こんにちは、うるまです。

前回記事では、”いじめ”を経験した中学の頃の話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、2011年3月11日に発生した東日本大震災のお話をさせていただきます。

2009年8月〜2011年3月まで中国の上海に住んでいたので、この東日本大震災の日、実は私は日本にいませんでした。

 

私がこのことを知ったのは、震災発生から2日後のことでした。

 

当時、中国のローカルニュースでもその様子は連日放送されており、そこで津波や災害の様子を目にしました。映画やアニメでしか見たことがなかった様子が、現実として起こっていました。しかし、日本と中国、物理的な距離もあって現実味を感じることができず、自分事としては捉えられていなかったと思います。

 

そして私は、この東日本大震災を通じてあることを学びました。

 

それは”先入観や偏見をもってはいけない”ということです。

 

一見東日本大震災とは無関係のように思われると思いますが、当時、日本人である私は中国の上海にいました。言い換えると”中国の上海で私は東日本大震災を経験した”ということになります。

 

そこで私が学んだことは、震災の怖さや日本のチームワークというものではなく”先入観や偏見をもつことは、自分の可能性を狭めてしまう”ということだったのです。

 

 

今でも覚えているエピソードがあります。

 

2011年の東日本大震災が発生した数日後に、現地の果物屋へ母親と買い物に行きました。そこの中国人の店員さんが、私たちが日本人であることに気付いて声を掛けてくれました。

 

「加油、日本加油!」

 

”加油”とは日本語で「頑張れ」という意味です。その方は東日本大震災のニュースを見て、日本人である私たちに「頑張れ、日本頑張れ」と励ましの声を掛けてくれたのです。

 

この時ほど私は自分が日本人であることを実感したことはありません。その時にようやく「この震災は自分の国で発生した出来事なんだ」と強く感じたことを覚えています。

 

その当時は尖閣諸島問題などもあり、私は中国に対してあまり良いイメージをもっていませんでした。しかし、それは国対国の話であって、「中国人」に対する先入観に塗り替えることは間違いだと私は気付くことができました。

 

果物屋の店員さんが私たちに励ましの声を掛けてくれた時、そこには「日本と中国」という国と国の対立や国境は存在しておらず、ただ”人”としての暖かさや優しさだけで溢れていました。

 

 

私はこの東日本大震災でのエピソードや現地での生活を通じて、本当の国際交流というのはお互いの損得から外れた場所にあると感じました。

 

私は国と国の関係性を変えられるほどの力をもっていません。だからこそ私たちにできることは、私たちと同じように普通に暮らす人々との、血の通った関係を大切にしていくことではないでしょうか?

 

 

私は当時中国にいたからこそ、子供ながらにこのような学びを得ることができました。これからも先入観や偏見で判断するのではなく、自分で見たこと・感じたことを大切にして生きていきたいと思います。そして、この経験を周りの人に伝えていくことが、日中友好のために私にできることだと思っています。

 

「我很喜欢中国和日本。(私は中国も日本も大好きです)」

 

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

 

前回記事では、私が人生で初めて”人の死”と向き合った経験についてお話ししています。↓↓↓

 

 

さて今回は、私が”いじめ”を経験した中学でのお話をさせていただきます。

私は中国の上海にある小学校を卒業後、同じく上海にある日本人学校(浦東校)に入学しました。

 

ちなみに海外の日本であっても、学習要領は日本の中学校と変わらないので、同じ教科書を用いて同じ内容を勉強します。ほとんどの人が高校は日本の高校に進学するので、高校受験を見据えての授業を日々受けていました。

 

日本の中学校との違いといえば、週に1コマ中国語の授業があることでしょうか。そこに関しては”中国の中学校”感を出していると感じたことを覚えています...。

 

 

そして何気ない日常を送っていたのですが、そこで私は”いじめ”というものを初めて目の当たりにすることになりました。同じクラスの女子生徒がいじめに遭っていたのです。

 

その女子生徒は元々いわゆる「女子の一軍グループ」に属していた子でした。つい最近まではあんなに仲良くしていたのに、ふと気が付くとそれは”いじめ”に変わってしまっていました。

