Ty Hassyの敢えてwokeなブログ -10ページ目

Ty Hassyの敢えてwokeなブログ

弱い者いじめ、差別主義、排他主義、民族主義、排外主義的愛国主義、独善主義に断固反対し、今の社会の在り方や世界観や生き方に、ちょっとだけ新たな視点を提示するブログです。

ついにトランプ大統領が誕生いたしました。

就任演説を聞いて、本気でこれからは、アメリカの景気が良くなって、雇用が生まれて、仕事が増えて、国としても強さを取り戻すかもしれない、と期待したアメリカ人も居たのかもしれません。

しかし、残念ながら彼らのそのような期待は早々に裏切られることになると思います。

トランプ大統領が誕生した本当の理由は、彼が主張するような保護貿易主義や一国主義が、結局どのような結末をもたらすのかを全世界の人々に嫌という程思い知らせるために、先ずは彼が選ばれたということに過ぎないと思うからです。

最終的には全世界的な統制経済の時代が遠からず来るのだと思いますが、その前段階として、各国がそれぞれの思惑で好き勝手なことをしだしたら、世界中がどれ程の混乱状態に陥るのかを、一度、全世界の人々に経験しておいてもらわないと、全世界的な統制経済へのコンセンサスは出来上がらないと判断した人々がいるようで、彼らは先ずはトランプ氏を見せしめに使おうと決めたと思われるからです。

今後は彼らの筋書き通りに動くと思いますので、真剣に経済情勢や国際情勢を研究して判断しようとしても殆ど無駄であると思います。

ましてや、株や為替で一儲けしようなどと思っている人は絶対にやめた方が良いと思います。これからは、プロの予測でも全く通じないようなとんでもないことが頻発すると思われるからです。

問題はどこまでとんでもないことが起こるかで、私としては、このような世論操作のために、多くの犠牲者が出るようなことを起こすのだけは絶対に止めてもらいたいと思っております。

ただ、こんなことを言っても見ても屁のツッパリにもならず、内心とても歯がゆいばかりです。

 

もてる男はツライと言うが、もてない男はもっとツライ。

 

友人が、「お名前をお伺いしてよろしいですか?」と聞いたら、ご老人から「すなおです。変換していただけばマイクを持った火星人に見える漢字がでてきますので、それです」と言われたらしいんだが、 ・・・確かにおっしゃるとおりです。もう火星人にしか見えない。

 

おばあさんが健康診断でバリウム検査をしたら胃の中に食べ物が入っていたので、検査技師が、何か食べてこられました?と尋ねたら、おばあさんは「ええ、ご飯食べるなと言われたので、うどん食べてきました」と答えたそうです。

 

昔、ケネディー大統領がインドを訪問した時に、インディラ・ガンディーが列車でインドを案内しました。ケネディーが窓の外を眺めていると、線路沿いの田んぼで列車の方を向いて、しゃがみ込んで用を足している人が何人もいました。ケネディーはインドには外で用を足す人がこんなにもいるのだと笑いながら驚いたそうです。で、インディラ・ガンディーはとても恥ずかしい思いをしたそうです。翌年、今度はインディラ・ガンディーが訪米し、お返しにケネディーが列車でアメリカを案内しました。すると、アメリカでも列車の方を向いてしゃがみ込んで用を足している人がいました。インディラ・ガンディーはケネディーに向かって、貴方はインドのことを笑ったけど、アメリカにもそういう人はいるじゃないですか?と言いました。怒ったケネディーは列車を止めさせて、その用を足している人を捕まえた所、アメリカ在住のインド人だったそうです。

 

(次の話はネタの様な実話です。)

森首相が訪米した時、クリントン大領領に出迎えられ、あらかじめ練習したとおりに、英語で挨拶をしました。ところが、本当ならHow are you? というべきところを緊張して、Who are you? と言ってしまったのです。驚いたクリントンはとっさに I am Hillary’s husband. と答えたそうです。それに対して森首相は覚えたとおりに、Me too ! と答えたということです。

先の投稿で、宮沢賢治の夜鷹の星のお話をご紹介致しました。自分が生きて行く為に、毎日沢山の虫が自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいくのに耐えられなくなった夜鷹は、もうこれ以上自分のための犠牲者を出したくないと思い、食べることを止めて、ひたすら夜空に向かって飛び続けて、最後は星なったという悲しくも美しいお話です。

これは、夜鷹に限らず、我々人間も含めた全生物が抱える根源的な問題に焦点を当てた物語です。

つまり、生きるということは他者を犠牲にするということであり、他者を犠牲にしたくないという他者を思いやる気持ちと、自分が生きて行く為には他の生物を食べて行かざるを得ないという事実は、根本的に矛盾するものであり、他者に対する思いやりの度合いが強ければ強いほど、その葛藤による苦しみは大きくなるということです。

我々が普段こころ穏やかに暮らせているのは、そう言う根源的に厳しい現実から、目を背けて、知らないふりをして、とぼけているからに過ぎません。

しかし、もし夜鷹のように、他者の苦しみを自分の苦しみのように感じ、その事実から目を逸らさずに正面から向き合おうする人がいたとしたら、その人生は葛藤と苦しみと悲しみの連続になるに違いありません。

しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような他者を思いやる気持ちというものは、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは明らかに、自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。

自然の摂理に従って進化してきたはずの人類がそれを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?これは人類最大の謎であると言っても過言ではない大きなテーマであると思います。と前回大風呂敷を広げたので、今回はその後始末をしておきたいと思います。

そもそも他者の気持ちを自分に置き換えて推量する能力、つまり共感力と言われるものは、類人猿やイルカなどにも見られるようです。脳科学的にはミラーニューロンという神経細胞が、他者の行動に対し自らの行動と同等の反応示すことが分かっており、それが共感力の源泉ではないかと推測されています。

