった。戸を締めたらいなくなるのだと思って、塀の手前を見た。何とここまで近づいて並んでいたのだ。

中にいる間考えた事が2つある。小屋の戸を開けて置く事。そして、ちょっとだけお米をばら撒いてみる事。だが、どちらもこんな場所では御法度だ。可愛いのだが、私の気紛れな行為で迷惑を掛けるかも知れないと思い、それは思い留まった。

終わって出る時に、案の定小屋の隣りに車を着けた男が次に入ろうと立っていた。私が出るや否や軽く頭を下げた。勿論私も頭を下げた。それだけで、とても気持ちの良いものを感じた。戸は閉めずに、開けたままにした。

私が書きたかった事は、1、2行で済む事なのだ。ここまで読んで下さる方々には何と言っていいか分からない。どう思って読んで頂いているか分からないが、私は、感謝の頭を下げたいと思う。


ふくら雀を詠んだ江戸時代中期の俳人鬼貫に、こんな俳句があるのを発見した。

葉は散(り)てふくら雀が木の枝に  鬼貫
或る人には当たり前の事が、或る人には分からない事がある。自分が知らなかった事もあるし、相手にはそれが生活空間である事もある。神戸に来た時に、板宿(いたやど)を、私は「いたじゅく」と読んだ。その板宿で、シマさん達奄美の新年会があった。私もそらの陽さんも参加して、「孫悟空」と言う名の店に15人が集った。

シマさんと私は年男で、徳之島風のお神酒を最初に頂いた。底が金色のグラスのお猪口に、それは舐める程注がれた。舐めた訳ではないが、口に広がったのはほんの数滴だった。三宝の赤白の小さな屏風のように折り畳まれた紙が、下の方が大きく円盤形に膨らんだ2つの徳利に差し込まれていた。

この店の女将さんは徳之島出身である。もう1人はよく似た顔立ちだったが、姉妹でも親子でもなかった。

15人は所狭しと向かい合って座り、横長にくっ付けられたテーブルの上には小正月らしく、幾つもの大皿に美味しそうなものが並んでいた。煮付けは圧巻だろう。大きな大根が目を惹く。豚肉、人参、昆布、蒟蒻。これだけで満腹になりそうだった。

大根の酢漬け。ポテトサラダ。サータアンダギーに似ているが中はジャガイモの揚げ物。骨付きの豚肉。具が沢山入った海苔巻き。どれを取っても美味かった。前日の夜の会でまだお酒が残っていたにも関わらずだが、再び、今回は豪快なおせち料理を食べたような感覚だった。

ビールの後は芋焼酎のお湯割りを飲んだ。今日は良い日なのだろう。シアさんの相方Mさんから、シマさんもだが、何と2人に黒糖焼酎「きらめきの島奄美」を頂いた。思わぬ贈り物だった。

新婚の夫婦も来ていて、その彼が先ず三線を弾きながら唄った。若いけれど、三線の師匠だそうである。その後はシマさんが弾いた。シマさんは勿論大師匠である。シマさんの演奏は声は元より三線の音は安定しており、渋い響きがした。もう1人の彼は、華やかな音。それは若い音だった。奄美の会に三線は不可欠だ。

今度は3人が三線を持ち、弾きながら、周りの者も1人ずつ唄って行った。こうして三線は続き楽しまれて行く。

私も演奏するように言われ、4日前に初めて手にした葫蘆絲(フルス)を吹いた。「Endless Love」である。ジャキーチェンと韓国の最も美しい女優と言われる金喜善(キムヒソン)の出演する映画「神話」の主題曲だ。まだまだ上手くは吹けないが、早々に音だけは聴いて貰えた。