 

何が原因なのか分かりませんが、明らかに普段とは様子が違うことは容易に分かりました。

 

あからさまに無視されている。プリントを雑に配る。わざと足を踏む。足を蹴る。

 

日に日にエスカレートしているのは明らかでした。そのいじめは先生の目を盗んで行われていたので、大人たちは何も気付いていませんでした。そんな中、周りの人は見て見ぬふりをして自分の日常を守っていました。

 

何を隠そう私もその傍観者のうちの1人でした。その時は、いじめられている子を庇ったことにより、いじめの矛先が私に向くことを恐れて、見て見ぬふりをすることしかできませんでした。

 

その当時の私は、”みんな”側から逸脱することを恐れ、自分の気持ちに気付かないようにして、嫌われないような行動を常に選択していました。

 

そして、実はそのいじめられている女の子と私は同じマンションに住んでいたので、帰り道が同じになることも多かったので以前はよく話をしていました。いじめ初期の頃に私は「何をしたの?」とその女の子に尋ねると、その子は「分からない。気付いたらこのような状況になっていた...。」と答えていました。

 

そしてその子は今にも泣き出しそうな顔で、私にこう言いました。

 

「私がいじめられてても、これまで通り仲良くしてくれる...?」

 

私はその子から助けを求められていたのだと思います。勇気をもって弱さを見せてくれていたのです。

そんな強い彼女とは対照的に、”自分が可愛い”弱い私はこう答えてしまいました。

 

「ごめん、分からない...。」

 

その答えを聞いた彼女の顔が今でも忘れられません。

 

唯一の可能性を失ったように、微笑みながら涙を我慢している姿が今でも脳裏に残っています。

 

 

そして、いじめがエスカレートするにつれて私はその子と距離を取るようになっていました。その子が辛い思いをしていることは痛いほど感じていましたが、「この子と一緒にいる所を見られたら、私もいじめに遭ってしまうのではないだろうか?」という自己防衛から極力関わらないようにしていました。今思うと情けなくて仕方がないです。

 

しかし、その当時の私は”みんな”から外れることが何よりも怖かったのです。

 

とうとう、その子は中学1年生の途中で現地学校(インター)へ転校してしまいました。私はホッとした気持ちと、”見て見ぬふりをして何もできなかった”情けなさが込み上げてきたのを覚えています。


いや、自分を守るためにいじめから目を背けた私が、ホッとする資格なんてありません。私も間接的に”加害者側”の人間になってしまっていたのです。”被害者”にならないために”加害者”を演じていました。

 

その女の子にもう一度会えるのなら、私は何を言うだろうか。いや、何も言えないです。何も言う資格がないと思っています。

 

「あの時はごめん」と謝る、「これからは〜する」と宣言する、これら全て私の自己満足で終わってしまうからです。

その子には2度と会わなくてもいいと思っています。許してもらおうとも正直思っていません。

 

でももし今後、当時と同じような状況になった時は、”みんな”に染まって思考停止で同調するのではなく、”自分”はどう思うのかを指針に行動すると決めています。この経験を通じて私はマイノリティとして生きることへの抵抗が少なくなりました。

 

もう2度と、自分で自分のことを嫌いになりたくないです。

最後まで、ご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回の記事では、中国の上海へ転校した当初の私の性格についてお話しています。↓↓↓

 

 

 

さて、今回は私が人生で初めて”人の死”と向き合った経験についてお話しします。

 

母方の祖父は、私が小学6年生の10月に亡くなりました。私は小学6年生の8月から中国の上海に引っ越しており、転校してからすぐの出来事でした。

 

元々祖父は肺がんを患っており、長い間入院生活を送っていました。母は定期的に祖父に会いに行っていましたが、私はほとんど病院には行っていませんでした。この時は友達と遊ぶことや少年野球チームでの活動に夢中で、祖父に会いに行くことの優先順位が低かったのです。

 

そうしている間にも祖父の肺がんは進行しており、お別れの時が少しずつ近づいていました。

 

