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Ty Hassyの敢えてwokeなブログ

弱い者いじめ、差別主義、排他主義、民族主義、排外主義的愛国主義、独善主義に断固反対し、今の社会の在り方や世界観や生き方に、ちょっとだけ新たな視点を提示するブログです。

 ホリエモンがNHKの番組にヒットラーのTシャツを着て出たということで、番組司会者が視聴者に謝罪したそうですが、なんだかNHKらしいなあと思いました。
 TシャツにはヒットラーがNO WAR とつぶやいている絵が描かれたいたようですが、これは実に面白いパロディーで、ついでに安倍首相が「戦争絶対反対!」って叫んでいるTシャツも作ればいいのにと思いました。
 そもそも、ヒットラーとナチスだけが極悪人であり、彼らの悪行は人類の汚点であり、悪夢のようなものであるというとらえ方自体が、問題の本質から目をそらそうとする、暢気な考え方であり、今回のヒトラーのTシャツに抗議するような人々も、ヒットラーにそれほど目くじらを立てるのなら、ヒットラーと同罪の人間も国も腐るほどあったし、今もそれは現在進行形であることを認識したうえで言っているのかどうかがいささか疑問に思われるわけであります。
 前にナチス以外にもアメリカも日本もとんでもない非人道的なことを行っていたことを書いた投稿がありますので、それを再度ここにリブログしておきます。
 ついてに、付け加えておくと、中国もチベットで大量虐殺を行って、南京大虐殺以上の殺戮行為を行ったし、北朝鮮の非道ぶりは、言わずと知れたことです。
 つまり、このヒットラーに象徴される問題は、我々一人一人の問題であり、絶対に他人事ではなく、私たち一人一人が自分自身の心の闇と戦って打ち勝つことによってのみ、二度と再びヒットラーの様な人間がリーダーになることがない世の中がつくれるのだと思います。


