「どうですか。変わった事ありますか」

 

「うーん、あのー。21日の朝の事ですが、喉の方がぬるっとして、ティッシュを重ねてペッと吐き出してみたんです。そうしたら、大豆位の大きさの、小豆色をした塊が飛び出して来たんです。それから今日(27日)まで朝いつも見ていたほんの少しの出血は見なくなりました」

 

私は、息堰切ったように話した。

 

30歳前後とは思うその女医は、

 

「鼻の中のものが取れたのかも知れないわね」なんて、そんな言い方はしなかったが、今日が今年最後のお勤めだからであろうか、浮き浮きした感じに見えた。私とは45歳前後は違うと思われる年齢であるが、こちらまで話すのが楽しくなった。

 

「鼻の中のものが取れたのかもしれませんね」

 

「一昨日、CTを撮りましたが・・」

 

「2度も撮らせてしまって・・」

 

「いや、造影剤の事がよく分かって良かったです」

 

「今回のCTでは、最初の跡が消えていました」

 

「じゃあ、あの塊がそうだったのですね」

 

女医は、にこっと笑ったようだった。如何にも穏やかな顔だった。

 

「それでは、手術はしなくてもいいですね」

 

「まあ、覗いて見ないと」

 

と言って、内視鏡を鼻に入れた。

 

「こっちだったかな」なんて言いながら、左の洞窟にそれは入って行った。

 

「奥にあったから、手術はどのようにしようかと考えていました。あった所がこんなに綺麗です。何もありません」

 

私も画像を観たが、雨が急に晴れたように、綺麗そのものだった。もう1度、聞いてみた。

 

「手術はしませんよ。よかったですね」

 

「こんな事ってあるんですね。もう来なくても・・」

 

「そうです。これでお仕舞です」

 

私の21日の出来事が、今日の話を積極的に聞く気持ちにさせていた。あの小豆大のものは、2年間の厄介な残骸だったと全く疑わないまでも、自分ながら信じる節を育んでいたのだ。

 

「最初覗いた内視鏡が、あの鼻の穴の奥の塊を突いたかも知れません」

 

「そうね。多分刺激を受けたのでしょうね」

 

何だか、私も心の中が解放され、まるで医者と話しているのではないような気になっていた。孫位開きがあるにも拘らず、画一的な対応ではなく、明るく温かな気が流れていたからだろう。

 

「今日で終わりですか」

 

そう聞くと、

 

ちょっと面食らったのか、微妙な時間の間を置いて言った。

 

「そう、今日で終わりです」

 

「ありがとうございました。いい年を迎えて下さい」

 

そう言って、診察室の大きな扉を開いて出て行った。何だったのだろう。これだけ不安を引き摺った2年の流れが、こんな形で終結した。

 

2つ鼻の穴がある訳がよく分かったし、無意識に呼吸している事の素晴らしさと爽やかさを感じられる幸せを、改めて感じていた。本当の幸せに自らが包まれている時には、その事を忘れている事が多いが、手術しなくても良くなった一連の鼻騒動から、残り5日の2019年を慈しみ、月並みだが感謝したい。

 

今年最後のブログになるだろうなどと言いながら、また書いてしまった私は、やっぱり意志薄弱だった。

 

令和の言葉を余り発した記憶がない。馴染めないまま大晦日を迎えようとしている。

 

令和と聞くと平和が浮かび、平和と聞くと平成が浮かぶ。元号が変わると、いつでも2つの元号に分割される。平成31年と令和元年2つで2019年をつないで行く。もうすぐ令和2年になるのが余りにも早いのは、令和元年が8ヶ月で終わるからである。

 

今日(25日)の午前中の私の行動と心情を描いてみよう。

 

事の起こりは2年前の事だった。左の鼻の奥に何か詰まっているらしく、鼻から息を吸ったり吐いたりすると中でペコペコ動いていた。強く「ふん」とやったら、何かが飛び出すのが常だった。今回は、どんなに頑張っても出ない。その日を過ぎ朝になっても、一向に姿を現す気配がなかった。

 

近くに、人がよく並んでいる耳鼻科を何度も見た事がある。殊勝にも、そこで診て貰う決心をした。女性の先生だった。てきぱきとした働きぶりを、自分が現役の時の姿と比較していた。比べるのが野暮と言うものだ。職種が違うので。

 

兎も角、その事を話すと、内視鏡を鼻に入れ、こう言った。

 

「これは鼻の奥にくっ付いている良性のものですが、今は小さいけれど大きくなったら鼻を塞ぎ、息が出来なくなります」

 

と言い、

 

「すぐに手術をして取って貰う方がいいと思うので、病院に紹介状を書きます」

 