私は中国の上海に転校する2週間前に祖父が入院している病院へ連れて行かれたのですが、これが最後の会話になるとは思ってもいませんでした。当時は、”人が死ぬ”ということの意味をはっきりと想像できておらず、2度と会えなくなってしまうとは考えてもいなかったと思います。

 

そして中国に引っ越しをして1ヶ月後、親戚から”祖父の体調が急変した”との連絡が入り、先に母が1人で日本に帰国し、父、姉、私の3人は後日追いかけで帰国することになりました。

 

この時の両親が慌てている姿は今でも覚えています。”人が亡くなる”ということが周りの人にどのような影響をもたらすのかを見ていて、私はようやく事の重大さに気付けたのでした。

 

そして、母は何とか間に合い祖父の最後に立ち会うことができましたが、私は間に合わず最後話ができないままでお別れとなってしまいました。

 

この時、”もう2度と会えない”という寂しさと共に、”生前にもっと会いに行っておけばよかった”という後悔が込み上げてきて、夜な夜な1人で泣いていました。

 

「人は大切なものに失ってから気付く。」

 

私はもっと祖父に感謝を伝えたかった。伝えなければいけなかったのです。

 

 

祖父は理容師で、生前は必ず祖父に髪を切ってもらっていました。将棋や野球の相手もしてくれました。しかし、その感謝を伝えることができなかった悔しさだけが今でも心に残っています。

 

 

ニュースなどでも”人の死”が取り上げられていましたが、正直自分事として捉えることはできておらず、イメージも持てていなかったように思います。だたこの祖父の一件から、「今私が大切にしなければいけないことは何か?」を常に自分に問うようになりました。

 

私にとって最も大切にしたいものは「妻」です。その優先順位は見誤らないようにし、後悔しない人生を送りたい。

そして、”日頃から感謝の気持ちや自分の気持ちは恥ずかしがらず、相手に伝える”。

 

後悔しない人生を送るために、今後も心掛けていきたいです。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、父の仕事の都合で中国の上海に転校が決まった時の話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、前回の続きで中国の上海にある日本人学校へ転校した時のお話です。

 

私は現地(インター)の小学校ではなく、上海の浦西というところにある”上海日本人学校 虹橋校”に転校しました。小学6年生の夏休みに上海へ引っ越しして、9月から上海の小学校での生活がスタートしました。

 

小学校卒業まで残り半年という時期の転校は辛い部分もありましたが、当時は新しい生活への期待感の方が大きかったです。ただ正直、上海の小学校での思い出は少なかったので3月の卒業式はほぼ記憶に残っていません。

 

無事小学6年生の9月から転校生として、新しい学校生活がスタートしたのですが、当時の私が無意識に行なっていたことがあります。

 

それは、「このクラスにおいて、誰がリーダー的存在(まとめ役)なのか」を観察することです。さらに極端な言い方をすると、「逆らってはいけない人」と「自分にとって無害な人」とを区別していた、ともいえます。

 

自分の学校生活を楽しくかつ安全に過ごすために、「自分はどのように演じるべきか」を考えていたのだと思います。

 

小学生ながらずる賢いといいますか、可愛げがない少年だったなと感じます。私は社会人になるまでは「誰からも嫌われたくない/皆に好かれたい」という考えをもっていました。小学生の頃からその性格で、この転校のように新しい環境に移った時ほど、この性格が強くなっていました。

 

 

ここまでお話しした「この人には逆らってはいけないセンサー」、皆さんももっていませんか?

 

よく言えば「相手の反応や言動を観察している/相手の気持ちを考えることができる」ですが、その実態は「相手によって態度を変える原因になってしまうもの」ではないでしょうか?