 8月6日広島原爆忌の日に、NHKスペシャルで当時のアメリカのトルーマン大統領が、原爆が市民密集地に落とされることを知らされずに原爆投下指令を出していたことが分かったと報道していました。
 つまり、原爆の威力を試したい軍部と科学者たちが大統領を騙してまで、盆地で人口の多い所のど真ん中に原爆を落としたという事です。しかも、これはその時の番組ではなく別の番組で言っていたことですが、原爆を投下する飛行機は8時15分に投下する前に一旦広島上空を意図的に何もせずに通過したという事です。その時は空襲警報が鳴ってほぼ全員が防空壕に入っていたそうですが、飛行機が何もせずに通過したので空襲警報が解除されて人々が外に出てきた直後に飛行機がUターンして戻って来て原爆を投下したのだそうです。
 皆、防空壕から出てきた直後だったので被害が倍増したということです。そして、それは意図的であったとしか考えられないという事です。
 つまり、日本への原爆投下は壮大なる人体実験だったということです。沢山の人が地上にいる状態でそのど真ん中に原爆を落とすと一体どれぐらいの破壊力と人体への影響があるのかを実験したということです。
 真実を知ったトルーマンは相当後悔したようですが、そのままでは国内世論も国際世論も収まらないので、戦争を早く終わらせるために原爆を落とさざるを得なかったという話をでっちあげて、しかも運よくその直後に日本が無条件降伏したので実際に原爆を落として良かったという国内・国際世論が定着してしまったということです。
 しかし、実際は、日本は通常爆弾によって殆どの都市が壊滅的な打撃を受けていたので、もう無条件降伏は時間の問題だったのに、その事に焦りを感じたのは当のアメリカの軍部であって、何故焦ったかと言うと、日本が降伏してしまうとせっかく作った新兵器の原爆を実験できなくなってしまうからです。
 だから、日本が降伏する前に何としてもウラン型の原爆とプルトニウム型の原爆をそれぞれ落としてのその効力のデータを取っておきたかったわけです。
 このように、アメリカの軍部と科学者たちはそれぞれ兵器の効力を試したいという欲求と、核爆発の威力と人体への影響を実際に試したいという欲求によって、大統領を騙してまで目的を遂げてしまったという事です。
 そこには、犠牲になる罪もない人々に対する思いなどひとかけらもなく、ひたすらに自分達の目的を達成することしか頭にない人間性のかけらもない冷血人間の姿しか見えません。
 このような悪魔の様な冷血人間はアメリカにもいたし、ナチスドイツはその典型であるし、他ならぬ日本軍もその例外ではなかったという事です。日本軍の非道ぶりは数え上げれば切りがないほどありますが、多くの場合は戦闘の過程での混乱状態による場合もあったかもしれません。
 しかし、そのような言い訳も一切通用しない、正に確信犯的な悪魔の様な所業を堂々と政府命令で行っていた例があります。それは、あの有名な731部隊です。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
 731部隊は満州を拠点にする医者や科学者を中心に構成された部隊で、細菌兵器や毒ガス兵器の開発をしたり生体実験によるデータを収集する部隊でした。
 実際に細菌兵器を中国の農村にバラマキその効果を試したり、捕虜を使って、様々な人体実験を行ったという事です。その人体実験の殆どは麻酔も使わず生きたままの人間を解剖するもので、麻酔状態や死んだ後では得られない様々な貴重なデータが得られたという事です。これこそ、正に悪魔の所業以外の何ものでもありませんが、驚くべきことは、それに関わった多くの医者や科学者たちは戦後なんの罪に問われることもなく、日本の医学界や科学界の重鎮として君臨したという事実です。その中心人物の一人はあのミドリ十字社の設立者になっています。
 戦後、多くの人が戦争犯罪人として国際法廷で裁かれていますが、この731部隊に限っては、一部がソ連の法廷で裁かれた以外は、その貴重なデータをアメリカに渡すことと引き換えに殆どの関係者は訴追を逃れることが出来たのです。正に悪魔同士の取引としか言いようがありません。
 このように、アメリカの軍部も広島・長崎で壮大なる人体実験をし、日本軍も文字通りの生体人体実験を繰り返していたわけですが、よく、戦争が人々を狂気に走らせると言って、全てが戦争のせいであるかのような言い方がありますが、僕はあれは話が逆であって、元々人間はとてつもない残虐性と目的の為には手段を択ばないという本性を内に秘めているけど、普段は法律や世論などの様々な手枷足枷があるのでその本性を出す機会がないだけで、一度、チャンスが到来すれば、どこまでも冷徹無情にその目的を達しようとする生き物であるということです。
 というか、ネズミを殺すのにも心が痛む人々も多くいる反面、ネズミはおろか状況が許せば人を殺すのも平気な人々が、我々の中には少なからず居ると言うことです。
 そして、そういう他者の痛みを想像できない、他者の苦しみを全く意に介さない冷徹無情な人間達が権力を持つとナチスの様なことをしでかす訳だし、どこの国の軍部や政権や科学者の中にもそのような冷徹無情な人々が居て、自分達の出番をてぐすねひいて待っている訳ですが、皆が平和に暮らしている時は彼らの出番もありませんが、一度、国際情勢が緊迫して一触即発の状態になると、彼らの攻撃的なな意見が支持されるようになり、彼らがリーダーシップを取り始めるという訳です。
 従って、戦争が人々を狂気に走らせるのではなくて、人類の中に必ずいる他者の痛みを想像できす、他者の苦しみを意に介さない冷徹非常なサイコパスのような人々が、緊張状態の中では攻撃的なリーダーシップを発揮して世論を扇動して全国民を戦争に引っ張り込んでいくということです。
 そのような危険な連中が暴走しないように日頃から目を光らせておくのが、我々に課せられた重大な責任であると思う訳であります。国際情勢が緊張状態になった時に威勢の良いことを言う連中にはサイコパスが多いことを肝に銘じて、彼らの口車には絶対に乗せられないように気を付けましょう。

 この写真を見て、テレビで見た!という人も多いと思います。そうです。ここは、イッテQや世界ふしぎ発見!でも紹介された The Wave と言われる所で、アリゾナ州のバーミリオン クリフ国定公園内 コヨーテ ビュートにある砂岩が水の浸食によって波模様になった他の惑星に降り立ったようなこの世のものとも思えない美しい光景が見られる所です。

 ここは、環境保護の為に毎日20人しか立ち入ることが許されず、厳正なるくじ引きによって選ばれるため、テレビ局でもこのくじに当たらないと取材も出来ないという正に激レアな観光スポットになっています。

 この誰もが滅多に行けない所に、アメリカに住んでいる身内が東海岸から西海岸へ車で引っ越す途中に立ち寄ったところ、運よくクジに当たったそうで、この度、嬉しそうに写真を送ってきましたので、せっかくなので皆さんにもご紹介いたします。

 なかなか見ることのできない生写真ですの、どうぞ楽しみください。

 

七夕のお願いは何?