実験的には類人猿までは確実に他者の気持ちまで推測できる能力を持っていることが確認されています。しかし、まだ分からないことも多く、犬の情緒豊かな反応の源泉など、実験的にも解明されていないことも数多くあるのも事実です。

いずれにしても、共感力と言うものは人類だけのものではなく、生物が高度に進化した結果として獲得した能力であることは確かなようです。

ただ、人類であっても、育った環境や先天的な理由によって、共感力が失われている場合も少なからずあるようです。凶悪犯罪者や横暴な指導者に多いサイコパスと言われる人たちで、他者の痛みを一切に意に介さない彼らによって、多くの人々が傷つき苦しめられる場合が多いのは歴史が証明しています。

このように、共感力と言うものは、人間らしさや思いやりの源泉であり、人類社会が野生の世界のように冷徹な弱肉強食の原理のみで動いていないのは、ひとえに人類が持つに至ったこの共感力のお陰であるとも言えます。

この共感力は高等生物が、群れの中での自らの社会的役割を認識し、必要があれば自らの生物的な欲求を我慢してでも、群れの為や他の個体のために奉仕するという極めて高度な知的判断をともなう能力です。

それは、盲目的にひたすら自分の生存のために他者を犠牲にしてでも生き残ろうという原始的な生物的欲求とは出所が違うとも言えます。自分だけでも生き残ろうとする原始的な生物的欲求は、本質的に自己中心的であり、ある意味で人間の持つ自己中心的な指向性の源泉もここにあると言えるものです。 

しかし、共感力と言うものは、一旦は、自分の視点や欲求を離れて、客観的に今何を求められているか、他者が何を感じ何を求めているかを判断し、その為に自からが行動するというものですので、初めからその出所は自分を離れており、従って自分の利害に関わりなく、純粋に群れや他者の安穏な在り方を保持しようという指向性を持っています。

しかも、共感力と言うものはそもそもの源泉が自己中心的な生命活動にあるわけではなく、本質的に自分以外の他者の事を思い行動しようという指向性に由来しているために、本来は群れや群れの他の個体に向けられていたものが、その枠を超えて、あらゆる他者をその対象にするに至るという性質を持っているものと推測されます。

溺れそうになっている人を通りかかったイルカが助けてくれて岸まで誘導してくれたという話をよく聞きますが、これなどはその典型例であると思います。

このように、人間というものは生命活動を源泉とする、自分だけでも生き残ろうとする自己中心的な指向性と、他者の存在を認識しその思いを推測してその為に行動しようとする共感力と言う本質的に利他的な指向性の両方を持っており、両者は本質的に矛盾するため、自らの内にあるそのような相矛盾する正反対の指向性に正面から向き合うと夜鷹のように限りなく苦悩せざるを得なくなると言うことだと思います。

そのような生命活動の所産であり代表ともいえる肉体と言うものに対して、それを超えた本質的に利他的な判断力や思いなどの指向性を古来人々は精神と呼んできたのかもしれません。そして、そのような肉体の欲求と崇高な精神の判断との狭間で苦悩する人間の姿は古来文学・宗教・道徳の大きなテーマとなって来たのかもしれません。

また、人間個人としては自己中心的な行動よりも利他的な行動の方が良しとされ、利己的な動機によって他の人と争い事を起こすような人は非常識で野蛮な人であると思われますが、これが不思議なことに、集団となって、国家という枠組みで考えられるようになると、突然、利己的な動機によって他の国と争い事を起こすのはやむを得ないことであり、自分の国が我慢してでも他の国の利益になることをするなんてとんでもないことで、そんなことは考慮の対象にもならないと思われています。

個人レベルでは自分の事ばかり考えて他者の利益を考えない人などは非常識な自己中人間だと思われるのに、国家レベルになると自己中が当然であり、自分の利益を守るためなら力ずくもじさないのが当たり前とされているのは何とも不思議な話です。ましてや、自分は我慢して他の国にどうぞ!などという譲り合い精神などはもっての外のことになるのであります。

幼稚園の子供でも「どうぞ、しましょうね!?」と言われて「は~い!」とどうぞできるのに、国家レベルでは「どうぞ」なんてもっての他だし、自分が我慢することもちょっとでも損になることも絶対に許さないという超わがままな態度でお互い張り合うのは当たり前になっています。

要するに、人類は個人レベルでは、弱肉強食という生物的な原理を、共感力と言う知的な情動原理によって克服しようとしてきましたが、国家レベルでは未だに極めて自己中心的な弱肉強食の生物的な原理そのままで動いていると言うことだと思います。その状態が続く限り、この世界から戦争は無くならないと思います。

一日も早く、国家レベルでも、自己中心的な弱肉強食の原理ではなく、共感力があらゆる判断の元になる日が来ることを願って止みません。 

 正月休みで久しぶりに親族で集まったりして、普段以上に忙しくブログを書く暇もありませんでしたが、とりあえず、皆様に新年のご挨拶だけはしておこうと思いました。

 僕はリアルの世界ではフェイスブックで実際の友人・知人と繋がっていますが、このアメブロでは逆に全く知らない方々との触れ合いが中心になっています。

 しかし、僕にとっては、このアメブロで知り合った方々との触れ合いの方が本当に、掛け値なしの心のこもった触れ合いになっていると感じています。そういう意味で僕にとっては、このアメブロの方がフェイスブックより遥かに大切に思っています。

 そして、ここで知り合った方々から多くのことを学ばせて頂き、また感動も頂き、自分の生き方の糧にさせて頂いております。

 ということで、ここに謹んで本年もまた宜しくお願い申し上げます。

宮沢賢治の童話の一つに「よだかの星」という童話があります。

よだかは、鷹という名前はついていますが鷹ではなく、その醜い姿ゆえに皆から馬鹿にされ笑われ、親切にした相手からさえも嫌われます。そして、本当の鷹からは、そんな醜い姿で鷹を名乗るな!鷹の名が穢れるとして、明日までに名前を変えて、その変えた名前を皆に知らせないとお前を殺すと宣告されます。