 

私はこのセンサーを働かせてしまったせいで、相手を「自分より上かそれとも下か」という白黒思考でその人を判断するようになってしまいました。今振り返ると何様でしょうか。

 

 

身近な人でいうと、私にとって絶対に逆らえない人は「父」です。そして正直下に見てしまっていたのは「母」です。

 

父は論理的に詰めてくるタイプで、ほかにもパワー的な部分もそうですが、手を上げられたこともあります。その時に植え付けられたトラウマで、正直今でも父には恐怖心を抱いています。

 

一方で母は、とにかく優しい人でした。一時的には怒っても最終的には何とかしてくれる人でした。私はいつもその優しさに甘えてしまっていたのですが、いつの日にかその優しさに慣れてしまった私は母への対応が”雑/上から目線”になっていたのです。

 

私は家族の中でさえも、自分よりも格上と判断した人に媚びへつらい、本当に大切にしたい人を大切にできませんでした。

 

 

”自分が傷付くことを恐れて、他人が気に入る自分を演じる。”

 

私自身も経験したことですが、実は相手からは”絶対に逆らわない奴”と格下に見られてしまう原因になります。自分を守っているようにみえますが、自分への扱いが雑になってくる要因になりかねません。

 

当時の私はそのことに気付くこともなく、自分を守っているようで自分の価値を下げていたのでした。

 

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、周りの人が自分を求めてくれるか否かによって、自分の存在価値を無意識に測っていた頃のお話をしています。↓↓↓

 

 

 

 

さて、今回は父の仕事の都合で中国の上海に転校した時のお話をさせていただきます。

 

私の父はメーカー勤務で、私が小学6年生の時に中国の上海への海外赴任を命じられました。最初は父だけ上海へ行き、他の3人は日本で暮らす予定でしたが、せっかく海外で生活する機会ということもあり、最終的には家族4人で上海で生活することになりました。

 

ということは、私は今の学校から上海の学校へ”転校する人”となります。実はこの時私は、今の学校を離れなければならない寂しさよりも、上海へ転校できるというワクワク感の方が大きかったのです。

 

純粋に未知の場所での新しい生活や人間関係に期待をしていたことに加えて、「転校」というものを経験できることが私にとってはポジティブなものでした。

 

特に自分が”転校する人”になることで、注目を浴びることに快感を覚えていたのです。社交辞令かもしれませんが、私が転校することに対して悲しんでくれる人が予想以上に多かったです。

 

ずっと周りに合わせてできるだけ目立たないように生きてきましたが、本能的な部分では”目立ちたい”という気持ちが私にはあることに気付きました。この当時は、”周りの人に認めてもらいたい””自分の存在価値を示してほしい”という気持ちでいっぱいでした。

”自分のことを見てほしい”という承認欲求があったのです。

 

今振り返ると、その承認欲求は友人に対してではなく、おそらく”両親”に対してのものだったと思います。自分でも気付いていなかったこの気持ちに気付かせてくれた出来事が、上海への転校でした。

 

 

最近は「承認欲求」というのはネガティブな表現がされやすい風潮にありますが、私はそうは思いません。人間として「承認欲求」をもつことは当然のことだと思っています。

 

その承認欲求を求める矢印が過度に他人に向いてしまうと、自分が振り回される危険性がありますが、承認欲求の矢印を自分に向けて、自分で自分を認められることが大切ではないでしょうか。

 

やはり、人間は「自分を認めてもらえる/受け入れてもらえる環境」がないと生きづらさを感じてしまいます。私は小学生の頃はその矢印が他人に向いていましたが、時間が経つにつれて少しずつ自分で自分を認められるようになりました。

 

 

暴走する恐れがある「承認欲求」と上手く付き合っていくためにも、自分との対話が大切だと改めて気付いた出来事でした。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、私のHSP気質が顔を出し始めた小学校時代のお話をしています。↓↓↓

 

 

 

 

さて本日も小学生時代のお話です。私は「友達と遊ぶこと」が大好きでした。

しかし、”遊ぶこと”よりも”友達が自分を誘ってくれた”という事実に対して、喜びを感じていました。

 

つまり、周りの人が自分を求めてくれるか否かによって、自分の存在価値を無意識に測っていたのです。

 

 

そうなると他の人の評価や言動が評価軸になってしまい、知らず知らずのうちに他人の反応に対して、私自身が”勝手に振り回されている”という状況が出来上がってしまいました。