インターネットで連絡すると、すぐに予約が取れるそうだった。余りにも急なもので、

 

「いつか行きますので」

 

と言うのが精一杯だった。てきぱきとした働きは、こんな所にもすぐに現れた。いい先生だなあとは思ったが、急に行って手術などされては困る。まあ、困るのではなくて、不安で怖い。

 

この女医さんは、私に紹介状をその場で書き、手渡してくれた。

 

「早く行って下さいね」

 

と、やや自分には脅迫にしか思えない、優しい言葉にリボンを添えて。

 

それから、何度「ふん、ふん」とやっても、厄介な鼻の穴の住人は出て来なかった。実際、鼻が詰まった事が何度かあり、布団の中で「このまま息が本当に出来なくなるのではないだろうか」と、右の鼻を押さえてみたが、左の鼻からは空気が余りにも漏れなさ過ぎて、不安は増大した。

 

呼吸するにまだ口があると思い、両方の鼻を指で抓み口だけで呼吸してみた。これが結構な不安材料で、苦しくなった。鼻の穴が2つある意味がよく分かった。それでも、紹介された病院には行かなかった。調子のいい日もが、俄然多かった所為で、また今度、また今度と思ったのがその理由だった。

 

もう2年は優に過ぎていた。令和元年の12月13日の事だった。数ヶ月前から、毎朝起きた時に1度だけ、唾に赤いものが混じるようになっていた。それにも慣れていたその日の朝、鮮血と黒い血が口からトイレの水に溶けた。思いがけぬ事態に、妄想は広がる。鼻血は最初だけで、それ以後は鼻から出て来る赤いものは見られなかった。

 

その日は夜まで、口から出る事はなかった。鼻の所為かも知れないと思い、2年ちょっと前に紹介して貰った病院のホームペ-ジを調べた。この日は金曜日だった。土曜日と日曜日とは、この日の出来事以前の状態のままだった。だが私の心の中は、月曜日になったら必ず行こうと決めていた。しかし、紹介状が無かったら見ないとホームページは謳っていた。

 

2年前のあの紹介状を探した。探しに探した。諦めかけていると、文面は何と書いてあるか分からない、病院に宛てた封筒が見付かった。これで診て貰えると思ったのは束の間、2年も経った紹介状を受理してくれるだろうかとの疑念が涌いた。普通、これはゴルフで言えばOBだ。それ以上に、ペナルティーが覆いかぶさって、とても戦に勝てるとは思えなかった。

 

一番恐ろしかったのは、2年前に行って診て貰った先生に事実を告げ、頭を下げて、もう1度紹介状を書いて貰うか、いやインターネットで予約を入れて貰うかの行為だ。とてもまともに先生の顔が見られないと思えた事だった。

 

受付で、

 

「ちょっとお待ちください」

 

と言われ、

 

「なんとか・・」

 

と言うのが精一杯だった。小さな、ぼそぼそした声を出した。色々な思いが去来した。受付の人が戻って来た。

 

「いいですよ」

 

それからだった。堂々と病院内が歩けて視界が開けたのは。

 

午前に診察を受ける筈だった。しかし、繋ぎのような医師ではないかと思えるような女性が廊下に出て来て、先ずCTを撮るように言った。私の診察は午後になり、午前の先生とは違った先生になった。兎も角、とても若い女性医師だった。13日にあった事や、2年間も放置していた事を話した。

 

「2年も放って置いたんですか」

 

そう言って、内視鏡を鼻の奥まで入れた。

 

「ああ、これですね」

 

パソコンの画面に映ったのは、ぼべ貝の殻側に似た拡大された写真だった。どす黒い紫色のようにそれはへばり付いていた。CTでは、点の様に写っていて、

 

「よく分からないから、造影剤を入れて、もう1度CTを撮って貰いましょう」

 

造影剤を静脈に入れてCTを撮ると、出血の場所や原因がはっきり分かるそうだ。

 

「いますぐでなければと言う程の事もないけれど、その日を予約して置きましょう」

 

それが、今日(25日)の再CT検査だった。

 

手術はやっぱり嫌だった。手術の事を聞くと、

 

「その時は全身麻酔だから痛くはないですよ」

 

と言った。また、追い詰められて行った。

 

インターネットで調べると、造影剤投入は腎臓の良くない人にはリスクが大きく、最悪腎不全になる事があると書いてあった。それがまた恐れの初めだった。私は腰の辺りが痛く、何だか左の腎臓のある部分が痛い。気になりながら、毎日を過ごした。もう、鮮血などがトイレを汚す事はなかったのがせめてもの幸いだ。

 

そうこうしている内に25日が迫って来る。

 

