UFOとシンクロ二シティーについてー2 | Ty Hassyの敢えてwokeなブログ

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前回は、シンクロ二シティーという現象を最初に取り上げたスイスの心理学者ユングとその心理学について超簡単にご紹介いたしました。

先にもご紹介いたしました様にユングはフロイトの弟子でしたが、フロイトのあまりにも唯物論的な考え方に次第に疑問を抱く様になり、最終的には大喧嘩をして決別します。その大喧嘩をしてユングの怒りが頂点に達した時、部屋にあった木の箱が大きな音を出して割れたということです。

それ以前から、自分の心の中での思いや出来事と、実際に起こることとの不思議な関連性に気づいていいたユングは、人間が実際の経験として知覚することと、心の奥底にある思いとには明らかに意味の上での繋がりがあり、それは物理的な因果律では説明できない仕方で、現実での現象となって現れると確信するに至ります。

それは1930年頃でしたが、その頃というのは、丁度、物理学の世界でも、それまでの唯物論的で決定論的な世界観が根底から覆るような大変動が起こりつつある時でした。

ここでも何度かご紹介してきました量子力学が誕生し発展しつつあった時期だったのです。量子力学、物の究極の姿である素粒子というものは、人間によって観測されるまでは、その存在の仕方が確定しないという事実を発見したのであります。

それまでの物理学では、素粒子も含めたあらゆる物質は初めから存在しており、人間がそれを観測しようがしまいが、そんなことには関係なく、ずっと存在してきたしこれからも存在し続けると思われていました。そして、今でも殆どの人はそう思っていると思います。

所が、量子力学が描く世界像によれば、素粒子は人間によって観測されるまでは、あらゆる存在可能性が同時に共存する状態にあるだけであり実在しているとは言えない実在以前の状態にあり、人間の観測行為によって、その中の一つの可能性だけが選択され実在化するということが分かったわけであります。そして、あらゆる物質はその素粒子からできているわけですから、あらゆる物質もそして宇宙そのものですら、人間が観測するまではその存在の仕方は確定しないということが分かったのです。

この量子力学の立役者の一人に、ユングと同じスイス人のヴォルフガング・パウリという人がいました。このパウリとユングは仲の良いお友達だったのです。そして、この世紀の大物理学者と世紀の大心理学者は共著で本も書いているのです。

ということで、ユングはパウリから当時最先端であった量子力学の知見を聞いており、自分自身がこれまでに経験してきたような、自分の意識と周りに起こる出来事との意味深い繋がりが単なる気のせいではなく、物理学的にも根拠のあることなのかもしれないと思うようになったと思われます。

つまり、物理現象というのは単に物質同士の因果律によって生じるだけでなく、人間の意識の働きによっても生じうるものであると思い始めたのだと思います。

このような確信をもって、ユングはシンクロ二シティーという現象が、人間の意識の内容が、現実の物理現象の起こり方に反映されるという前提で、意識で考えたことと実際に経験することとの意味のある偶然の一致という意味でシンクロ二シティーという現象があることを明らかにしたのであります。

ユングは心の中の深い思いは物質化すると考えていたようです。だから、心の中で考えていたことと、実際に経験することが一致するつまりシンクロ二シティが起こると考えた訳です。

そして、晩年ユングがUFO目撃のニュースを聞いた時、それはある種のシンクロ二シティだと彼は考えたのです。

つまり、彼はUFO現象が第二次世界大戦後に急増した事に注目して、それが近代の科学的合理主義によってことごとく陳腐化されてしまった古代からの神話に代わる、新たな神話であり、2つの世界大戦を経て、人類全体が絶滅の危機にさらされている事への人類全体の深層心理に横たわる深い不安感から、人類以外の具体的な存在にある種の救いを求める代償行為であり、その人類全体の奥深い不安感と期待感が混ざって物質化した現象がUFO現象であると考えたわけです。