よだかは自分は何も悪いことはしていないし、むしろ親切にしているのに、その相手からも嫌われてしまう。そして、鷹からは無理難題を言われて殺すと脅されている。よだかは途方に暮れて飛び回っていると大きく開けた口の中にカブト虫が飛び込んできます。カブト虫は自分の口の中でバタバタともがき苦しんで悲鳴を上げて死んでいきました。

その時に、よだかは気づきました。自分は何も悪い事はしていないのに毎日皆から酷い目に合わされていると思っていたけど、実は自分もこうやってこれまで沢山の虫たちを殺してきたのだ。自分が生きていくために、毎日多くの虫たちが自分の口の中で悲鳴を上げて死んでいったのだと。

もうこんな酷いことは繰り返したくない。明日から絶食することにしよう。でも、その自分も明日鷹に殺されるかもしれない。皆から嫌われて馬鹿にされているような自分が、自分が生きていくだけで他の多くの虫たちを苦しめてしまう。そして明日には鷹に殺されるかもしれない。自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?

せめて、最後に何かの役に立ちたい。太陽に向かって飛んで行ってそのまま燃え尽きれば一筋の光ぐらいにはなれるかもしれない。よだかは太陽に向かって行きましたが、太陽から君は夜の鳥だから、星に頼みなさいと言われ、東西南北の星座それぞれに頼みますが、君のような身分の低いものが星になれるわけないと無下に断られます。

よだかは夜空に向かって何度も飛びましたが打ちひしがれて地上に落ちてしまいます。そして、ついに最後の力と全身全霊の思いを込めて再度飛び立ちます。そして、そのままどんどん空高く飛んでついには全身が光り輝き最後には夜空の星になることが出来ました。そして、その光は今も輝いているということです。

この物語は、数多くの宮沢賢治の童話の中でも最高傑作の一つだと思います。僕は、この童話は何度読んでも涙が出ます。とても、悲しくて、そして、とても美しいはお話だと思います。

人間も生きていく為には毎日沢山の他の生物を犠牲にしながら自分の命を保っています。菜食にしても本来子孫のために残したはずの稲や麦の種子を横取りしているのには変わりありません。

自然界においても、その姿をじっくりと観察すれば、毎日食うか食われるかの生存競争の繰り返しです。せっかく生まれた子供たちもその多くは他の生き物に食べられてしまいます。というか、初めから食べられるのが当たり前で運よく食べられなかった子供たちが生き残っていくようになっているとさえ言えます。正に弱肉強食の殺伐とした世界であり、皆が仲良く幸せに生きるなどという理想的な世界とは正反対の、残酷さと冷酷非情さに支配された恐ろしい世界であるとさえ言えます。自然界が一見美しく平和で素晴らしい世界に見えるのは、単にディテールが見えない、つまり、そのような冷酷非情な弱肉強食の生存競争の恐ろしい実態が表立って見えないからに過ぎません。

宮沢賢治は、そのような生の本質の恐ろしさ・非情さを物語を通じてこれでもか!という程、読者に迫ってきます。

ただ、そのような弱肉強食の恐ろしい生存競争の世界も、自分が犠牲者にならない限り、ずっと強者でありつづけることができれば、何も恐ろしいことは無いかもしれないし、現に地上最強の強者である我々人類は、毎日沢山の動物を殺し、牛や豚や鳥は当然のごとく殺し、伝統文化であると称して鯨やイルカまで殺し、同じくその国の食文化であるとして犬まで殺して食べる国もあります。

そのようなとてつもなく残酷なことが毎日行われていても、たまたま、自分達が、牛や豚が殺されていく姿や、鯨やイルカが血を流して殺されて行く姿や、犬が皮をはがされて食肉にされていく姿を見なくても済んでいるというだけの理由で、平気でそれらを食して楽しく暮らしているわけであります。宮沢賢治の童話の中に「注文の多い料理店」という作品がありますが、あれは人間が食べられる側に成った時の状況を描いた作品です。

人間は逆の立場にでも置かれない限りは、犠牲になっている動物たちの気持ちなど分からないだろうという厚顔無恥な人類に対する賢治の精一杯の皮肉だったのだと思います。

ただ、人類全員が、自分たちの為に他の動物たちが犠牲になっている事実に対して、何とも思っていない訳ではないことも事実です。お坊さんのご説法にあるように、だから「いただきます」と感謝の気持ちで頂くのです。という人々もいます。ただ、「いただきます」と言ったからといって、決して許されるわけでも正当化されるわけでもないことは言うまでもありません。

よだかの様に、虫たちが自分の口の中で死んでいくのを耐えられなくなり絶食しようと決心して、最後には星になるのは物語では美しい結末ですが、現実にはそうは行きません。

人間には自己中心的な心と他者を思いやる気持ちの両方がありますが、どっちかだけで100%などという人は殆どいないと思います。みんな半分半分ぐらいなのかもしれません。ただ、よだかのように他者に対する思いやりの気持ちが大きければ大きいほど、自分の生存のために、その他者を犠牲にしなければ生きていけないという事実は、耐え難い苦しみであり、真剣に考えれば考えるほど、申し訳なく、とても自分だけの幸せを謳歌する気には成れないと思います。

つまり、人間がそのような根源的苦しみから逃れて、ある程度幸せに生きていくためには、厚顔無恥でいるしかないということかもしれません。自分のために他者が犠牲になっていても、そんなことは気にせずに図々しく知らないふりをしてとぼけて生きていくしかないのかもしれないということです。