21日の朝だった。朝が多いが、サプリの入ったカプセルが胃の中で柔らかくなって口元に戻されるような感覚を鼻の奥に感じた。これは何か違うと思い、ティッシュの上に向けて口を開いた。ドロッとした、赤黒い、大豆のような塊が吐き出された。その時思ったのは、13日に見たあの気味の悪いぼべ貝の残骸ではないかと言う事だった。

 

気持ちが悪いのに、何かほっとしたような自分を発見した。その事を知った先生がもう1度内視鏡で覗いた時なんと言うだろう。鼻の中のあのぼべ貝の残骸だったとしたら・・。

 

がしかし、今日造影剤を投入した写真を見ながら、後日先生は何と言うだろう。鼻の中がどうなっているかなど、私には全く分からない。だが、今日以前に診察してあの鼻の中の異変に気付いたら、ひょっとして造影剤は投入のCTは、やらなくてもよかったかも知れなかった。

 

11時が今日の予約時間だった。CTの検査室に呼ばれ、右腕からの静脈に造影剤を入れる準備を始めた。私は、寝台に真上を向き寝た。耳鼻科だから、首から上だけをCTで撮影する。まるで大門美知子がフリーランスで活躍する「ドクターX」で、東帝大学病院に導入されたAIシステムが、病名を言ったり手術の順序を指示したりする首だけの人物を思い出し、可笑しかった。

 

造影剤が静脈を通り、CT撮影が始まった。体が熱くなって来たが、

 

「これは誰もが感じる事ですから」

 

と、造影剤の投与を私の血管に注入した女性の看護士が言った。CTを動かしているのは男性の技師だった。

 

時間の掛かる大層な検査かと思ったが、10分もするかしないかの内に終わった。案ずるより産むが易しと言った所だ。色んな事が重なった上に初めての事だったので、気持ちにも迷いが生じていたのだろう。

 

11時が予約時間で、病院を出たのが11時45分だった。注射した上にぐるりと巻かれた絆創膏ははきつく、10分後には取って捨てるように言われていた。水は沢山飲むようにとも言われた。

 

10時15分頃家を出たが、余裕を見ていた筈だった。だが、病院に着く300メートル前で渋滞が起こった。ちゃんと11時までに受付がすませられればいいがと思いながら、心の中は揺れていた。やっと動き始めて駐車場に来た時、私の前の車は遮断機が開き、中に入って行った。だが私の前で満車となり、遮断機は水平のまま、暫く待たなければならなかった。

 

しかし、なにものかに助けられたように、遮断機が斜めに上がった。1つ開いていたのでそこに入れ、予約の10分前には受付に行く事が出来た。その前に自動販売機で水を買って置こうと、10円玉を10数個流し入れ、110円と書かれた「いろはす」のボタンを押した。全然言う事をきかない。もう2、30円入れたが、水は出て来なかった。

 

返金のレバーを押したが、30円位戻り、ガチャガチャ言わせると20円戻り、後は戻って来なかった。60円所かもう少し損をした。こんな病院の中で誰かを呼んだ所で、誰が返してくれるのだろう。そうして臨んだCT撮影だった。

 

色々あるものだ。帰る時にその自動販売機を見た。「故障しています」と張り紙がしてあった。私の後に、同じような人がいたのだなと思った。その人は、お金を返して貰ったのかも知れないが、私はもう何も言わなかった。

 

朝を抜いて来ていた。帰りにお餅を買って、醤油と砂糖で煮て鰹の削り節をかけて食べようと、スーパーに入った。佐藤の四角い切り餅を買い、有田のみかんを買った。帰ったら削り節はあると思っていた。だが、それはなかった。またスーパーに又行く気はなく、久し振りにインスタントラーメンを食べた。餅の楽しみを後に置きながら、卵を入れ、胡椒を多めに入れたラーメンは、殊の外美味かった。

 

横浜の妹と私がとても信頼する方が横浜にいらっしゃって、祈って下さっていたのが、心配を随分軽減する事となった。感謝したい。

 

私の2年もの長きに亘る小さな鼻の洞窟の物語が、もうすぐどんな形で終結するであろうか。こんな洞窟の探検は、もう懲り懲りだ。

やっぱり寒かった。11時50分に板宿の孫悟空に着いた。それでも寒かった。何故寒いのか。温度が低いからである。けれど、私が小学1年生だったころ、先生が、

 

「どうして冬は寒いですか」

 

と聞いた。私は、それを誰が答えたかも知っている。今でも、田舎に帰ると必ずその時の先生の家に、彼と奥さんと行く。先生はもういないけれど、娘さんがいる。と言っても、私より歳は上である。

 

彼は何と答えたか。私は今でもよく覚えている。

 

「雪が降るけん、寒いです」

 

と。

 