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今日は七夕の日ですが、去年の今日の七夕の投稿をリブログ致します。
覚えている方はスキップしてください。忘れた方初めての方はお楽しみください。
 
 七夕と言えば愛し合う牽牛と織女が年に一度この日にしか会えないという悲しくもロマンチックなお話というイメージがあります。そして、この牽牛と織女は恋人同士だと何となく思っている人も多いと思います。
 しかし!実は、この二人は夫婦なのであります。夫婦なのに年に一度しか会えないのであります。そもそもは、とても働き者であった織女の上司である天帝が、年頃なのに働きづめの織女をみて気の毒に思い、牽牛との縁談を紹介して二人を結婚させたのでありますが、結婚したとたん、あれほど働き者であった織女が夫婦生活にうつつを抜かして、あまり仕事をしなくなり業績が悪化したのであります。
 その事に激怒した天帝社長が、織女を遠く離れた海外に単身赴任させて、年に一回の一時帰国しか認めなくなったというお話であります。
 ということで、古来、7月7日はこの織女が一時帰国して牽牛と再会できる日としてめでたい日になった訳ですが、逆に言うと残りの364日はとても理不尽な、めでたくない日になってしまったわけです。
 これは幸いお伽噺だけど、これほどではないにしても、これに限りなく近い話が、現実にも沢山あり、この七夕の日に他人事ならぬ気持になっている人も少なくないと思います。

アインシュタインといえば?

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今日はアインシュタイン記念日だそうですが、去年の今日、投稿した記事がありますので、せっかくなので、もう一回リサイクルつまりリブログしておこうと思います。

それにしても、直前の記事が、「UFOとシンクロ二シティー」でユングと量子論の話を掘り下げた話をしていて、今日がタイミングよくアインシュタイン記念日だとは、これもある意味で、シンクロ二シティーなのかもしれません。もう前に読んだ!という方は、内容を覚えていれば、パスして下さい。もう忘れた方はもう一度どうぞ。あと、何度も同じネタばかり登場してもう飽きたと思っている人もいると思いますが、そういう方は、見なかったことにして、こっそりと無視しておいてください。そして、始めての方は、絶対に面白いので関連リンクも含めて是非読んで頂きたいと思います。それでは、どうぞ!

 

 今日はアインシュタイン記念日だそうです。記念日というからには普通は誕生日を記念するものですが、アインシュタインの誕生日は3月14日なので、この場合はご本人の誕生日ではなく、ご本人が考え付いた「相対性理論」の誕生日として6月30日が選ばれたようです。

 より厳密に言うと、1905年の6月30日にアインシュタインが投稿した「動いている物体の電気力学」という論文の中で、史上初めてthe same laws of electrodynamics and optics will be valid for all frames of reference for which the equations of mechanics hold good. We will raise this conjecture (the purport of which will hereafter be called the Principle of Relativity) つまり、誰がどのような状態で観測しようが同じ法則が成り立つのであり、それを相対性原理と言います。という事と、light is always propagated in empty space with a definite velocity c、つまり「光速度不変」の原理という仮説を提言したわけです。

 それまでは、時間や空間というものは絶対的で不変なものであると思われていましたが、不変なのは光の速度の方であるということを史上初めてここで宣言したわけです。しかし、もし光の速度が不変であるとすると、今度は時間や空間が絶対的なものでは無くなり伸びたり縮んだりするものであるという話になることを意味していました。

 今まで絶対的に威張っているように思われた時間様や空間様は、突然「光」殿が天下を取ってしまい「元々この宇宙の中で一番偉いのは俺様であって、君らなんぞは、本当は中身のない錯覚見たいなもんで、少なくとも俺の眼中には君らは存在しない!せいぜい、俺様より身分の低いものたちにくっ付いて長くなったり短くなったりしてりゃ良いんだよ!」という事で、時間様と空間様の地位が一気に下がってしまったわけです。

 確かに「光」殿の仰る通り、「光」殿の眼中には時間も空間も存在しないのであります。なぜなら相対性理論によれば、光速においては時間は止まり、光速で移動する長さはゼロになりますので、光は、宇宙のどこへでも瞬時に一ミリも動くことなく到達できるのであります。ただ、これはあくまで光の視点での話でありまして、光の視点には立てない我々の視点からみると、光には御存知の通り秒速30万キロという速度があり、太陽から地球まででも8分間かかり北極星からだと400年もかかるのであります。しかし、注意しなければならないのはこの8分や400年というのは我々人間の運動状態で観測したときの時間や距離であって、それらは決して客観的で絶対的なものではないのということです。

 我々の視点からみて400年もかかるほどの膨大な距離も、当の光自体の運動状態では長さは無限に縮むので0mになり、時間も止まるので0秒になり、結局、瞬時に一ミリも動くことなく到達している訳です。(この光の話に関しては以前投稿した記事:光の不思議 がありますのでこちらもご参照ください)

  アインシュタインの相対性理論が意味するところはこれほどまでに奇妙なもので、一体全体、我々が知覚している時間や空間とは一体何なんだろう?と根源的な疑念を呼び起こすような内容だったのであります。