 

ただ、その時は他人軸で生きることに違和感を抱くことができなかったので、いつも自分ではなく他人の反応や言動を優先して生きていました。

 

 

他人軸で生きることの大変さやしんどさというのは、私は大きく3つあると思っています。

 

①相手に期待しすぎてしまう。

②自分で決めることができなくなってしまう。(自分の意見がなくなる)

③自分の気持ち/感情が分からなくなってしまう。

 

 

1つ目の「相手に期待しすぎてしまう」ということについては、周りの人からの評価や反応に囚われすぎてしまうということです。

 

相手のことを過度に意識してしまうと、「この人はどう思ったのだろうか」「喜んでくれるだろうか/褒めてくれるだろうか」と、自分の行動の価値判断を相手に全て委ねてしまうことになってしまいます。そして、”私はここまでやったのだから、喜んでくれるだろう/認めてくれるだろう”と、相手から「私が望んでいる評価や反応」が得られなかった際に酷く落ち込んでいました。

 

当然相手が決めることなのにも関わらず、”私の存在価値を示してくれるような評価/反応がもらえる”と勝手に相手に期待しすぎていました。他の人の感じ方や受け取り方という「自分でコントロールできないこと」に振り回されていたのです。

 

 

2つ目の「自分で決めることができなくなってしまう」ということについては、シンプルに”周りの人がどう思うか””周りの人からどのように見られるか”が気になってしまい、何事も自分で決断ができなくなってしまうということです。

 

つまり、親の期待や世間体を気にして、自分の本心に従った選択を取ることができなくなっていました。

 

私は、自分で決めることをしてこなかったことで、次のような悪循環に陥ってしまいました。

・自分の本心で決めることができず、親や周りの人の意見に流されて行動してしまう。

・最初は上手くいっていても、自分に「納得感」がないので途中から違和感を抱き始める。

・自分で決断したことではないので、自分の行動に責任感が生まれない。(親や環境のせいにしてしまう)

・物事を継続することができない。苦しいことがあると逃げ出してしまう。

 

こうして、自分の意見をもたない人間だった私は、都合が悪くなると他責思考になり逃げ出してしまっていました。そんな自分が大嫌いでしたが、その時は他人軸で生きていることに気付けていなかったので、受け入れるしかなかったのです。

 

 

3つ目の「自分の気持ち/感情が分からなくなってしまう」ということについてですが、私はこれが一番辛かったです。

 

「楽しいから笑う」「悲しいから泣く」「腹が立つから怒る」

 

この人間としてごく当たり前のことができなくなってしまうのが、私にとっては最も辛かったです。人間にとって重要な”感情”というものが、少しずつ自分の中から失われていくような感覚を今でも覚えています。

 

小学生の頃から感情を表に出すことが苦手な性格でしたが、根本の原因は「他人軸で生きていた」ということだったのかもしれません。全員に好かれようとする性格で、無意識に相手によって自分を変えて接してしたように思います。

 

「その人に気に入られる自分を演じていた」

 

これが今の私の後悔です。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では小学校の少年野球チームを例に、私にとって「人に囲まれること」はあまりポジティブな影響をもたらさなかったというお話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、小学校の時の「怒られたエピソード」についてお話しします。今でも鮮明に覚えているのは、「食事」についてです。

私は、幼い頃から食への関心が薄く、「ご飯を食べること」が苦手でした。むしろ「ご飯を食べる時間」が大嫌いでした。

 

あまり多い量を食べることができなかったので「自分が食べれる量だけ食べたい」と思っていましたが、母親がそれを許してはくれず、毎日多めのご飯を食べる必要がありました。

 

当時は「食」よりも野球やテレビ、ゲーム、友達と遊ぶことへの関心が高かったので、”ご飯を食べる時間がもったいない”と思っていました。

 

そんなある日、私はやってはいけないことをしてしまいました。

それは、「おにぎりを1個丸々口に咥えて、トイレに行き、そのまま便器に捨ててしまった」のです。

 