また余談になっちまった。すると、そらの陽さんが来た。私は孫悟空にいた。午後5時から11時までだが、そこは島んちゅの店だ。シマさんが仕切っているが、その相方が良く行く店のようで、それ位の融通は利く。

 

2人で、暖簾も出ていない店に入った。ママさんがいた。

 

「ちょっと早いけど、皆が来るまでにオカリナの練習をして良いですか」

と聞くと、

 

「どうぞどうぞ」

 

と言った。そらの陽さんは私に「星の界」と「きよしこの夜」のコラボの楽譜を送ってくれた。その前に、「翼をください」の楽譜は送っていた。

 

私はコラボは殆どしない。けれど、そらの陽さんんと2人が演奏するとなると、コラボが面白い。「翼をください」は、単にハモるような楽譜ではなく、もうオカリナを演奏する人はよく知っていると思うが、江波太郎さんと小林洋子さんのコラボの楽譜が最近出版されていた。この編曲が良く、単に上下がハモると言っただけのものではなかった。ピアノ伴奏も、流石にプロのものだった。私に言わせれば、これがコラボだと言うような、変化の多い楽譜だった。

 

「私はソプラノF管を持っていません」

 

「ならば、私がさくらオカリナを当日(12月22日)持って行きますから、運指は同じだからそれまでアルトC管で練習しておいて貰えますか」

 

と携帯でメールを交換した。そらの陽さんはとても上手だが、ソプラノC管とソプラノG管、F管、アルトC管の4本は揃えて置いた方がきっと役に立つと思った。アルトC管はオカリナを練習する人は殆どが持っているが、ソプラノのF管とG管は、持っていない人もいる。

 

2曲はすぐに出来た。けれど、「翼をください」は、今日初めて合わせる。そんなに難しくはないと言えば言えるし、難しいと言えば言える。私はそのパートに記されているように、ソプラノCの部分を吹いた。初めて今合わせるのだから、完璧に出来たらプロだろう。生憎私はアマチュアである。上手い訳がない。しかし、そらの陽さんは、ちゃんと練習して来てくれていた。上手かったし、自信も感じた。この楽譜を喜んでくれたことが何よりだった。

 

まあまあかなと言っていた頃、シマさんの相方が来た。1度聴いて貰って、それで止めた。するとシマさんと奥さんが来て、少しずつ集まって来た。12時30分を過ぎていた。席に勝手に座った。

 

11人が集まる事になっていた、この忘年会に。この、シマさんが牛耳る会はとても心が温まり、気の置けない仲間となっていた。1人は中々来なかったが、1時になったら始まった。その中々来なかった人は、今日もこの後会があり、その後飲むと言う。昨日も飲んだと言った。凄いじゃないか。来たのは、2時を少し回っていた。

 

4時にはお開きにするようになっていた。5時からは、正規の飲み屋さんとなるからだ。

 

料理がとっても美味しい。寿し。トマトとエビのサラダ。豚肉のラフティーのようなスペアリブ。大根、ニンジン、昆布、こんにゃくの煮しめ。ニンジンと大根の酢の物。マヨネーズサラダと南瓜のサラダ。キンピラもある。私は、毎年この料理を楽しみにしている。

 

瓶ビールで乾杯をした。シマさんが音頭を取った。やっと飲めたと男も女も呟いた。止まる事のない話が弾んだ。皆家族のようだった。

 

3時間の忘年会。カラオケが始まった。私は歌わなかった。そらの陽さんは、トップバッターで歌った。皆が言った。もう、シマンチュだ。

 

愈々そらの陽さんとのコラボをする事になった。2曲を終え、最後は「翼をください」となった。飲んで吹くと言うのは厳しいが、聴くものは飲んでいてもちゃんと聴いている。兎に角終わったが、反応は良かった。透かさず私は言った。

 

「CDを2枚持って来ているけど、それを買って貰えたら今日はただで飲めます。絶対損はさせません。今まで買って貰った人にも言いましたが、必ず眠くなります」

 

笑いが漏れた。

 

「何百人の前で吹いても、1人も買ってくれません。皆買わなくなっていますね。私も、コンサートホールに行っても、先ず買いません」

 

本当は欲しいのだけれど、結構の値がするからだ。

 

すると、2人の男(十分知っている人)が、同じくして買うと言った。男は他はと言えば私とシマさんだ。まあ、2枚鞄に入れておいて良かった。

 

「いやー、ありがとうございます。絶対損はさせません。必ず眠くなりますから。熟睡出来ますよ」

 

サインをして、と言って来た。サインだけは何度も練習して来た。トランプさんのサインとは違うけれど、私のサインをして、2019.12.22と銀のサインペンで書いた。何年も、サインなどしていなかったが、サインなんて柄ではない。