 今でこそ、相対性理論の正しさは様々な実験で検証されており、実用的にも相対性理論を前提にして様々な計算が行われるようになっていますが、発表当初は「そんなことたあないやろ~??」と疑問に思う人が多く、一部に支持する人がいても「そんな奴はおらんやろ~」という感じで、長い間冷遇されたのであります。

 ということで、世紀の大発見であったにも関わらず、結局この相対性理論はノーベル賞の対象になることもなかったのであります。アインシュタインがノーベル賞を貰ったのは、この相対性理論と同時期に発表した「光量子仮説」という波であると考えられていた光に粒子のような性質もあることを証明した理論に対してでありました。

 皮肉なことに、このアインシュタインの「光量子仮説」がその後に発展する量子力学の基礎にもなるのですが、この量子力学は、時間と空間の絶対性を否定したアインシュタインでも納得しがたいような世界観を示し始めたことから、晩年のアインシュタインはこの量子力学の間違いを証明するために専心しました。しかし、結局、アインシュタインの意に反して、あらゆる実験は量子力学の正しさを証明し続け、アインシュタインは失意のうちに他界したと言われています。

 結局、アインシュタインという人は、時間・空間の絶対性を否定するという世界観がひっくり返るようなことをやってのけましたが、客観的な物質世界の実在性は信じて疑いませんでした。

 しかし、アインシュタイン自身が発見した「光量子仮説」を基礎として発展したその後の量子力学が示唆する世界観は、人間の観測行為以前に確定してしまっている客観的な物質世界などというものはあり得ないというものでした。つまり、素粒子の状態というのは、人間が観測するまでは、その状態は確定しておらず、あらゆる状態の可能性を示す様々な確率が波動方程式(シュレンディンガー方程式)で表される共存度確率の波として示され、人間の観測行為によって、その中の一つが実在化し、その他の可能性はその瞬間に雲散霧消するか、別の世界へと分岐していくというものでした。

 つまり、素粒子というものは人間が観測するまでは、その状態は確定しておらず、状態が確定していないということは、まだ実在以前の段階にあるという事で、人間の観測行為によって始めて状態が確定するということが量子力学によって分かった訳です。従って、それら素粒子から構成されているあらゆる物も、人間の観測行為以前に既に状態が確定しているとは言えないという話になる訳であります。

 アインシュタインは人間が見ていようがいまいが月は初めから月としてあるはずだ!と主張しましたが、その後の量子力学の発展により、人間の観測行為が原初の宇宙の在り方までをも規定するという見方まで登場し、今やそのような見方を回避するには、この世界はあらゆる可能性の数だけ存在していて、シュレンディンガー方程式の共存度確率の波であらわされるそれぞれの可能性は毎瞬それぞれ違う世界として分岐しながら実在化していると考えるしかないというのが大方の見方になりつつあります。

 いずれにしても、我々人間は、毎瞬毎瞬、無数に分岐していく無数の世界の中の一つを選択しているのであり、従って未来は一つではなく、ありとあらゆる可能性の未来があり得る訳であり、その中のどの未来を自分が選択するかは、自分次第だという事です。

 ただ、何もせずにボーとして状況に流されるままの受け身な人生を送っていると、共存度確率の中の一番高い確率の未来をそのまま選択することに成るはずですが、毎瞬毎瞬、気合を入れて自分が目指す未来の方向を選択するようにしていけば、少しずつではあっても確実にその方向を選択していくようになると思います。

 つまり、未来がどうなるかは完全に今の自分の毎瞬の選択次第であるということです。

 ということで、信じるか信じないかはあなた次第です!

 

*アインシュタイン記念日の話をしていたら、いつの間にやら、これまでここで書いてきたことの繰り返しのようになってしまいましたが、これまでの総まとめ的復習とでも思っておいてください。

*また、この際ですので、これまでにここで書いてきた関連記事へのリンクを張っておきますので、御関心のある方は是非どうぞ。下のリンクは相互にリンクしているのもあって無限ループになっている所もありますが、いずれにしても、相対論、量子論の関連の話は以下のリンクの各投稿をじっくりと読めば、同じことを微妙に違う角度から書いていますので、ほぼ全体像が見えるようになると思います。

お時間のある方は是非どうぞ。

 

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今日は世界宇宙飛行の日 だそうですので、最新の宇宙論の話と、お馴染みの自作宇宙旅行動画をどうぞ

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UFOとシンクロ二シティーについてー2

 

 