「それで終わり?」

と言われ、

「土の塊があるでしょう」

と言われて、AG管を鞄から出し「愛の讃歌」を吹いた。今年1年かけて仕上げて行きたい曲である。

次にそらの陽さんが「島唄」を吹いた。この場を考えて、この曲にしたそうだ。そらの陽さんの優しい音色が、AC管から流れた。

ビールは消え、芋焼酎と黒糖焼酎の入ったコップが残った。面前にはジョッキに入った薄いオレンジ色の飲み物が1つ2つと増えて行き、とうとう5つ数える程になった。トマトジュースを注ぎながら飲む。私もそれを飲んだ。量はあるし、美味いし、度数も知れている。新しい発見だった。

1時から始まったこの会も、一応4時までと言うことになっている。もう3時を過ぎ、カラオケで歌う事になった。

「五木ひろしの何の曲が良いですか」

そう聞かれた。思わず、

「長良川艶歌」

と言ってしまった。誰が入れ知恵したのだろう。「夜霧よ今夜も有難う」が良かったと思った。もう歌わなくなって久しく、声だって上手く出ない。昔は歌いたがった方だが、いまは歌わなくても何ともなく、寧ろ聴いている方が良い。それにしても、皆さんは上手い。何故か考えなくたって、三線で常日頃唄っている声は鍛えられ、張りがあるのだ。

シマさんはコブシも裏声も上手く、拍手喝さいを浴びている。対抗意識などがなくなると、上手く聴こえてくるのだが、どちらであっても本当に上手い。

4時が少し過ぎて、お開きとなった。正月から毎日のように飲み、この3日間は続けて飲んだ。

大寒波の襲う街を方向違いに別れて歩き、電車の駅でも別れ、地下鉄ではシマさん夫婦が東へ、私は1人西へ向かった。名谷駅からのバスに乗ろうと急いだが、出たばかりだった。青さが寒さを増す空を見上げながら、次のバスを待った。

これで暫く会らしい会はないが、板宿での徳之島の会は愉快に終わった。
うわー、雪だ。

朝、レトルト100円未満のカレーを食べて、梅干し2個一緒に食べて、お昼を待った。

シマさんのブログを観て、刺激を受けた。彼はぜんざいを食べていたのだ。ぜんざいは、私の地方の十八番だ。だって、神在月は出雲だけの世界。八百万の神様が、10月は出雲大社に全国から集まるので、他の地方は皆神無月だからだ。

神在? それは「じんざい」と読む。それで、「ぜんざい」となった。だから、出雲が「ぜんざい」の発祥の地と呼ばれている。

外に出た。雪だ! 舞い降りる雪。感動ものだ。私は、コープへ歩いて行った。ジャンパーに、雪が降りかかる。

大きな小豆の缶詰めを買った。甘味が押さえてあると書いてあった。塩昆布も買った。日清御膳の「きつねうどん」と「たぬきそば」も買った。煮た黒豆も。

オーブントースターで冷凍した餅を焼くと失敗する。膨れ上がり焦げ目が付くけれど、固い部分が残る。もう1度焼く。焦げてしまう。美味しくも何ともない。

考えたのが、電子レンジで2分間、チン。ベちょっと広がった。1分で良かったかも。でも、それをオーブントースターに入れた。膨れ上がり、それは柔らかく仕上がった。

ぜんざいに2個入れる積もりだった。だが、大き過ぎて1個で十分だった。あと1個は、チーズを挟み、砂糖醤油に絡めた。海苔で巻くのもいいが、今回はそれはなし。

ぜんざいとチーズ餅。結構満腹だ。だが、黒豆も食べた。塩昆布も食べた。美味い!