 

「3分位待って下さい。乾かないのに触ると汚れるので」

 

シマさんやそらの陽さんには、とっくに買って貰っている。本当は全員にただで上げてもいいのだが、諸経費が掛かっている。少し頂くのは仕方がなかった。

 

今度は、三線と唄が始まった。それがメインなのだ。それを聴きに来ている節もある。私とそらの陽さんを除くと、後は島唄の会の人達である。

 

シマさんは、とっても声が良い。日々鍛えているのだ。カラオケでは、こっそり「さざんかの宿」を入れていた。

 

「誰や、勝手に入れたのは」

 

と喚いていたが、

 

「上手いのは分かっているし、この歌は本当に上手いと私は思っているから、聴かせてくれ」

 

と。こぶしなんか最高だ。

 

最後に「六調」をシマさんが演奏しながら唄い、数人残して、後は踊った。奄美の世界に入って行ったのは、シマさんを知っていたからだ。

 

やっぱり外は雨だった。傘を借りる程でもなかった。するとMさん(ここでは若い女性)が私に傘を翳してくれた。

 

「貴女が濡れないようにね」

 

そして、私は東京で大学に通っていた頃の、Mさんと同じ名前の人の話をした。板宿の地下鉄の入り口の下り階段の前に来た時、彼女は、

 

「シマ唄さんを送ってから帰ります」

 

と言って地下まで一緒に来た。結果的には私も送って貰った形になったが、シマさんはよくこの女性を育てたと思う。素晴らしい唄者になって欲しいと思ったし、きっとなると思った。

 

家の近くのバス停を降りた時、雨脚はやや強くなっていた。

2019年、12月8日、午後5時。お爺さんが、すくっと立っている。まるでミーアキャットみたいに。でも、お爺さんだから首の線がほんの少し崩れ、カーブしている。1933年生れと言うから、86歳になっているのだろうか。

 

ラッセル・フェランデなんて呼び捨てにするけれど、その辺は愛嬌として恕して欲しい。(以下の人物も全部そのように扱わせて頂く)。1952年カリフォルニア州生まれで、ピアノ担当だ。高校生の頃R&Bに興味を抱き、21歳でプロとして活動を始める。89年にはグラミー賞を受賞している。

 

養父貴。1969年市川市に生まれる。1988年に米国バークリー音楽院でギターと作曲、編曲を学ぶ。音楽関係紙への執筆も多く、教則本や音楽理論の本などの出版物が好評を博したそうだ。

 

ベン・ウィリアムスはベース(コントラバス)を弾く。1984年、ワシントンD.Cで生まれる。本格的な音楽教育を受け、2009年、私にはよく分からないがセロニアス・モンク・コンペティションで優勝している。2013年にグラミー賞を受賞。

 

ピーター・アースキンは1954年にニュージャージー州に生まれ、4歳からドラムスを始める。グラミー賞は2度受賞している。ベルリン・フィルなどのオーケストラにソリストとして客演する事も多い。モダン・ドラマー誌読者人気投票で10年連続1位を占めている。

 

以上、パンフレットの書き込みを少しずつ抜粋して載せている。

 

この4人のメンバーでジャズが演奏出来ない事はない。だが、1人中心人物なる人を敢えて書いていない。ここで誰か分かる人も結構いるかも知れない。

 

最後に、4回まで略満席の兵庫県立芸術文化センターの大ホールのステージにこのお爺さんは好々爺に姿を変え、背中を丸めてお辞儀をした。

 

パンフレットは語る。1933年に宇都宮で生まれた。バークリー音楽大学への留学等を経て、日本を代表するトップミュージシャンとして、ジャズの枠に留まらない独自のスタイルで世界を舞台に活躍。海外に於いても精力的に演奏活動を行う生涯現役プレイヤーのその姿は、世界中の老若男女に勇気と感動を与えている、と。

 

静かなジャズ。例え方を私は知らないが、確かにジャズではある。しかし、何だか何処かが他のジャズライブなどとは違うのだ。それはきっと、この好々爺が長い間に創造したものに違いないと考えられる。このお爺さんの演奏は、枯れているのに澄んでいる。その音を、自ら作り上げていたのだろう。

 

私はジャズに詳しくはないが、聴いていると心地いい。どれ1つとして知っている曲はなかった。最後のアンコールが4曲用意されていたが、その中に1曲だけ、よく知ったのがあった。

 

激しい若者のようなジャズではなく、洗練された音を秘めていた。好々爺を入れて5人の演奏が、皆其々が演奏領域を守りながら、正確でリズミカルで自らをくっきりと際立てていた。

 

演奏曲名は何処にも書かれていなかったので、ここに書くのも帰り際に貼りだされていた曲群を携帯に撮り、それを書いている。

 