前回は、シンクロ二シティーという現象を最初に取り上げたスイスの心理学者ユングとその心理学について超簡単にご紹介いたしました。

先にもご紹介いたしました様にユングはフロイトの弟子でしたが、フロイトのあまりにも唯物論的な考え方に次第に疑問を抱く様になり、最終的には大喧嘩をして決別します。その大喧嘩をしてユングの怒りが頂点に達した時、部屋にあった木の箱が大きな音を出して割れたということです。

それ以前から、自分の心の中での思いや出来事と、実際に起こることとの不思議な関連性に気づいていいたユングは、人間が実際の経験として知覚することと、心の奥底にある思いとには明らかに意味の上での繋がりがあり、それは物理的な因果律では説明できない仕方で、現実での現象となって現れると確信するに至ります。

それは1930年頃でしたが、その頃というのは、丁度、物理学の世界でも、それまでの唯物論的で決定論的な世界観が根底から覆るような大変動が起こりつつある時でした。

ここでも何度かご紹介してきました量子力学が誕生し発展しつつあった時期だったのです。量子力学、物の究極の姿である素粒子というものは、人間によって観測されるまでは、その存在の仕方が確定しないという事実を発見したのであります。

それまでの物理学では、素粒子も含めたあらゆる物質は初めから存在しており、人間がそれを観測しようがしまいが、そんなことには関係なく、ずっと存在してきたしこれからも存在し続けると思われていました。そして、今でも殆どの人はそう思っていると思います。

所が、量子力学が描く世界像によれば、素粒子は人間によって観測されるまでは、あらゆる存在可能性が同時に共存する状態にあるだけであり実在しているとは言えない実在以前の状態にあり、人間の観測行為によって、その中の一つの可能性だけが選択され実在化するということが分かったわけであります。そして、あらゆる物質はその素粒子からできているわけですから、あらゆる物質もそして宇宙そのものですら、人間が観測するまではその存在の仕方は確定しないということが分かったのです。

この量子力学の立役者の一人に、ユングと同じスイス人のヴォルフガング・パウリという人がいました。このパウリとユングは仲の良いお友達だったのです。そして、この世紀の大物理学者と世紀の大心理学者は共著で本も書いているのです。

ということで、ユングはパウリから当時最先端であった量子力学の知見を聞いており、自分自身がこれまでに経験してきたような、自分の意識と周りに起こる出来事との意味深い繋がりが単なる気のせいではなく、物理学的にも根拠のあることなのかもしれないと思うようになったと思われます。

つまり、物理現象というのは単に物質同士の因果律によって生じるだけでなく、人間の意識の働きによっても生じうるものであると思い始めたのだと思います。

このような確信をもって、ユングはシンクロ二シティーという現象が、人間の意識の内容が、現実の物理現象の起こり方に反映されるという前提で、意識で考えたことと実際に経験することとの意味のある偶然の一致という意味でシンクロ二シティーという現象があることを明らかにしたのであります。

ユングは心の中の深い思いは物質化すると考えていたようです。だから、心の中で考えていたことと、実際に経験することが一致するつまりシンクロ二シティが起こると考えた訳です。

そして、晩年ユングがUFO目撃のニュースを聞いた時、それはある種のシンクロ二シティだと彼は考えたのです。

つまり、彼はUFO現象が第二次世界大戦後に急増した事に注目して、それが近代の科学的合理主義によってことごとく陳腐化されてしまった古代からの神話に代わる、新たな神話であり、2つの世界大戦を経て、人類全体が絶滅の危機にさらされている事への人類全体の深層心理に横たわる深い不安感から、人類以外の具体的な存在にある種の救いを求める代償行為であり、その人類全体の奥深い不安感と期待感が混ざって物質化した現象がUFO現象であると考えたわけです。

つまり、ユングはUFOは人類の深層意識が作り出した産物であるとして、実際に宇宙人が乗った宇宙船であるかどうかにはコメントしていないのであります。

ユングはUFOは単なる錯覚や幻などではなく、物理的に存在するものであると明言していますが、その内容については明らかにしないまま他界しています。

このままだと、ここまでこの記事を読んで下さった皆さんも消化不良で欲求不満になると思いますので、ここからは、ユングが明らかにしなかった様々な点についても、最新の物理学や様々な分野の知見も交えて、この私が僭越ながら「個人の見解」を述べさせて頂きたいと思います。

先ずは、ユングが前提としていたのは量子力学の中でも当時主流であったコペンハーゲン解釈でした。このコペンハーゲン解釈は、極論すれば、この世界の在り方は人間の意識によって決まるという解釈であると言えます。波動関数と言われる関数グラフに示された様々な存在の仕方の可能性が同時に共存している状態である素粒子が、人間の観測行為によって、その中の一つの可能性だけが選択され、実在化すると同時に、それ以外の存在可能性は一気に雲散霧消すると考えるのがコペンハーゲン解釈なのであります。