たぬきそばも食べた。美味い! きっと胃が驚いている事だろう。私も自分に驚いているのだから。


雪は止んでいた。空は青く、美しい程だ。

大先輩との会が元町の大丸から東に行き、路地を入った料亭で行われた。6時からで、私が着いたのは5時40分頃だった。第一番目の大先輩のは、体の具合が悪く来れなかった。二番目の大先輩は、電車の都合で6時半に着いた。飲む練習をしようと言う者もいた。だが、待って正解だった。

今回は少ないが、13人が集まった。お世話になった者は、その恩を忘れてはいなかった。そうして、宴会は始まった。終わったのが9時である。

窓の外は暗かったが、雪が舞っていた。街灯の周りは妖精たちの乱舞で銀色に輝いていた。私は内心ワクワクしていた。寒くて震えるのは好みではないが、それでも、今日は久し振りの雪が見られたのだ。

雪は大好きだ。雪見障子から観る雪は尚更である。

高校生の頃、出雲大社に大晦日の夜中に行き、1月1日午前0時に開かれると同時に、早い参拝者達が本殿にわっと雪崩れ込む。帰りはタクシーで帰ればいいと思っていた。真夜中の0時はとっくに過ぎ、お参りを済ますと当たり前のようにタクシーを待った。来ない。雪は降り頻っている。

段々足の先や手の先が冷たくなる。1時は過ぎ、2時も過ぎ、3時も過ぎた。相変わらず人出は途絶える事がない。

もう諦めしかなかった。4時ともなれば、疲労感さえ湧いて来る。タクシーから誰かが降りるのを呆然と見ていた。だが我に返ったかのように、その貴重なタクシーに飛び乗った。歩いて帰ったら8キロもない道程だから、歩けば2時間で家に着いただろう。しかし、雪道を歩けば確実に凍傷になると思った。

家に着くと、感覚は麻痺してしまっていた。母はすぐに風呂を沸かしてくれた。湯舟に浸かった。熱いのか冷たいのか、そんな事は全く感じなかった。その内、徐々に血の気が蘇って来るのが分かった。

そんな事を思いながら、窓の外の雪を見ていた。何故雪に惹かれるのだろうか。田んぼ一面を雪が覆い、それは白一色の雪景色だった事を思い出す。規格外れの壮大なキャンバス。純白の世界は、かくして美しい。

一人ひとり近況を話して、この会は終了となった。

皆東へ西へと別れて行く。元町駅から垂水駅まで電車で、そこで降りたのは、大先輩と私だけだった。すぐに出発したバスに乗った。

雪は降り頻っていて、見る見るコートに重なった。空は月明かりの所為で明るく、雲以外は多分真っ青だったに違いない。家までの道は、端の方は薄化粧をしていた。

家に着くと、車に積もった雪を拭ってみた。冷たいが、雪を実感した。

家に入ると、きつねうどんの為に湯を沸かした。カップうどんには油揚げが入っていて美味いのは美味いけれど、やっぱりカップそばがより美味い。あの固められた掻き揚げが出汁に溶けて柔らかくなり、エビが香ばしいのが堪らない。もう、酒を飲もうとは思わなかった。

ひらひらと舞い降りる雪。地面に落ち急ぐ雪。落ちると見せかけて、また空へと舞い上がる雪。街灯の辺りでゆらゆらと舞っている雪もある。どっちみち地面で溶ける運命の牡丹雪だ。因みに出雲ではダンベラと言う。

頭の中に刻み込まれた方言を咀嚼しながら、現実から無抵抗の世界へと微睡んで行った。
ドビュッシーとハイドンとベートーヴェンに会って来た。西宮北口の芸文センターで。それも、沢山の人達が。大ホールは満員だった。

おまけに、バッハにもシュトラウス2世にも。

兵庫芸術文化センター管弦楽団。指揮、佐渡裕。

ドビュッシー:小組曲(H.ビュッセル編曲)
 Ⅰ 小舟にて
 Ⅱ 行列
 Ⅲ メヌエット
 Ⅳ バレエ

ハイドン:チェロ協奏曲 第2番 ニ長調
 第1楽章 アレグロ・モデラート
 第2楽章 アダージォ
 第3楽章 アレグロ

休憩(20分)