あのよだかも、もうちょっと図々しい性格だったら、星にはならずに、鷹のいないところにこっそり逃げてしぶとく生き残ったかもしれません。

しかし、そもそも、自らの生存を否定することにつながるような他者を思いやる気持ちというものは、なぜ人間は持っているのでしょうか?弱肉強食が自然の摂理であるとすれば、人間の持つそのような他者を思いやる気持ちは明らかに、自然の摂理に反するものであり、それを否定するものです。

自然の摂理に従って進化してきたはずの人類がそれを否定するような思いを持つに至ったということは、一体どういうことなのか?これは人類最大の謎であると言っても過言ではない大きなテーマであると思います。

残念ながら、年末のくそ忙しい時にこれを書き始めてしまったので、ここでとりあえず時間切れとなってしまいました。もったいを付けるわけではありませんが、この続きはまた来年ということで、皆さん、とりあえず、良いお年を!

最近、幸か不幸かとんでもなく忙しくてじっくりブログを書いている暇もないので、今日はブリの日だということで、久しブリに小ネタ集で行きたいと思います。にっこりほっこり楽しんで下さい。

 

そういう意味じゃないんだけど・・・

 

ホントかにゃ~?

 

男性はヒゲを剃るのがめんどくさいと言う。女性は化粧をするのがめんどくさいと言う。両方やってるオカマはすごいと思う。

 

家を空けることの多い私は、田舎のおふくろに「FAX送って」と言ったら、2・3日してダンボールに包まれた「本体」が送られてきた。

 

脈アリ確認テスト 1髪を触っても嫌がらない 2下の名前で呼んでも嫌がらない 3俺たち付き合ってみない?と言っても否定しない 4耳元で名前を呼んでも反応がない 5手首に触れてもなにも感じない 全てに当てはまる相手は脈がありません。速やかに蘇生措置を行いましょう。

 

仏壇のじいちゃんに挨拶したか?って出る前におやじに言われて、仏壇に挨拶したらいいのか墓に挨拶したらいいのか…って言ったら、

「仏壇はタブレット、墓はデスクトップ、おじいちゃんはクラウドに保存されている。今からデスクトップをアップデートしに行く」と言われてなんか納得した。

 

母は頭が痛くなると氷で頭を冷やす。昨日の夜中、頭痛のため暗闇の中をフラフラと台所へ行き冷凍庫から用意しておいたビニール袋に入れてある氷を取り出して、おでこにのせて眠った・・・。朝目が覚めると母の枕元には解凍されたイカが転がっていた。

 

先輩「暗証番号やパスワードには彼女の誕生日を使うのがいい」僕「なんでですか?」先輩「3ヶ月ごとに変わって安全だから」

 

 

(いろいろ書いていたらめちゃくちゃ長くなってしまったので、お忙しい人はお時間のある時にどうぞ!その代り、時間をかけて読んでも絶対に後悔しない中身になっていることは保証いたします。どうぞ、お楽しみに!)

昨日久しぶりにテレビでAKB48を見ました。ちょっと前に比べて随分とメンバーが変わってしまって今や知らない人の方が多くなった感じがしました。もうちょっとすると、全部入れ替わっているんだろうなあと思いました。メンバーが全部入れ替わっても変わらずAKB48AKB48であり続けるということは一体AKB48とは何なのだろうか?とふと思ったわけであります。要するにAKB48とは名前だけ、あるいは名前とそれに伴うコンセプト(概念)であり、AKB48という変わらぬ実体を有するものがあるわけではなく、実際の中身はどんどんと入れ替わっていくものであるということであります。

同じようにかつて長嶋茂雄が永遠に不滅であると言った「読売巨人軍」というチームもありますが、長島が居た頃の巨人と今の巨人とでは選手もコーチも監督も全く違います。何一つ同じ同一性を保った人も物も見当たりません。今の巨人に限ってみても、絶えず選手は入れ替わっています。常に同一性を保った「読売巨人軍」などと言うものは存在しない訳です。唯一永遠に不滅かもしれないものは「読売巨人軍」という「名称だけ」かもしれません。というか、そもそも「読売巨人軍」といものは初めから「名称だけ」のものであり、ある特定の野球選手の集まりに「読売巨人軍」という名称を勝手につけただけのものであるというのが正解かもしれません。つまり、永続できるものは「名称」あるいは「概念」だけであり、それは人々の頭の中だけで永続できるのであって、実際の選手たちは絶えず変化しているのであり、不変の同一性もないということであります。

しかも「読売巨人軍」という概念自体は実在するものではなく、人々の頭の中での単なる取決めに過ぎなので、明日から「朝日小人軍」という名称に変更されれば「読売巨人軍」は瞬時に消えてなくなるのであります。

 野球チームが単なる名称だけの仮のものであるのは当たり前の話だけど、実際の一人一人の選手達は実在するだろうと思われるかもしれませんが、理屈は同じだと思います。

巨人にはかつて松井秀喜という選手がいましたが、松井選手の体は60兆個ほどの細胞で構成されており、約1年ほどで全部入れ替わります。「読売巨人軍」が数十人の選手から構成されていて、20年ほどで全部入れ替わるよりも、早いペースで変化しています。では、松井秀喜という人は存在しないのかというと、「読売巨人軍」と同じような意味で存在しているのです。

ただ、松井秀喜という永遠に不変の同一性を持った実体のようなものは存在しないということです。そもそも何が松井秀喜の本質であり実体であるかなど定義できません。10年前は世界に名だたるパワーヒッターだった彼は今はそうではありません。パワーヒッターが松井の本質であるわけではありません。実際の彼は毎日変化しています。従って、変わらない松井秀喜の本性みたいなものは無いのかもしれません。将来、実業家・松井秀喜になるかもしれませんし、落ちぶれてホームレス・松井秀喜になるかもしれません。そもそも、その人に特定の本性があって、それが永遠に変わらないのであれば、良くも悪くもなることは出来なくなります。特定の本性も本質も不変の同一性も無いからこそ、人間はどうにでも変われるのかもしれません。