ただ、人間の意識が物質の存在の仕方を確定すると言っても、一体どの人間なのか?一人一人の人間の意識が違う以上、人間の数だけ違った存在の仕方がありうるのではないか?などの基本的な疑問は不問にされたまま、このコペンハーゲン解釈は一番シンプルな観測問題解釈として普及していきました。

ということで、ユングも何となく世界は一つであるという前提で様々な問題を考えていたように思われます。

しかし、もし世界が一つしかないと仮定するとシンクロ二シティーの問題にしろ、UFO問題にしろ、どうしても無理が生じてしまうのです。

例えば、劇場が一つしかいない所で、その舞台上で100人分のドラマが同時に演じられることはあり得ません。

100人分のドラマが同時に演じられるためには100人分の舞台と劇場が必要になります。

ということで、上記のコペンハーゲン解釈が不問にしたままなおざりにしてしまった人間の意識とはいったい誰の意識なのかと言う問題は「ウィグナーの友人」のパラドックスとして知られていますが、素粒子の状態は人間が観測するまではその状態が確定しないとすると、Aさんが観測して状態が確定したとしても、その結果をBさんが聞くまでは、Aさんの観測結果がどうであったかは「Bさんはまだ知らない」のではなくて、Bさんが聞くまでは「Aさんの観測結果は確定していない」という結論になるわけであります。

つまり、人間ひとりひとりの意識が世界の在り方を確定するわけで、ということは、人間の数だけそれぞれ違った世界が存在するという事になるわけであります。

このような様々な疑問の残るコペンハーゲン解釈に代わるものとして、新たに登場したのが、毎瞬ごとに、あらゆる存在の可能性が全てそれぞれ別々の世界へと分岐して行っていると解釈する「多世界解釈」と言われるものです(この解釈であれば人間の意識によって波動関数が収縮すると考えなくても済むのです。)これはコペンハーゲン解釈が積み残していった問題の解決を図ろうとすれば必然的に導き出される解釈なのでありました。

まあ、この辺の話はややこしいのでそろそろ頭が痛くなってきた人もいるかもしれませんが、要するに、我々が経験している世界も宇宙も一つではなく、人間の意識の数だけ世界があり、さらにもっと言えば、あらゆる可能性の全てが実在化した無限の数の世界と宇宙が存在している、とこの多世界解釈は考えるわけです。

この多世界解釈の無理の無いところは、人間の意識が何かを生み出す必要は無いというところです。

ありとあらゆる可能性は必ずどこかの世界で実現している為、要はそれを経験するためにはその世界に意識が繋がれば済むのです。我々が想像しているような宇宙人が乗った宇宙船に乗りたければ、それが実現している世界に意識が繋がればいいのです。

あるいは、宇宙人は実は宇宙船など使っておらずあの光る物体は宇宙人が作り出したイリュージョンである可能性もあるわけですが、自分がそうとしか思えなければ、そうなっている世界で宇宙人が作り出したイリュージョンとしてのUFOを見ることが出来るかもしれません。

要は自分がそう思っている世界に意識が繋がっていく確率が一番高いので、シンクロ二シティーも、自分が考えていたことと、全く同じことを現実で経験するのも自分の意識がそういう世界を選択しているからです。

ただし、ここで注意しなければならないのは、自分の意識が選択すると言っても、いつも意識できているいわゆる顕在意識が選択するわけではないということです。毎瞬毎瞬世界を選択して行っているのは、潜在意識以下の部分であり、仏教で言う所の阿頼耶識にあたる一番奥にある深層意識が選択しているという事です。

 このように、元々、我々が経験している世界と言うのは、自分自身の深層意識が選択している世界なので、思ったことや考えたことがそのまま実際に起こるのはむしろ当たり前の事であるとも言えるのですが、通常はむしろ、そのような事が起こらないようにブレーキが掛かっていると考えた方が良いのかもしれません。

つまり、我々の顕在意識と深層意識との間にはフィルターの様なものがあり、そのフィルターのお陰で、顕在意識で考えていることがいきなり現実化したりしないようになっていて、世界は顕在意識が預かり知らない所で実はひっそりと深層意識によって選択されているというのが本当の所のようです。

そうすることで、経験世界は内面世界とは別のもっと客観的な原理や仕組みで動いていると思えるようになっていて、その経験世界の様々な出来事から、内面世界が色んなことを学んで行けるように、人間の意識と言うものは出来ているのです。