ベートーヴェン:交響曲 第6番 ヘ長調op.68「田園」
 第1楽章:「田園に着いた時の明るい感情の目覚め」 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
 第2楽章:「小川のほとりの情景」 アンダンテ・モルト・モート
 第3楽章:「田園の人々の楽しい集い」 アレグロ
 第4楽章:「雷、嵐」 アレグロ
 第5楽章:「牧歌、嵐のあとの喜びと感謝」 アレグレット

「小舟にて」に出会え、「チェロ協奏曲」に出会え、懐かしい「田園」に出会えた。

オカリナを吹くようになって最近に近く、ドビュッシーのこのフルートの美しい曲に出会った。

ハイドンの「チェロ協奏曲」なんて初めてだ。ここでは贅沢にも、よく聞いて来た名前だが、藤原真理に出会った。何処がどうとか偉そうな事は言えないが、このチェロの素晴らしい事。ハイドンがこんな曲を作っていたなんて知らなかった。難しい曲だと思う。聴かせる。歌詞なんてないが、歌っている。感動する演奏。儲け物だった。

何度も拍手に誘われてアンコールに応じた曲は、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番より「プレリュード」。これは何度か聴いた曲だ。至福の時とはこの事だろう。

休憩を挟んで、愈々「田園」だ。就学以前に何枚ものレコードを掛け替えて聴いたのが、「運命」と「未完成」だった。その随分後にLP33回転のレコードで「ボレロ」に出会い、「田園」をも聴いた。「運命」と「田園」との違いが同じ人の曲だとは到底思えなかったのを覚えている。

今日は、懐かしい曲と出会ったのだ。しかもオーケストラの生演奏を堪能出来たのだった。

4階の一番後ろから2列目。ステージを隈なく見下ろせる。音が小さくて聴けないなんて事は全くなかった。本来なら天上から聞こえて来ても疑う余地のない、今にまだ衰えを知らない楽聖の交響曲は、天上でも喜ばれているに違いない。我々地上の者達への贈り物だと思える。

拍手を上から落とす。曲は下から突き上げて来る。この場所は、全く天地反対の場所だった。「田園」の第1楽章の音の強弱はメリハリがあり、この時点から深く惹かれて行った。

実際はデカい人だが、汗びっしょりの指揮者の姿が、小さくもよく分かる。アンコール曲は、シュトラウス2世の「雷鳴と稲妻」だった。70人位の編成だったが、大太鼓とシンバルが加わり、その表現は圧巻でもあった。

チェロの時は33人位の編成だった。ソロの藤原真理以外に、チェロは8人いた。弦は本当に美しいと思う。

3時から始まって、終わったのは5時20分頃だった。外は暗く、中庭を埋めるイルミネーションが美しく、大きな1本の木の灯りは、まだクリスマスの名残があった。

居酒屋に入った。生ビールを飲み、餃子や唐揚げを食べた。お世辞にも美味いとは言えなかった。そこそこに退散して、ケンタッキーに入った。ハンバーガーのセットと、フライドチキンを1個注文した。コーヒーも注文し、やっとほっとした。

月が綺麗だった。昨日は満月だったのだろう。今宵も丸かったが、何処となく欠けているようにも見えた。でもそんな事大した問題ではない。美しければ、それで・・。

時に思うが、37万キロ離れた月が1万キロ位に接近したらどんなになるだろうと想像してみる。怖いだろうな。空気がなくなるだろうな。それで瞬時に地球が洗われて、また定位置に戻ってくれたらどんなにいいだろう。

そうして、田園の美しさを心から称える事の出来る時が再び訪れたら・・。そんな事を思い、アナログを懐かしむ不器用な老人がここにいるのも、変な事だろうか。
午後1時半。私は、須磨にある天神様の近くの練習場に着いた。新年の挨拶を交わすと、お願いしていた女性から楽器を受け取った。

ケースは、上腕から手の平位までの長さで、焦げ茶色をしたまるで蚕のお化けのようなものだった。色んな漢字が散らばっていた。大きさはまちまちで不統一だが、如何にも中国のものだと言わんばかりである。