というようなことを考えていたら近現代のオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインの言語ゲームの話を思い出しました。

言語ゲームとは、すべてのもの一切を心的なものも物的なものもおしなべて言語的存在とみなし、言語を離れたもの、言語以前に実体としてあるものは一切存在しないという考え方です。

 例えば、椅子というものを例に挙げると、椅子を良く見てみると、実際にあるのはスポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものがあるだけです。それらのいくつかの素材が特定の関係性で組み合わせられたたものを我々は便宜上「椅子」と呼んでいるだけであって、椅子というのは我々の頭の中つまり「概念」として存在しているだけです。その証拠に、椅子という「概念」を持ってない人が「椅子」を見た時には、自分で考えて「机」として使うかもしれません。つまり、さまざま素材の組み合わせの関係性は、それにどんな意味づけをしようが、それはその人の勝手であるということです。スポンジと布と鉄とプラスチックを組み合わせたものを「椅子」だと思うか「机」だと思うか、あるいは「乗って遊ぶおもちゃ」だと思うかは、本来各人の自由ですが、社会の大多数の人が共有する「意味づけ」または「概念」を受け入れたほうが、実生活上便利であると言うだけです。しかし、大多数の人が共有する「概念」だからと言って、それを不変の本質とするものが実際に実在するわけではないということです。

 ところが、子供の頃より我々はこれらの大多数の人が共有する「意味づけ」あるいは「概念」を「言語」を通じて頭の中に刷り込んでいきますので、往々にして、それらの概念自体が、それに対応するものの「本質」あるいは「不変の同一性」であると勘違いしてしまいがちです。いわば「固定概念」とも言えるものです。「固定概念」などという日本語はないのかもしれませんが、いわゆる「固定観念」というものが、拭いきれない強烈な思い込みを伴っている病理的な言葉であるのに対して、それほど病的ではないという意味であえてここでは「固定概念」という言葉使うことにします。

 そうして、我々はそれらの無数の「固定概念」によって、がんじがらめになって身動きが取れなくなることもままあります。

 本来「便宜的な仮のものに過ぎない」概念によってがんじがらめになるというのは冷静に考えれば馬鹿げた話です。

上記の例は、「椅子」であったり人間であったり、様々な要素が複雑に組み合わされたものでしたので、それらの組み合わせが概念であるというのは分かるが、もっと基本的な要素自体は実在するのではないかと思われる方もいるかもしれません。

 では、「水」というものを例に挙げて考えてみましょう。実体論の立場の人は、水という性質なり本質を持った何かが実在すると考えます。しかし、今でこそ、常識になっていますが「水」はH2Oという水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせからなる水の分子から構成されているということがわかっています。つまり、「水」という不変の同一性をもった実在があるわけではなく、水素原子2つと酸素原子1つの組み合わせと、摂氏1℃から99℃という環境条件によって現す姿を我々人類は「水」と呼んでいるだけなのです。つまり「水」というものは、水素原子と酸素原子との特定の関係性が、特定の温度環境との関係性によって現した一つの様態に過ぎず、それらの関係性の組み合わせが現した姿以外に「水」という実在があるわけではありません。

その証拠に、温度環境がO℃以下になれば、たちまち個体の氷になりますし、100℃以上になれば気体になって姿も見えなくなってしまいます。つまり、H2Oという水素と酸素の関係性が「水」と我々が名づける様態で居られるのは、ごく限られた条件の元(1℃~99℃)であり、同じ要素でも条件が変われば表す姿は変わるということです。

 このように、この世のすべてのものは要因と条件によって姿を現し、そのような組み合わせが変われば現れ方も変わるということです。

 では、水素原子や酸素原子は実在するだろう思われるかもしれませんが、それらは陽子・中性子・電子など素粒子の組み合わせです。その素粒子もクオークの組み合わせで、クオークも何らかの振動体の相互の関係性によってその性質を現すとされています。しかも、その振動体というものはもはや物ではなく、一種のエネルギーの塊のようなものでそれらの相互の関係性によってさまざま性質が現れると言うのは、正に存在するのは関係性のみであるというものの見方が、現代物理学によって証明されたようなものです。

 以上ずっと抽象的な話が続きましたので、この辺で上記の抽象的な話を我々の実生活に当てはめて考えてみたいと思います。

 ここにAさんという人がいます。Bさんという女性と付き合っています。つまり、AさんはBさんにとっての「彼氏」です。BさんはAさんにとっての「彼女」です。しかし、やがて、関係がこじれて、BさんはAさんと別れることにしました。しかし、Aさんは納得せず、Bさんを執拗に追い掛け回します。かつてBさんにとって、Aさんは「愛すべき彼氏」だったのが今や恐るべき「ストーが-」であり、ほとんど「犯罪者」です。所が、Aさんは実家では年老いた両親を介護しており、ご両親にとってAさんは「最高に親孝行な息子」です。Aさんは会社では「大変優秀な社員」で、上司にとっては「従順な部下」で、部下にとっては「最悪な上司」で、仲のいい同僚にとっては「仲間」であり、仲の悪い同僚にとっては「最大の敵」でした。

 では、どれが本当のAさんなのでしょうか?実はどれも本当のAさんなのです。Aさんと他の人との関係性によって、同じAさんが「犯罪者」になったり、「最高に親孝行な息子」になったり「大変優秀な社員」になったり「従順な部下」になったり「最悪な上司」になったり「仲間」になったり「最大の敵」になったりするのです。