つまり、ユングはUFOは人類の深層意識が作り出した産物であるとして、実際に宇宙人が乗った宇宙船であるかどうかにはコメントしていないのであります。

ユングはUFOは単なる錯覚や幻などではなく、物理的に存在するものであると明言していますが、その内容については明らかにしないまま他界しています。

このままだと、ここまでこの記事を読んで下さった皆さんも消化不良で欲求不満になると思いますので、ここからは、ユングが明らかにしなかった様々な点についても、最新の物理学や様々な分野の知見も交えて、この私が僭越ながら「個人の見解」を述べさせて頂きたいと思います。

先ずは、ユングが前提としていたのは量子力学の中でも当時主流であったコペンハーゲン解釈でした。このコペンハーゲン解釈は、極論すれば、この世界の在り方は人間の意識によって決まるという解釈であると言えます。波動関数と言われる関数グラフに示された様々な存在の仕方の可能性が同時に共存している状態である素粒子が、人間の観測行為によって、その中の一つの可能性だけが選択され、実在化すると同時に、それ以外の存在可能性は一気に雲散霧消すると考えるのがコペンハーゲン解釈なのであります。

ただ、人間の意識が物質の存在の仕方を確定すると言っても、一体どの人間なのか?一人一人の人間の意識が違う以上、人間の数だけ違った存在の仕方がありうるのではないか?などの基本的な疑問は不問にされたまま、このコペンハーゲン解釈は一番シンプルな観測問題解釈として普及していきました。

ということで、ユングも何となく世界は一つであるという前提で様々な問題を考えていたように思われます。

しかし、もし世界が一つしかないと仮定するとシンクロ二シティーの問題にしろ、UFO問題にしろ、どうしても無理が生じてしまうのです。

例えば、劇場が一つしかいない所で、その舞台上で100人分のドラマが同時に演じられることはあり得ません。

100人分のドラマが同時に演じられるためには100人分の舞台と劇場が必要になります。

ということで、上記のコペンハーゲン解釈が不問にしたままなおざりにしてしまった人間の意識とはいったい誰の意識なのかと言う問題は「ウィグナーの友人」のパラドックスとして知られていますが、素粒子の状態は人間が観測するまではその状態が確定しないとすると、Aさんが観測して状態が確定したとしても、その結果をBさんが聞くまでは、Aさんの観測結果がどうであったかは「Bさんはまだ知らない」のではなくて、Bさんが聞くまでは「Aさんの観測結果は確定していない」という結論になるわけであります。

つまり、人間ひとりひとりの意識が世界の在り方を確定するわけで、ということは、人間の数だけそれぞれ違った世界が存在するという事になるわけであります。

このような様々な疑問の残るコペンハーゲン解釈に代わるものとして、新たに登場したのが、毎瞬ごとに、あらゆる存在の可能性が全てそれぞれ別々の世界へと分岐して行っていると解釈する「多世界解釈」と言われるものです(この解釈であれば人間の意識によって波動関数が収縮すると考えなくても済むのです。)これはコペンハーゲン解釈が積み残していった問題の解決を図ろうとすれば必然的に導き出される解釈なのでありました。

まあ、この辺の話はややこしいのでそろそろ頭が痛くなってきた人もいるかもしれませんが、要するに、我々が経験している世界も宇宙も一つではなく、人間の意識の数だけ世界があり、さらにもっと言えば、あらゆる可能性の全てが実在化した無限の数の世界と宇宙が存在している、とこの多世界解釈は考えるわけです。

この多世界解釈の無理の無いところは、人間の意識が何かを生み出す必要は無いというところです。

ありとあらゆる可能性は必ずどこかの世界で実現している為、要はそれを経験するためにはその世界に意識が繋がれば済むのです。我々が想像しているような宇宙人が乗った宇宙船に乗りたければ、それが実現している世界に意識が繋がればいいのです。