1部が1時間。休憩が20分。2部とアンコールで、5時から始まり、終わったのが7時35分だった。

 

初めから終わりまで、渡辺貞夫はサキソフォンを吹き続けた。上手に歩いて行き、4人の姿を見せる配慮。澄んだ音色や息遣いは、アルトサックスでもソプラノサックスでも同じだった。

 

どちらも良かったが、1部より2部の方が曲想も違い、私にはより多くの静かな感動を与えられた。それはあのジャズではあるが、表現に困るけれど激しくはなかった。音も素晴らしかった。3階の一番後ろの私の席まで、しっかりと伝わって来る。サキソフォンの管を通る音のさざめきが聞こえる。魂が音になり、静かに感動を与える。

 

2部の最初のSCENERYは、ジャズではあるけれど、まるで演歌のように聴こえた。

 

NOT BEFORE LONGは悲しい響きだった。86歳の彼には大きなエネルギーが要るだろう。自らを鼓舞している所すら感じられた。自分の事を思って最近書いたと言った。

 

ピアノとキーボードを交互に鳴らす音は明瞭で、よく響いた。ギターの音も然りだが、私は学生時代その音に不思議なまでの揺らぎを感じていた。堪らない哀愁のある音だった。だが、この日は全くそんな感じではなかった。1階の前の方の席だったら、もっと違う音がしただろう。音量や響きも含めて。でも、あのエレキギターの哀しさは、ここにはなかった。

 

ベーシストは渡辺貞夫が今1番信頼を寄せていると言う程あって、素晴らしい指の抑えと弾きだった。ベースでの速いパッセージは驚きだ。1人ずつ音を続ける場面がいくつかあったが、其々が素晴らしかった。オーケストラでは聴こえない程の音が、ここでは大きく、正確に鳴っている。低い響きで。

 

ドラムスは淡々とそのリズムを刻んでいる。まるで自分が楽しんでいるかのようだった。乱れた所や荒っぽい所など、微塵もなかった。5人の情感は、1つに纏まっている。まさに「One Team」ではないか。

 

1stSet

■ROUND TRIP

■PASTORAL

■TOKYO DATING

■EARLY SPRING

■I THOUGHT OF YOU

■DEESERT RIDE

■RIDE ON

■SEVENTH HIGH

 

2ndSet

■SCENERY

■DOWN EAST

■CYCLING

■NOT BEFORE LONG

■STRAY BIRDS

■WARM DAYS AHEAD

■MANHATTAN PAULISTA

■CHRISTMAS DREAMS

 

アンコール

■SMILE

■花は咲く

■MY DEAR LIFE

■BLUN’ BOOGIE

 

何度も出たり引っ込んだりしないのは、今日の場合はとても良かった。アンコールの3曲は最初から決められていたと思うが、4曲目は手書きだったから、これはその時に特別に演奏して貰えたものだったに違いない。この日の集大成ででもあるかのように、アンコール最後の曲はとても満足させた。これをもう1度聴きたいものだと思った。1人ずつのソロもあり、これぞジャズと言った雰囲気もあり、ずんずん心に入って来るのだった。

 

ホールが明るくなり、全てが終わった。3階から階段を下りて行く間、このBLUN’ BOOGIEが心地良く満足感を感じせしめていた。まるで、扇の要と言えた。

 

聴衆も熱狂はしなかったものの、惜しみない拍手をした。これは、この凄いメンバーに対してのみならず、渡辺貞夫。ミーアキャットのようなお爺さん。最後に至っては、まさに好々爺に捧げる敬意と感謝の気持ちだったのだ。私も元気を貰った。かつてニニロッソのトランペットがそうであったように、渡辺貞夫のサクソフォンも確かな個性の音。聴いただけで分かる程の忘れ難い音、忘れられない音として、心の一隅に畜音されて行く。

24日の神戸は夕方から雨。明日は雨。そんな天気予報だった。帰りは遅くなると思っていたので軽過ぎる折り畳み傘を鞄に入れた。

 

朝9時前に生田会館の、大きな通りの手前に差し掛かった。シマさんが奥さんと信号待ちをしていた。セブン・イレブンで奥出雲の天然水を買い、リポビタンDを買って飲んだ。これを飲むと数時間後には体が熱くなり、気分が高揚する。顔も紅葉する。

 

9時から開く筈の玄関の扉も、大ホールも開いていた。午後1時から、気まぐれ音楽集団「YOSOMI好きなヤツ」の演奏会が有る。今年で7回目だ。

 

ヤフーのブログで知り合った(私とシマさん、チッチとサリーさんは以前から知り合っているが)仲間が集まる。オカリナが中心だが、この音楽集団は何でも構わないので、シマさんは勿論三線だし、楽団を組んでスチールパンだとかピアニカだとかギターだとか打楽器だとかウクレレで組まれた集団もある。