ご飯を食べることが苦痛で仕方がなかった私は、とうとうそのようなことをしてしまいました。他に関心事があると、今しなければならないことをおざなりにしてしまう。これは幼少期からの私の悪いところでした。

 

 

当然、母親にもすぐにバレてしまい、こっぴどく怒られました。いつも口うるさい母親だったので怒られることには慣れていましたが、この件に関してはいつも以上に怒っていて恐怖心を抱きました。

 

そして、罰として「白米禁止生活」が幕を開けました。

 

私はいつも白米を食べることに苦しんでいたので、最初は「ラッキー!」ぐらいに軽く思っていました。そして白米がない「おかずだけの食生活」は1週間続きました。

 

しかし、この生活が1週間続くとだんだん辛くなってきました。この1週間母親と会話がない、何より気まづい空気感が私にとっては苦しかったです。

 

そこで無駄な意地を張ることはやめて、誠心誠意母親に謝りました。

謝るタイミングが遅すぎたので一悶着ありましたが、なんとかその場は許してもらうことができ、私の「白米禁止生活」は幕を閉じました。

 

 

母があれほどまでに怒った理由は、「自分が一生懸命作ったご飯をないがしろにされた」からだったのかなと反省しました。

当時は「自分がどうしたいか」だけを考えて行動していましたが、この事件をきっかけに「相手のこと(背景)を想像する」ことの大切さを学びました。

 

今思うと、私は元々はHSS気質のままで生きていた。しかし、時間の経過とともに関わる人が増え、様々な経験をすることによって、次第に周りを意識する”HSP気質”が芽生えていったのかもしれません。

 

そして、周りの人から”自分が思っていた反応を得られなかった時”、”自分が思っていなかった反応をされた時”。この積み重ねによって、周りに気を遣ってしまう繊細な性格が徐々に強くなっていってしまいました。

 

想定外の反応が返ってきた時は、「どうすれば良いのか分からない」とパニック状態になってしまうので、私は”他人の感情や反応をコントロールしよう”とすることで、自分を安心させていたのだと思います。

 

 

このような気持ち・性格が強くなっていったのは、やはり小学生の頃からでした。周りに私の行動を評価する人(大人)が増え、徐々に”怒られることを避けるような生き方”をするようになっていきました。

 

 

本日は、HSP気質が顔を出し始めた時のお話をさせていただきました。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

 

前回記事では、私が小学生の頃から苦手だった「逆算して時間通りに行動すること」についてお話ししています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、私が小学1年生から入った少年野球チームのお話をさせていただきます。

私が所属していた地元の少年野球チームは各学年10名前後のチームで、1〜3年生で1チーム、4〜6年生は各学年で1チームでした。

 

これまで、同い年の友達としか野球をしてこなかった私にとっては、この少年野球チームに入ったことで他の選手や監督、コーチなど関わる人が一気に増えました。自分の世界が広がっていくのを初めて感じた瞬間でした。


しかし、私にとって「人に囲まれること」はあまりポジティブな影響をもたらさなかったのです。


少年野球チームに入るまでは、ただシンプルに好きだから毎日友達を誘って野球をしていました。ヒットを打つ、守備でボールを綺麗に捌けた、このような小さな成功体験を積み重ねることが楽しくて仕方がなかったです。


さらに、昨日よりも上手くなっているか、今のプレーは良かったか、という評価は全て「自分」がしていました。



一方で少年野球チームに入ってからは、「周りの目」が気になって仕方がなくなりました。


その周りの目とは、監督やコーチ、チームメイトでした。特に監督やコーチといった「大人」に対して苦手意識が強く、無意識に「大人に気に入られるような行動」をしてしまう癖がありました。


これは誰かに強制されたわけでもなく、教えられたでもなく、私が無意識に行っていたことです。

当然監督やコーチもそのようなことは望んでいませんでした。



私がこのように周りの人に媚び、気に入られるような言動を無意識に取ってしまう要因は、「怒られたくない」という気持ちからだと思っています。


「怒られること」=「私自身を否定された」と極端に捉えてしまっていたため、自分を殺してでも周りの人に気に入られるように立ち振る舞いまっていました。


私が我慢すれば、結果的に快適な空間・関係性に繋がることもそこで実感しました。

 