あるいは、宇宙人は実は宇宙船など使っておらずあの光る物体は宇宙人が作り出したイリュージョンである可能性もあるわけですが、自分がそうとしか思えなければ、そうなっている世界で宇宙人が作り出したイリュージョンとしてのUFOを見ることが出来るかもしれません。

要は自分がそう思っている世界に意識が繋がっていく確率が一番高いので、シンクロ二シティーも、自分が考えていたことと、全く同じことを現実で経験するのも自分の意識がそういう世界を選択しているからです。

ただし、ここで注意しなければならないのは、自分の意識が選択すると言っても、いつも意識できているいわゆる顕在意識が選択するわけではないということです。毎瞬毎瞬世界を選択して行っているのは、潜在意識以下の部分であり、仏教で言う所の阿頼耶識にあたる一番奥にある深層意識が選択しているという事です。

 このように、元々、我々が経験している世界と言うのは、自分自身の深層意識が選択している世界なので、思ったことや考えたことがそのまま実際に起こるのはむしろ当たり前の事であるとも言えるのですが、通常はむしろ、そのような事が起こらないようにブレーキが掛かっていると考えた方が良いのかもしれません。

つまり、我々の顕在意識と深層意識との間にはフィルターの様なものがあり、そのフィルターのお陰で、顕在意識で考えていることがいきなり現実化したりしないようになっていて、世界は顕在意識が預かり知らない所で実はひっそりと深層意識によって選択されているというのが本当の所のようです。

そうすることで、経験世界は内面世界とは別のもっと客観的な原理や仕組みで動いていると思えるようになっていて、その経験世界の様々な出来事から、内面世界が色んなことを学んで行けるように、人間の意識と言うものは出来ているのです。

 でも、結局は経験世界で起きる出来事というのも、上述の通り、実は自分の深層意識が選択している世界なのですが、それを経験する(顕在意識としての)内面世界の方は、自分が選択したとは思っていないので、客観的に物事が起こっていると思えているだけなのです。

 シンクロ二シティーと言うのは、その内面世界での考えや思いが、深層意識とのフィルターが甘くなっている時に、そのまま経験世界の選択原理になってしまっている時に、起こる現象なのです。

 だから、思った事や考えたことがそのまま経験世界で起こってしまうというわけです。

 なので、その深層意識とのフィルターやブレーキがあまりにも甘くなってしまうと、思った事や考えたことが、どんどんと経験世界で起こってしまうので、先に言いました様に、内面世界と経験世界の区別がつかなくなってしまって、混乱状態に陥る人も居るわけです。

 それが酷くなるといわゆる統合失調症になってしまう人もいます。

ということで、シンクロ二シティーは非常に面白い現象ではありますが、通常はそんなことが起こらない方が健全な状態なのだと思っておいた方が良いと思います。

健全な人生とは、深層意識が選択した世界において、顕在意識が何を学ぶかが大切なのであって、そこで学んだことや気づいたことが、ゆっくりと深層意識へと反映されて行って、自然と深層意識が選択する世界の状態もより良いものとなって行き、徐々に徐々に状況がより良い状態へと好転していくというのが健全な人の人生の在り方なのであると思います。

従って、顕在意識が無理やり「金持ちになる」という思いを念じ続けて、その思いを深層意識にも浸透させて、結果的に自分が金持ちになった世界を選択できたとしても、それによって、一体何を学べたのかはいささか疑問なのであります。

願いが叶うことは、欲望が満たされたことと同じな訳ですが、一つの願いが叶ったら次の願いを願うことになり、結局永遠に未だ叶わない願いが残ることになるわけで、そのような生き方が本当に人を幸せにするのかどうか僕は疑問に思わざるを得ないのであります。

ということで、最後は何だか良く分からない話になってしまいましたが、シンクロ二シティーとかそういう事に特に関心のある方にとっては、そういう側面を考えることも大切なのではないかと思いまして、あえて書かせて頂いた次第であります。