今日まで楽しみにしていた楽器で、「葫蘆絲」と書く。呼び名は「フルス」と言う。

ジッパーを回して開けると、オレンジ色の内張りの中にその瓢箪のお尻から、中心だけ長く3本の竹が突き出ている楽器が納まっていた。真ん中の竹には表に6つ、裏に1つ、篠笛を縦にしたように穴が開いている。瓢箪の上部にはキセルの吸い口のような形の吹き口が2センチばかり突き出ている。瓢箪の中には、2枚のリードが入っているそうだ。

何故瓢箪なのかは、3本の竹の音が入用な場合全部口に入れなければ音が出ない。そこでこのように瓢箪を使えば、息は瓢箪の中で広がって、3本の管に伝わって鳴るからである。

2枚のリードはオーボエのようだが、オーボエやクラリネットのような上品な音ではない。日本の雅楽に照らしてみると、篳篥(ひちりき)のようである。フルスの横にある竹の1ケ所だけ塞いである穴を開けると、まるで笙のような混ざった音がする。

瓢箪には孔雀と戯れる女性の姿が描かれていて、素朴でありながら肉感がある。この赤と緑の色は、昔何処かで見た、懐かしい色だ。

普通に吹いてみた。音は出るが、小さく、しかもどの穴を開いても同じ音だった。彼女は調の違うフルスを5本位持っていて、二胡を習っている先生が中国から私の為に買って帰って来たこのフルス。その彼女は、私に強く吹くように言った。すると、あのユーチューブで聞いたような音が出た。

まだこれから練習をしなくてはならない。音域は1オクターブ位なものだが、まるでオーボエを吹いているかのような気分だ。だが、オーボエは吹いた事がない。

中国の雲南省の小民族が吹くこのフルスは、忘れようとしても忘れられない、インパクトのある魅力的な音を奏でる。もう10数年前に成龍(ジャッキーチェン)が映画に出た「美麗的神話」。共演者韓国随一の美女金喜善(キム・ヒソン)と歌う主題歌が素敵だ。

私はこの歌を聴き、またこの曲をフルスで吹いている映像を観た。そして、それを何度も聴いて譜面に起こした。単純な」曲だが、それが中々上手く書けない。何人かが吹く別の映像を参考に、やっと楽譜にした。これを今日、皆にオカリナで吹いて貰おうと。

このフルスで吹く音は中国でも人気が高く、今も愛されていると言う。もし中国で吹く機会があったら、フルスでもオカリナでも、一躍寵児となる事は必至であろう。

ユーチューブでは何とか吹けるだろうと思っていて、今もこうしてブログを書く合間にも吹いているが、確かにもうそれらしい音は出る。だが、この「神話」とも「Endless Love」とも言われている曲を情緒豊かに吹く事は、中々大変である。音を休むと変な音が最後に残る。小さな音になる高音は、特にテクニックが必要だ。

吹き方が悪いのか、上唇が痛い。でも、何とか克服したいと、誰にも分からぬように密かに闘志を燃やしている。



成龍  愛を二人の心の中で永遠に咲き誇る花にして

喜善  ウリ ソジュヘットン ヤクソク イッチヌン マラヨ
     (私達の約束を決して忘れないで)

成龍  真の愛だけが無限の時空を超えてついてくる

喜善  ソロ サランハンダン マルドゥル モッ テッソンネヨ
     (愛しているという言葉さえ語る術がなかったの)

成龍  愛は心の中にただひとつ変わらない美しき神話



長い歌だが、これは終わりの部分の2人の掛け合いだ。中国語と韓国語での・・。せめて韓国語の発音をカタカナにして読んでみると、その女性の気持ちがより伝わって来るようだ。

フルスかオカリナか、どちらで吹くようになるにしても、この曲は暫く虜になって吹いて行く事だろう。譜面を見ると至極簡単そうだが、吹くと難しい。そこに、この「神話」の不思議な魅力がある。