 でも、結局は経験世界で起きる出来事というのも、上述の通り、実は自分の深層意識が選択している世界なのですが、それを経験する(顕在意識としての)内面世界の方は、自分が選択したとは思っていないので、客観的に物事が起こっていると思えているだけなのです。

 シンクロ二シティーと言うのは、その内面世界での考えや思いが、深層意識とのフィルターが甘くなっている時に、そのまま経験世界の選択原理になってしまっている時に、起こる現象なのです。

 だから、思った事や考えたことがそのまま経験世界で起こってしまうというわけです。

 なので、その深層意識とのフィルターやブレーキがあまりにも甘くなってしまうと、思った事や考えたことが、どんどんと経験世界で起こってしまうので、先に言いました様に、内面世界と経験世界の区別がつかなくなってしまって、混乱状態に陥る人も居るわけです。

 それが酷くなるといわゆる統合失調症になってしまう人もいます。

ということで、シンクロ二シティーは非常に面白い現象ではありますが、通常はそんなことが起こらない方が健全な状態なのだと思っておいた方が良いと思います。

健全な人生とは、深層意識が選択した世界において、顕在意識が何を学ぶかが大切なのであって、そこで学んだことや気づいたことが、ゆっくりと深層意識へと反映されて行って、自然と深層意識が選択する世界の状態もより良いものとなって行き、徐々に徐々に状況がより良い状態へと好転していくというのが健全な人の人生の在り方なのであると思います。

従って、顕在意識が無理やり「金持ちになる」という思いを念じ続けて、その思いを深層意識にも浸透させて、結果的に自分が金持ちになった世界を選択できたとしても、それによって、一体何を学べたのかはいささか疑問なのであります。

願いが叶うことは、欲望が満たされたことと同じな訳ですが、一つの願いが叶ったら次の願いを願うことになり、結局永遠に未だ叶わない願いが残ることになるわけで、そのような生き方が本当に人を幸せにするのかどうか僕は疑問に思わざるを得ないのであります。

ということで、最後は何だか良く分からない話になってしまいましたが、シンクロ二シティーとかそういう事に特に関心のある方にとっては、そういう側面を考えることも大切なのではないかと思いまして、あえて書かせて頂いた次第であります。

 先にUFOについて書きましたが、この問題は意外と奥が深く、様々な話に繋がっていく話であることをお話ししましたが、今回は表題にもある通り、UFOとシンクロ二シティーについてのお話に入っていきたいと思います。

 実は、ついこのあいだ、誰かのコメント欄にたまたまシンクロ二シティーについて書きこんだことがあり、気合を入れて書いたら結構長くなったので、もったいないのでこの際、それを流用しようと思いついたわけです。

 しかし、昨日がUFOの日で、流れとしては必然的に今日は深い関連があるUFO問題とシンクロ二シティーの関係性についてお話しした方が良い状況の中で、その為のネタを、偶然にも数日前に誰かのコメント欄に書いていたというのも、これ自体がある意味でシンクロ二シティーなのであります。

 

 ということで、では、そもそもシンクロ二シティーとは何なのでしょうか?

 世界水泳を見に行ったら、いろいろやっていて、どの競技を見に行こうか彼女に相談したら「シンクロにして~!」と言われたので、シンクロを見に行ったという話ではありません。

 

 シンクロ二シティーとは共時性と訳されていて、時に「意味のある偶然の一致」あるいは「因果的には全然繋がりのない二つ以上の事象が意味的な繋がりをもって経験されること」とも説明されています。

 

 もっと分かり易く言えば、日常的に経験される「噂をすれば影」とか、バッハの事を考えていたら通り過ぎた店からバッハの音楽が聞こえて来たとか、UFOの話をしていたら空にUFOらしきものが飛んで行ったとか、まあ、とにかく皆さんの中にも、日常的に、あることを考えていたら、その考えていたことそのものが目の前に登場したとか、現れたとか、目に入ったとか、聞こえたとか、タイミングよすぎる不思議な偶然の一致を経験したことのある人はいくらでもいると思います。

 

 シンクロ二シティーという現象を最初に取り上げたのはあのかの有名なカール・グスタフ・ユングという人で、彼はあのフロイトの弟子にして、フロイトとの決定的な世界観の違いから、最後は大喧嘩して、後にフロイトを遥かに超える壮大なる深層心理学の一大体系を作り上げた大天才であります。

 

 とてもとても複雑で長くて難しい話を、超簡単に端折って言ってしまうと、彼は人間の日常的な経験においては、意識の深層部分からの投影の影響が極めて大きく、人間は自分で意識できていない自分自身や自分の根っこの部分からの様々な思いと一つ一つ向き合って理解して受け入れていくことで、本当の自分らしさを回復できると考えた人です。