 

私は高い所にある長テーブルが下ろせない。シマさんと2人で下ろした。後は椅子だ。凡そ30脚が積み重ねられているキャスターを4台ほど倉庫から出した。100脚ちょっとの数。それをシマさんは一番前に10脚横に並べた。それに倣って、縦には10列並んだ。100脚だが、出入りを考えると、それで十分と思えた。

 

後から書くが、ローズマリーさんが大ホールの扉から姿を現した。昨夜はホテルに泊まって、秋田からの出演だ。他のグループの人達は仕事で2、3日開ける事が出来ない。マりーさんもそうだったかも知れないが数年会っていない。1人でやって来てくれた。顔を見た瞬間は、分かってはいても驚きが走った。

 

次々に来て、リハーサルを行った。シマさんは皆の昼食を聞き、下の食堂に先に注文してくれた。

 

hirokoさんとサリーさん(男)は缶ビールを3本注文した。何故だ? 私には聞かずに私の分も注文したようだった。すぐに拒否するのは、この受けを狙った行為に水を差す。私も飲んだ時もあり面白さを狙っていたのだろうが、飲むのは止めにした。どうせこの2人で飲む事だろうしと思うし、私の出番で酔いが回っているのも、決していい演奏にはならない。

 

1時からの開始で、2階に戻ったのが12時20分頃だった。もう、少し人が入っていた。オカリナママさんが前半の司会をするが、シマさんの挨拶の頃には何処かがごっそり空いていると言うのではなく、開いた席はそこここに見られるが、沢山入っているように見えた。7、8割はいたのではないだろうか。

 

少し順番の入れ替えはあったが、だからどうと言うものでもない。プログラムが入れ替わるだけの事だ。前半と後半に分かれているが、プログラム通りの出演名と曲目を書いてみよう。

 

 

昔はチッチとサリー(神戸市)

  赤とんぼ

  ふるさと

  小さい秋みつけた

  「四季」より 冬

  レクイエムより「楽園へ」

 

そら&空を飛ぶくじら(姫路市・鹿児島市)

  紅葉

  夕焼け小焼け

  TSUNAMI

  天城越え

  十和田慕情

 

ツッキーズ(京都府)

  賽馬

  空も飛べるはず

  オー・ソレミオ

  また君に恋してる

  天城越え

 

hiroko(岡山市)

  かもめが跳んだ日

  ひこうき雲

  となりのトトロ

  さときび畑

  パプリカ

 

オカリナの詩(神戸市)

  タイスの瞑想曲

  まちぶせ

  ワインレッドの心

  この星に生まれて

 

コラボ

  八重山(やいま)

 

 

夢☆チャンス(神戸市)

  優しいあの子

  異界ノ橋

  ティコティコ

  ジャズメドレー(茶色の小瓶 セントルイス」・ブルース インザムード)

 

with  you(東大阪市)

  『星めぐりの歌』

 

ふんず(西脇市)

  東京」ブギウギ

  月ノ雫

  LEMON

  銀河鉄道999

 

ローズマリー(秋田市)

  カッチーニのアヴェマリア

  初雪

  エーゲ海の真珠

  いつまでも

 

シマ唄やろう

  黒だんど節

  まんこい節

  イトゥ

  阿室ぬ慢女節

  ワイド節

 

 

7度目のステージ。出演者の入れ替わりは殆ど無し。とすれば、この7年の演奏技術や選曲や編曲は変わって来た。基本的には形は変わっていない。もっとも変わったのが上手さだった。私は評論する積もりもないし、そんな技量や自らの演奏技術も上手くはないからだ。一観客となった時、他の演奏者の腕は抜群に上がっていた。どれも聴き応えがあった。語りや詩の朗読を取り入れた新しいスタイルで、それも聴衆の涙を誘うものさえもあった。

 

1つひとつの感想は書くと長くなる。兎に角一言で、「上手い!」と言わざるを得なかった。全部プロとして活動をしてはいないが、プロと言ってもおかしくない集団で、それぞれセミプロと呼んでいいものだったと思う。私はやっぱりその中にも入らないが。謙遜はしていないが全く満足がないからだ。どこかしら後悔が残る。

 

1人の立派な参加者として特記事項がある。そらさんの息子さんである空を飛ぶくじらさんの息子さんが1年5ヶ月になっていた。とても可愛くて、パパもばあばもメロメロだろう。人懐っこくて、私にも、マリーさんにも、ツッキーズの奥さんにも、オカリナママさんにも、夢☆チャンスのNさんにも順々に抱っこしてくれと手を差し伸べた。皆、楽しませて貰った。子供は好奇心が旺盛だと言う事を改めて教えられた気がした。それを押さえてはいけないと思った。伸び伸びと大きくなって欲しいなと思う。