Aさん自体が本来不変の特性を持っているわけではなくて、Aさんと他の人との関係性によってその意味付けが変わってくるということです。

 意味付けを変えたかったら関係性を変えればよいということです。あるいは意味づけを変えることによって関係性が変わることもあるかもしれません。

 Aさんが本質的に「悪人」であるなら、Aさんは誰にとっても「悪人」であるはずで、永遠に「悪人」であるはずです。誰かにとって「最高にすばらしい」人であるはずもありません。しかし、現実には相手によって全く違った姿を示し、意味づけも全く違ったものになるということです。

 このように、物事にも人にも不変の本性なり本質などというもの無く、あくまで自分とその人あるいはその物事との関係性が存在するだけで、その関係性に自分がどのような意味づけをするのかは全くの自分の自由であるということです。

 このようなものの見方をより実生活に役立つようにするには、それを自分の周りの実際の人間関係に当てはめてみるといいかもしれません。

 普通私達の日常生活のおいては、色んな人間関係が有ります。良い人もいれば意地の悪い人もいるし、敵もいれば味方もいる。しかし、本当は、全ての人も出来事もあくまで本来特定の意味は持っていません。「良い人」も「意地の悪い人」も「敵」も「味方」も「悪い出来事」も「いい出来事」も、全て自分との関係性においてそう言う風に見えるだけで、本来はどんな意味付けをしようが全くの自由なはずでした。

 例えば、自分の悪口を言ったりあら捜しをして足をひっぱったりする人がいれば、普通多くの人は、その人に対して「敵」という意味付けをします。そして、一旦、敵という意味付けをしたら、正にその人のやる事はすべてネガティブな敵対行為そのものとしか思えなくなります。そして、その人を憎み、憎んでもどうにもならないしストレスがたまり、自分自身が大いに苦しみます。

 しかし、自分がいくら憎んでも相手は痛くも痒くもありません。だからこそ、余計に憎さが増幅していきます。この様に、本来どんな意味付けをしても自由であるはずの相手に対して、勝手に自分で「敵」だと決めて、その結果として自分自身が多いに苦しむ事に成る訳です。まさに、一人相撲です。

 それよりも、敵という意味付けをする代わりに、「あの人のお陰で、自分の足らないところが気付けるのだ、自分の行動に気をつけられるようになる。考えて見れば、恩人なのだ。」と言う風にポジティブな意味付けをすれば、もうその人が何をしようが、全て自分の為に成る事なので、あら捜しをされればされる程自分は成長できるし、悪口を言われれば言われるほど、自分が他の人にどう思われているか気付けるのでどんどん自分が成長できます。

 このように、相手のどんな行為も、自分のそれに対する意味付け次第でどうにでも受けとれる訳なので、嫌なものがあるのなら初めからそのような意味付けをしなければいい訳です。

 とは言ってもこれはあくまで理屈上の話であって、人間は理屈通りに考えられるものではありません。そういうものの見方で言えばそうなるということであって、実際にすぐ明日から180度違った意味づけができるかというとそうはいかない場合の方が多いのではないかと思います。

 様々な原因と条件によってできあがってしまった人間関係なので、先ずはそれがネガティブな展開の仕方をしてしまった理由を理解することが先決なのかもしれません。その為には、相手との充分な意思の疎通が必要不可欠になるでしょう。その上で、少しずつ相互の相手に対する意味づけの仕方が変化しはじめて、しだいに人間関係も改善していくと言うのが現実的な方法なのかも知れません。

 いずれにしても、人間というものは、本来本質的に善人も悪人も立派な人も駄目な人もいません。皆、いろんな条件と関係性の中で時には善人でいられたり、悪人になってみたり、立派なこともしてみたり、どうしようもなく駄目な人間になったりするということです。

 すべては、一瞬一瞬の選択と判断で変わります。ずっと周りから尊敬されていた人がある日突然電車の中で痴漢をして犯罪者になるかもしれませんし、同じその人が、その経験を機に心底心を入れ替えて再びより立派な人になったりするものです。

 だから、あの人は立派な人だとかあいつは駄目な奴だなんて言葉はせいぜい有効期限は1日ぐらいで、明日はどうなるか誰にも判りません。

これを、ネガティブに考えれば「誰も当てにならない」とも言えますが、ポジティブに考えると「どんな人でもよりよく成れる可能性はある」と言うことでもあります。

ということで、長々と回りくどい話をしてきましたが、要するに言語ゲームというものの見方は「あらゆる固定概念・思い込み・こだわりから自分自身を解放するものの見方」であると言えるもかもしれません。

それが、西洋の哲学が2000年以上かけて到達した最新の結論のようなものなのですが、実は、これとほとんど全く同じことを2000年以上も前から言っていたのが、仏教の「空」の考え方だったのであります。

般若心経などで有名な色即是空の「空」とはそういう意味であり、2世紀ごろの龍樹というインド人仏教僧が上記のウィトゲンシュタインと殆ど同じことを言っていたというのは、驚くべきというか、西洋の哲学は2000年かけてようやく仏教の足元に追いついたと言えるのかもしれません。