 

 分かり易い例を挙げれば、自分は本当はケチなんだけど、自分ではケチだとは思いたくないので、ケチな自分を潜在意識に押し込んでしまって、自分はケチじゃないもんね~!って、突っ張って生きているとすると、他の人がケチなことをすると、とても腹が立って許せなくなるのです。何故なら、深層心理の中では自分がせっかくケチな心を抑え込んで我慢しているのに、あの人は何で平気でケチなことをしている!そんなのずるい!と思うからであります。

 

 初めからケチではない人は、他の人がケチなことをしていても、別にそれほど腹は立たないものです。何故ならその人の行いは自分とは関係ないからです。でも、本当はケチなのにそれを我慢している人は、自分がこれほど我慢しているのに、なんであの人は我慢しないのだって、他人事とは思えずに腹が立つのです。

 

 ということで、もし、その人が本当はケチである自分を正直に認めて、本当は自分はとてもケチだったんだって、ケチな自分を受け入れて和解してしまうと、それ以降は、他の人がケチなことをしていてもそれほど腹が立たなくなるということです。

 

 同様に、他人の行いに対してやたらと厳しい人と言うのは、自分自身の中にある様々な思いを徹底的に抑圧して潜在意識の中に抑え込んでしまっている場合が多いのです。

 そういう人は、自分が否定して認めたくない自分自身の様々な嫌な部分を、そのまま地で行っているよう人に出会うとどうしても許せないのです。

 

 まあ、そういうことで、ユング心理学とは、表向きの自分と認めたくない自分が、意識と潜在意識とに分かれてしまって、不安定で緊張状態にある分裂した自分から、本来の自分自身の姿を一つ一つ素直に認めて、その自分と和解していくことによって、全ての自分の姿を受け入れ、本来のありのままの自分を回復することによって、あらゆる否定的な妄想や衝動から解放されて、円満で充足した生をとりもどすことを目指すものです。

 

 何だかユング心理学の概説をしただけで、随分と長くなってしまって、これから本題のシンクロ二シティーの話をしだすと、限りなく長くなってしまうので、ひとまずここで区切って、この続きは近日中に続編をお届けすることに致します。

 

 乞うご期待!

 今日はUFOの日だそうですが、UFOとは未確認飛行物体ということなので、必ずしも異星人が乗って地球を訪れている宇宙船であるとは限りません。

 しかし、多数の目撃例もあり、実際に日本のテレビ番組の真っ最中、日中の空に百を超える数の光る物体が現れたこともありますので、そういう現象があったことはもはや否定のしようのないことだと思います。しかし、あの光る物体が異星人が乗った宇宙船であったのかどうか、今の段階では何とも言えないと思います。

 もし、あの何百という数の光る物体一つ一つに宇宙人乗っていたとすると、わざわざ日本のテレビ局の為に何百人もの宇宙人が協力して登場するというのは、宇宙人は余程暇なのかもしれないし、あの日あの時点で現れる前まで彼らはどこでなにをしていたのか?普通宇宙船というのは何処かに移動する手段のはずなので、あのタイミングで申し合わせて登場するには待機していなければならず、何百人もの宇宙人がずっと宇宙船に乗り続けて待機しているというのもやっぱり宇宙人は暇なのに違いないという話になるわけであります。

 じゃあ、宇宙人は地球には来ていないのか?そもそも宇宙人なんていないのか?という話になると、僕は以前にも書きました様に、あらゆる可能性の中の極めて高い可能性として、この宇宙の中の沢山の惑星にさまざまな知的生命体が存在しており、その中には地球にも訪問している知的生命体は少なからずいるはずであると思っております。

 何故かといえば、地球に人類がいるのに、それ以外の惑星に同じような知的生命体が居ないと考えることの方が根拠のない発想であり、居るでしょ?と考える方が論理的かつ無理のない考え方だと思うからです。

 ただ、何故、僕はUFOが宇宙人の乗り物であるとは限らないと考えるかというと、そもそも宇宙船という発想そのものが、ちょっと原始的な発想であると思いますし、知的生命体がもっと進化すれば、宇宙船などと言うもの自体が必要なくなる可能性もあると思うからです。

 ということで、UFOを呼ぶイベントで沢山登場する光る物体は地球外生命体が関わっているにしても、彼らが乗っている乗り物ではないだろうと思うわけであります。

 

 しかし、この話はもっと他の話に広がっていく話だし、このまま書いていると日付が変わってしまって、もうUFOの日ではなくなってしまうので、とりあえず今日はここで止めときます。この続きはまた今度にしておきます。

 

乞うご期待!