 

演奏に関しては、仲間の進歩振りに目を見張った。活動の場を広げ、経験を積み、練習をして来たのだろうなとしか思い様がなかった。以前は暗譜して全て演奏していたものが、私は楽譜を見ないと演奏に自信がなくなっている。指もあまり速く動かなくなっている。これは致命的ではあるが、今の自分で、等身大且つ自然体で臨むしかない。それがこの世の習いだと達観せざるを得ない。

 

5時まで借りているが少しずつ時間がずれ、シマさんの演奏がまだ続いている。4時40分。私は事務所に駆け付けた。

 

「5時を少し過ぎてはいけませんか」

 

「それは駄目です」

 

「延長料を払って伸ばす事も出来ませんか」

 

「それも無理ですね」

 

「じゃあ、全て5時までに片付けて撤収ですね」

 

「そうです」

 

向こうの言う通りではある。役所仕事でなくても、時間は守らねばならない事位、私でも分かっている。融通が利かないと言うのはこちらの言い分でしかない。聞いて元々だった。

 

「では、そのようにします」

 

と言って、2階に駆け上がった。

 

後半の司会をしているそらの陽さんに言った。私の終わりのあいさつは止めにして、来て下さった人達にありがとうと言うだけで解散して欲しいと。

 

45分頃にシマさんとMさんの演奏は終わった。もうゆとりなどない。すぐに出演者のみんなに、後片付けをお願いした。会場担当の人達も2、3人上がって来て、後始末をしていた。最後は、ピアノを動かしたりした。

 

全て終えて大ホールを出た時が、丁度5時だった。

 

皆の力を集めると、少人数では不可能な事でも可能となる。帰る聴衆の人から、おわりの言葉が聞きたかったのに、と言われた。でも、それを言って5時を過ぎたら音楽会はアウトだった。

 

 

後は出場者の半数近く14人が、ご苦労さん会に出席した。2つのテーブルに7人ずつ。飲み放題の会だ。お酒が飲めない人はウーロン茶などがあるが、こればっかりはそう何杯も飲めるものではない。かと言って、そんなにいい食べ物も出て来ない。こんな時はどうする? どんどん演奏して、喋って、賑やかにするに限る。

 

シマさんが、

 

「終わりのあいさつがなかったから、乾杯のあいさつをして」

 

と言った。何か言ったけれど、それをここに書くような事でもない。少し喋ってから、

 

「乾杯」

 

と言った。

 

5時半から7時半までだ。皆に喋って貰いたかったが、時間が余りなかった。兵庫県以外から来た人達に何か話して貰って、お開きにした。反省点は、全員に話して貰うべきだったと言う事。

 

今日はビール以外は飲まなかった。隣りに底なしのオカリナママさんがいて、ビールしか飲まないと言ったから、右に倣った。殆ど酔わずに外に出た。外れた天気予報の空からは、雨など落ちては来なかった。この後、カフェを探して、コーヒーを飲んで帰ろうと言う事になった。9人が残った。日曜日の所為もあるのか、数軒はもう閉まっており、それでも探していると、誰もいない、でも結構大きなカフェに明かりが点いていた。

 

9時までならいいと言う事で、十数名が座れる席に座った。みんな喋りたかっただろうし、名残惜しかっただろうし、何よりも秋田から来てくれたマリーさんとすぐに別れるに忍びなかったのだ。

 

このブログで知り合った女性は皆優しくて楽しくて面白くて綺麗だが、マリーさんはまるで少女のようだった。男女問わず、誰からも好かれているようで、あちらの隅では話が弾んでいた。

 

明日(25日)の昼、12時30分過ぎの飛行機で帰る事になっていた。ホテルから近い所に伊丹空港行きのリムジンバスが待機している。とんぼ返りとは正にこう言う事を言うのだろう。以前来た時は色んな所を兵庫組で案内した。あまりもう案内する所もないが、それでもまるで神出鬼没の様を呈しているようだった。

 

帰り道とは言え、皆でホテルまで送りに行き、そして殆どは阪急電車に乗り、姫路に帰る者はJRに乗った。私は1人、三宮から高速バスに乗った。

 

今も昨日の事が思い出される。この音楽集団の皆は素敵な演奏をする。そんな仲間が、今もずっと連なってくれている。それだけで私は満足だ。演奏は? それは自分がこれからどうするかの問題であって、こうして現実に人間である時空で「会える」と言う事が、一番の目的である。

 

来年もきっと会えるだろう。これを希望と呼ぶのだろう。