このようになってしまうと、野球が楽しくなくなるのに時間はかかりませんでした。


監督やコーチに怒られないように無難なプレーを選択する(チャレンジしない)、チームメイトから浮かないようにとりあえず誰かに付いていく(1人になる状況を作らない)。


野球が面白くなくなってしまいました。


少年野球チームに入ってからは、毎週末の練習や試合に行くことが嫌になってしまい、毎週朝は泣いていました。母親に引っ張られて嫌々行っていたのを今でも覚えています。


野球を続けていくうちに、ある程度出来ることも増え、小さな成功体験を積めるようになってからは、「周りの目を気にする」癖は少なくなってきましたが、今でも発揮してしまう時があります。


私は「私自身という存在価値を、他人に決められること」が嫌いです。


だからこそ、余計無意識に他人の目を気にしてしまう。そして何より、自分に嫌なことがあるといつも被害者面をしてしまう私自身に対しても、苛立ちを感じることがあります。


無意識に他人を優先してしまうにも関わらず、本能では「自分の気持ちに素直に生きたい」と思っている、矛盾した性格のお話でした。


この扱いづらい性格とも、しっかりと向き合っていきたいと思います。



最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回の記事では、特に承認欲求が強い”かまってちゃん”だった小学生の頃のお話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、私が小学生の頃から苦手だったことについてお話しさせていただきます。

それは、「逆算して時間通りに行動すること」です。

 

例えば、「朝の時間の使い方」でもそれが表れていました。

小学生の頃の登校時間は8時35分でしたが、私が家を出るのは8時30分。毎日ギリギリのレースを行なっていました。

 

しかし、朝起きることに関しては苦手ではなく、毎朝6時45分には起きていました。毎朝、6時55分頃から流れる「おはよう朝日です」のスポーツニュースを見て、ご飯を食べて、学校へ行く準備をしていました。

 

朝起きてから時間はたっぷりあるにもかかわらず、毎朝遅刻ギリギリで家を出て、走って学校へ行く日々を過ごしていました。

どうやら私は、「余裕を持って前々から計画的に行動する」ことが苦手なようで、追い込まれるまで行動ができませんでした。

 

その行動に”必要性”がないと動けない。そんな性格でした。

 

ましてやご飯を食べてから、学校へ行く準備をするまでの間に何かをしていたわけではありません。この「何をしていたか説明できない時間」が私にはとても多かったです。「何時に〇〇をして、次に△△をする」というように細かく順序立てて行動することが苦手でした。


しかし、その間も「〇時〇〇分にはあれをしておかなければ遅刻する」というリミットラインは常に意識しており、最悪の事態はいつもギリギリで避けることができていました。学校に遅刻するかしないかの”ハラハラ”が刺激となって、私の行動力が生まれるような感覚でした。

 

そして毎朝「明日は必ず時間に余裕をもって行動しよう」と決意表明をするも、結局次の日もギリギリの朝を過ごしている。その繰り返しでした。

 

私が小学校の頃から失敗を恐れずにチャレンジできていたのは、「常に最悪の事態を想定する」ことができていたからかもしれません。この最悪の事態が起きない限りは、小さな失敗や計画通りにいかないということは、さほど私の中でも問題になりませんでした。

 

だからこそ自分だけでなく、他人失敗に対しても寛容に受け入れることができているのだと気付きました。良くも悪くもこの習慣のおかげで、「人/物事に対して肯定的な姿勢」をもてるようになったと思っています。

 

今回は「時間の使い方」についてお話ししました。今では前々から行動するように習慣付いてきましたが、特に小学生の頃は本能のままに生きていたと感じました。

 

先のことをあまり考えず、「今」を生きていた。

 

これはこれからの私の人生や生き方にも、ヒントになるのではないかと思い今回記事にしました。良いように書いていますが、毎朝ハラハラさせていた母親には申し訳なかったと思っています...。

