太陽活動によるプラスとマイナスがこれからもっと激しくなるのか
X級の太陽フレアが地球に到達したのに、うとうとと眠ってしまった
仏教思想のお勉強をしてみました(仏教におけるブラフマンとアートマン)
【仏教思想のお勉強をしてみました】
仏教における「アートマンとブラフマンは一体である」的、ベーダンタ的思想について。
ただし、シャンカラは8世紀、如来蔵思想は3世紀頃(?)だから、仏教の方が古いのかもしれない。
①真如(tathatā、タタータ)
「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。
(以上、Wikipediaより)
その“常住”、“普遍”、“不変不改”から来たものが、
②如来(tathāgata、タターガタ)
ブッダゴーサによる語義釈の全てではないが、一部として、
1. tathā āgata(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。過去に出現した古仏がみな一切智性に到達した様に、同様に釈迦牟尼仏も一切智性に到達したため。
2. tathā gata(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。
3. tatha-lakkhaṇaṃ āgata(真如相に通じる) - 「真如 (tatha タタ) の特徴を悟った者」。
(以上、Wikipediaより)
③如来蔵(tathagata-garbha、タターガタガルバ)
如来蔵思想とは
如来蔵の原語(サンスクリット)は tathagata-garbha で 如来を胎児として宿すもの という意味である。すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張である。
如来蔵思想は『如来蔵経』に始まり『不増不減経』『勝鬘経』によって継承され、『宝性論』にいたって組織体系化されたとされる。また、大乗の『涅槃経』では如来蔵を仏性ということばで表現し、その「一切衆生悉有仏性」の経文は有名。
これらの思想は、後の密教の成立に大いに寄与し、また中国や日本の仏教に深い影響を与えた。
『法華経』と如来蔵思想
初期大乗仏教の『法華経』でも「若有聞法者 無一不成佛」(方便品第二)とあり、「其中衆生 悉是吾子」(譬喩品第三)とある。『法華経』にはすでに、法華経を聞けば成仏しないということはなく、すべての衆生は仏の子供で、すなわち仏の遺伝子を持っていると説くのである。そこに、如来蔵の萌芽をみなくもないが『法華経』を如来蔵経典ではない。
(以上、広済寺ホームページより)
以上。
つまり、仏教においても、タターガタというアートマン的真我と、タタータというブラフマン的普遍常住の存在が一体であり、さらにタターガタガルバという、魂のような存在、輪廻転生を繰り返し、将来仏陀となるべき仏性のような存在(実体)を認めているのではないかという考察でした。
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ちなみに、梵我一如とは
梵我一如(ぼんがいちにょ、梵: तत्त्वमसि, tat tvam asi、汝は其(そ)れなり)とは、インド哲学(ウパニシャッド哲学)において、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること[1]、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドのヴェーダ(ウパニシャッド)における究極の悟りとされる。
(以上、Wikipediaより)
多くの古ウパニシャッドは紀元前500年以前に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
(以上、Wikipediaより)
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以前、私が「仏教はヴェーダンタ哲学の影響を受けている」と言ったら、「なんだそのヴェーダなんチャラというものは」と言った仏教僧侶がいた。
日本人は、鎌倉仏教が世界仏教の発祥の地で、仏典は漢字で書かれていると勘違いしている人がいるようだ。(笑)
憲法改正は必要ない。改正するなら、「、」を「の」に換える一字だけにするべきだと思う。
ときどき、薬に頼りたくなる
ときどき、薬に頼りたくなる
身体の病いではなく
心の病いのための薬
楽になりたいから
薬を飲めば精神が楽になる
“精神”というほど高尚なものではなくて
ただの思考だ
いや、ただの“神経”だ
脳内にある無数の神経
それが薬を飲むことによって沈静化される
いや、ただ、“麻痺する”といった方がいいかもしれない
そうなると、あれこれ思考して苦しんでいる“私”は楽になる
“私”はマヒして
主体性を失う
コントロールを失う
そもそも
はじめから
コントロールすることなどできなかった
“私”が私をコントロールすることなど…
ただ、自分がやっていたことは
自分自身による自分へのコントロールから自由になろうと
必死の抵抗を試みていた
それは“無為”になること
でも、“無為”になることは怠惰になることでしかなかった
怠惰になり
何もしない
自己否定とは生きながらにして死ぬことだ
生きているのに
どう生きていいのかわからない
だから
苦しくて
いっそうのこと
何も感じることも
何も考えることも
何の実感もなくなる
薬を飲んで
生きていることを忘れたいと
思ってしまう