 貧すれば鈍するという言葉がありますが、人は貧乏になると、心まで貧しくなり、利口な人でも愚かになるという意味です。
 オーストリアの大統領選挙で、極右政党の人が勝ちそうだということです。
 大方の予想を裏切って、イギリスはEUから離脱し、これまた予想外に、アメリカ大統領選でトランプ氏が勝利しました。
 これは、国粋主義的で人種差別的な政治姿勢が欧米各国で急速に支持され始めているといことです。
 このまま行くと、いずれはフランスもドイツも次々と極右政党が政権を取っていくかもしれません。
 これまでは、現代人の良識として、過去の人種差別や性差別や戦争などの暗い歴史を反省して、人種や性別や国籍のちがいを超えて、同じ人間同士として理解し合い受け入れ合い共存共栄して行こうというのがこれからの人類の歩む道であると多くの人が思ってきたはずでした。
 イギリス人もアメリカ人もヨーロッパの人々もそして我々日本人も皆そう思ってきたはずです。
 所が、ここでも再三申し上げてきましたように、世界中の富の半分が1%の人々の手によって独占され、殆どの先進国の労働者の賃金がコストカットの名目でどんどん下がり続け、日本を含めた多くの国々に貧困が蔓延し始めて以来、生活水準の低下と先行き不安による閉塞感と、現状に対する危機感と不満が先進各国の人々の間で増幅し始めました。
 人間というものは、自分に余裕がある時は、良識のある判断が出来るものですが、自分に余裕がなくなってくると自分の生活を守ることで頭が一杯になり、人のことを思いやったりする余裕はなくなってくるものです。
 そして、現状を変えて行くには本当は何が必要なのかを冷静に判断する余裕もなくなってくるものです。これこそが、正に「貧すれば鈍する」という状態なのだと思います。

しかし、上記の世界中のわずか1%の人々が全世界の富の半分を独占していて、労働者の賃金は彼らの儲けを確保するためにどんどん削減されているという現状も、冷静に考えれば、現代の経済システムによって自動的にそうなっているのであって、そのような現状を変えるには、世界の経済システムをちょっと変えれば済む話なのです。
 具体的には、資本に対する還元上昇率が従業員への給与上昇率を上回ってはならないという国際的な取り決めを行えば良いわけですが、そのような取り決めを行うには、世界中の大多数の国民の支持が必要になります。要は国際世論の支持さえあれば、明日にでも実現出来るはずなのですが、逆に言うと、そのような国際的な世論が盛り上がらない限りは永遠に実現不可能であるともいえる問題なのであります。
 しかし、そのような国際的な取り決めを行おうなどという動きは全く見られず、トランプ氏もイギリスの指導者もオーストリアの大統領候補も、目先に見える表面的な問題ばかりに目を奪われて、それがあたかも諸悪の根源であるかのように大衆を扇動しているにすぎません。
 すべてを移民のせいにして移民排斥をしたり、自国だけの保護貿易主義を強行しようというやり方ですが、本当は経済システムを国際的規模で改変して、何処で誰が仕事をしようが従業員は必ず十分な報酬が得られるようなシステムさえ確立できれば、ことさらに移民を排斥する必要もありませんし、彼らのせいで仕事がなくなることを心配する必要も無くなるのであります。
 所が、残念ながら経済に精通している人は、株主側についた方がお金が儲かるので黙っていますし、それ以外の不満を持っている人々は問題の本質が見えておらず、目の前にいる多数の移民たちのせいにして彼らを排斥しようとし、人気取りの政治家は、彼らのそのような的外れな意見を代弁するのが一番票が集まるのでそれに乗っかっているだけという極めて非建設的な動きにしかなっていないのであります。
 そのような的外れで非建設的で排他的で国粋主義的な動きだけが、先進各国にどんどん広がっている訳であります。
 世界中の経済の専門家が自分達の金儲けの事ばかりを考えているのではなくて、自らの良心に基づいて、世界経済の立て直しのために声をそろえて国際経済労働協定の締結に向けて各国の政権に提言し、国際世論の形成のためにもっと積極的に発言していくべきであると思います。
 そうしない限り、このまま放っておくと、世界各国で「貧すれば鈍する」で冷静な判断が出来なくなった人々が人気取りの政治家を動かして、世界中に感情的で短絡的な政権がどんどん誕生し、それら排他的で利己的な国家同士による利害の対立と争いなどの悪夢のような展開が現実のものになっていくのも、もはや時間の問題だと思われるわけであります。
 人類はもっと冷静で賢かったはずだと後から後悔しても始まらないと思います。

 

 下の動画は地球から約1.1光年離れた惑星からみたら、こう見えるであろうという今日2016年11月14日の月の様子です。

 回りくどい言い方をしましたが、要するにこれは去年の9月28日のスーパームーンの動画です。

 今日は関東地方の夜は雨だという事で、今日のウルトラスーパームーンの動画を撮るのは諦めて代わりに去年のスーパームーンの動画で代用しようということでございます。

 そんなのインチキだろうが!と言われそうですが、鎌倉の大仏は去年の動画であろうが今日の動画であろうが大仏は大仏でございます。開き直りついで申し上げておきますと、通常の満月が鎌倉の大仏から100m離れたところから見ているとすると、スーパームーンは90mぐらいから見た感じで、ウルトラスーパームーンは89mぐらいから見た感じだと思います。

 ということで、大して変わらないわけですが、もっと言えば、そんなのカメラの倍率を変えれば関係ないじゃん!とお思いでしょうが、その通り!でございまして、通常の満月であろうがウルトラスーパームーンであろうがカメラの倍率しだいでどうにでもなる訳でございます。

 もうひとつ、ついでに言っておくと、月は夕方の7時ごろの方が斜めから見ているのでより大きく見える訳でして、今日の本当のウルトラスーパームーンの時間は22:52頃の様ですか、その頃は角度がかなり高いので夕方よりもかなり小さく見えるはずです。

 ということで、場合によっては、普段の満月を夕方見る方がウルトラスーパームーンを22:52に見るよりも倍以上大きく見えるかもしれないということです。

 以上、今日見られない負け惜しみをつらつらと述べてきましたが、要するにウルトラスーパームーンだからと言っても、夕方見ればいつもより若干大きいかなあというぐらいでそんなに大した話ではないということです。(やっぱり、負け惜しみか?)