 

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

 

前回記事では、”文字を書くこと”が自己表現の場であるというテーマでお話ししています。↓↓↓

 

 

 

 

さて今回は、小学生の頃の”ある性格”についてお話しさせていただきます。

タイトルにもある通り、特に小学生の頃の私は承認欲求が強い”かまってちゃん”でした。

 

”かまってちゃん”とは、常にかまってほしがる人のことを表す俗語です。

 

「周りに褒められたい」、「認められたい気持ちが強い」、依存的なタイプです。自分が注目を浴びていないと気が済まず、さまざまな言動で周りの気を引こうとする性格の方を指します。

 

 

ここで”かまってちゃん”の特徴をご紹介します。小学校の頃の私はこれらの特徴にものの見事に当てはまっていました。

 

・自慢話が多い

かまってちゃんの特徴には、自慢話の多さが挙げられます。かまってちゃんはトレンドに敏感で、流行りのものやブランドを身につけてアピールしたがる傾向があります。

仕事においても、自分の成績や上司からの評価を周りに自慢します。自分が話すばかりで、相手の話を聞こうとしないのも、かまってちゃんの特徴です。

 

・つい話を盛りがち

かまってちゃんは、実際よりオーバーに話すクセがあります。盛り気味に話をすると、相手からより良い反応をもらえるからです。

そのため、かまってちゃんの話にはウソが混ざっているときもあり、どこまでが本当の話なのかわからない場合もあります。

 

・ネガティブな発言が多い

かまってちゃんは、自分の価値や存在への自己評価が低く、ネガティブな発言するのが特徴です。

注目されないと、「私なんて必要とされていないんだ」などマイナスな発言をして、周りの気を引こうとします

 

 

なぜあの頃の私は、自慢話をしたり、オーバーに話したりしていたのでしょうか。

 

それは、「自分という存在に自信がなく、自己肯定感が低いから。」

 
もう少し噛み砕いて言うと、次のように言い換えることができるのではないでしょうか。
 
「自分を押し殺して他人軸で生きているからこそ、他人の反応や言動からしか自分の価値を測ることができない。」

 

かまってちゃんには、自己肯定感の低いタイプが多く見られます。自己肯定感とは、自分の存在や価値を、自分自身で評価する感情のことです。

自分で自分を評価することができないからこそ、他人に依存してしまう。これが”かまってちゃん”になってしまう原因です。

自信がないため、ことあるごとに不安を感じてしまいます。また、かまってちゃんは些細なことで傷つきやすく、少しでも否定的な発言をされたり、満足いく反応が得られなかったりすると「私は嫌われているの?」「私は周りから必要とされていないんだ」などと、ネガティブな感情が大きくなるのです。

 
「私は誰の人生を生きているのか」
 
私にとって、自分で自分を正しく評価するために必要なことは、「自分の本心に従って、意思決定をおこなうこと」でした。
 
「このように行動したら、あの人に褒めてもらえるかもしれない」「これをしたら怒られる/怒られない」といった、他の人を主人公にしたストーリーを組み立てるのが上手になってしまっていたので、最初は「自分で決める」ということに抵抗がありました。
 
しかし、自分で決めたことによって、そこには”責任”と”納得感”が生まれたのです。
 
周りの人に”良い顔”をして嫌われないような生き方では、自分で自分のことを嫌いになる日がいずれ訪れます。
 
私自身、新卒1年目で適応障害になり休職しました。そこで「自分で決める」ということを意識するようになってからは、”自分がどう思ったのか/感じているのか”を中心に置いて行動できるようになり、自分の中でブレない芯が生まれました。
 
他人からの評価で一喜一憂する生活は疲れます。何より自分の人生がもったいないです。
 
私はこのことに気付くのに23年かかりました。「もっと早くに気づいていれば」と今更嘆くつもりはありません。
ただ、これからの人生の主役は”私自身”です。最後死ぬ時に後悔しないよう、私の人生を生きていきたいと思います。
 
 
最後までご覧いただき、ありがとうございました。