 で、去年のスーパームーンは天気も良く、夕方の8時ぐらいに撮りましたのでかなり大きく撮れています。倍率も120倍ぐらいなので、これ以上大きくすると画面に入りきらなくなる限界ギリギリの映像でございます。

 その、完全オリジナルの動画に、これまた完全オリジナルの自分で作った曲をつけましたので、著作権は完全に私に帰属しており、従って、無断転載は一切お断りしますなどと、ケチなことは言いませんので、どんどん転載して頂いて結構です。

 去年のスーパムーンの映像なんて要らね~よ!という声が聞こえてきそうですが、月はいつも月ですのであまり細かいことを気にせずにどうぞ皆さんでお楽しみください。

 もう、前に見たという方も、何度も同じものを載せるな!とは仰らずに、特に今日実物を見られない方は代わりにお楽しみいただければと思います。

 ちなみに、動画の中で月が画面の中で動いているのは実際のスピードで、あれぐらいの速さで月は夜空を移動しているという事です。

 

 大方の予想に反してトランプ氏の米大統領選での勝利が確実となりました。

 一番の要因は、世界中に拡がっている富の一極集中と貧富の格差の拡大にあるといえます。

 ここでも再々申し上げておりましたように、世界中の富の半分が世界の人口の1%に満たない富裕層に独占されており、彼らが株主となっているグローバル企業は本国の労働者ではなく、賃金の安い国の労働者を雇い、膨大な利益を上げ、その利益の大半が株主に還元されています。一方、先進国の労働者の賃金は下がるばかりで、雇用機会も減るばかり、結果的にグローバル企業の株主になれる資産を持った者は益々裕福になり、一般の労働者の生活はますます苦しくなるという二極化が世界中の先進国で起こっている訳です。

 それがイギリスのEU離脱と今回のトランプ氏勝利の原動力になっていると言えます。

 そして、グローバル企業は労働コストを削減し、それによって得た収益を株主に還元するという行為を当然のごとく行っており、今のところそのような動きを止められる者は誰もいないという現状です。しかも、それらのグローバル企業や富裕層の多くは拠点を租税回避地におき、どこの国にも税金を払っておらず、貧困にあえぐ労働者だけが高い税金を払わされ続けているという状況です。このような状況に対する不満や鬱憤がアメリカの一般労働者の間に渦巻いており、何としてでもこの状況を変えたいと思っている人が相当数いたという事です。

 所が、一番の問題点は、トランプ氏は問題の本質を正確に把握しておらず、従ってそれに対する対処法も的外れな方法しか提示していないという事です。

 本来なら、先ずは税金逃れをしているグローバル企業と富裕層に対する課税を徹底し、更には資本に対する還元率の上昇率が労働者の賃金の上昇率を上回ることを禁ずる法整備をすること。企業の利益の大半は株主にではなく、従業員に還元されるべきことを法制化する事。そして、これらの事を一国で行うのではなく世界中の政府と強調して、国際法としての法制化することが現状を根本的に改革するには欠かせない訳です。

 しかし、トランプ氏はそのような根本的な解決法ではなく、移民の排斥や一国主義でお茶を濁そうとしているのです。移民を排斥しても一国主義を通そうとしても、国際的な協調と合意がない限りは、どのような政策もすぐに破たんすることは目に見えています。 

 何故ならアメリカ一国でグローバル企業の活動の規制をしても、アメリカ以外の国へと資本が逃げていくだけでアメリカの景気はますます悪くなることは目に見えています。

 また、アメリカだけで高い賃金の労働者を雇う事は、その企業の国際競争力が無くなって破産へと向かうだけです。

 このように、グローバル企業の問題を解決するには、国際労働機関(ILO)が中心となって、国際法を制定して、世界中の企業が株主よりも従業員に対する利益配分を優先することを義務付けて、違反企業は国際的な取引停止処分を受けるなどの厳しい罰則規定をもうけるしかないと思います。

 また、労働賃金が安い国の企業が有利にならないように、国ごとの関税障壁を復活すべきだと思います。

 上記のような国際的な法整備をせずに、アメリカ一国で何をしようがアメリカの経済が破たんするだけで何の解決にも成らないということです。

 トランプ氏の更なる問題は、彼は一国主義の一環として、他国との軍事同盟も少なくとも経費負担の面では見直すとしています。

 一番のターゲットの一つとなっているのは在日米軍の経費の問題です。日本を守ってもらいたかったら、そのお金は日本が負担すべきとしています。彼は、それが嫌なら自分で核武装でもして、自分で自分の国を守れと言っています。

 このような彼の発言は、日本の右寄りの人々を勢いづけることは確実だと思います。彼らは予てより自国の軍隊を持ち、核武装もしたいと夢見てきたわけですから、その大義名分をトランプ氏が与えてくれたわけで、今後は彼らが公然と声高にその主張を展開し、多くの戦争大好き人間達がそれに同調するものと思われます。

 そのような日本の軍事力増強に対して、中国はまずまず対抗心を燃やし、彼らも更なる軍事力増強を行い、それによって両国の軍拡競争は歯止めが利かなくなり、相互の猜疑心と不信感も増大し、最終的に軍事衝突するまで双方とも引っ込みがつかなくなることは目に見えています。

 軍拡を主張する人は、軍拡が抑止力になると誤解していますが、軍拡は抑止力どころか、相手の更なる軍拡を助長するだけで、その相互の軍拡競争はどちらかが破たんするか、あるいは軍事衝突するまで続くということです。それはこれまでの歴史が証明しています。

 ということで、今回のトランプ氏の勝利は、今後、日本にとっても深刻な事態をもたらすことは確実で、日本が今後も平和に発展して行けるか、軍拡競争の愚行に突進して、破滅への道を歩んでいくかの選択を迫られるのは確実だと思います。

 その時に、多くの日本国民が賢い判断をすることを願ってやみません。