紫源二の啓示版 -12ページ目

丸い湖水の表面を見た

 

正面が後ろの


イメージの中


竪穴の洞窟の中に


丸い深い沼があって


その表の


湖水の表面を見た


それを思い出した


太陽活動によるプラスとマイナスがこれからもっと激しくなるのか

戦争は人類の精神病だと言った人がいるけど、その精神病を発病させる原因はいろいろとある。

もしかしたら、太陽活動がそれかもしれない。

しかも、マイナスが大きいほど逆にプラスも大きくなる。

太陽が明るくなると、今まで見えなかったものが明るみに出てくる。

イスラエルが何をやっているのか、だんだんと明らかに見えてきた。

アメリカが何によって動かされてきたのか、だんだん見えてきた。

これから、経済も政治も世界的に混乱していく中で、一般市民は、宗教に救いを求めるようになるのだろうか?

でも、既存の宗教はもう、誰も救ってくれないことが明らかになってくるだろう。

洗脳されて、幸せになることはできる。
でもそれは精神の自殺だ。
バカに騙される奴はただの自滅だ。

既存の政治も経済も宗教も何も機能せず、誰も救ってはくれない時代になるだろう。
そうなると“奇跡”を期待するしかないのか?

でも、神の恩寵によって、“奇跡”は起きないだろう。
残念だけど。

X級の太陽フレアが地球に到達したのに、うとうとと眠ってしまった

今日はとてもいい天気でしたが、一日中薄暗い家の中に篭っていました。
代々木公園のタイフェスティバルに誘われたけど、行けませんでした。残念。

X級の太陽フレアが今日地球に到達したようです。
なかなかX級が到達することはないので、できれば外に出てサンゲイジィング(太陽凝視)をしたかったのですが、なぜか外に出られませんでした。

ウクライナ情勢をYouTubeで見ていたら、ウトウトと眠りこけてしまいました。(笑)
気づいたら太陽が沈んでいて、開けていた窓から気持ちのいい風が吹き込んでいました。

どうやら、太陽フレアの影響は何もなかったようですが、世界各地で美しいオーロラが見られたようです。

私もいつかオスロに行って、オーロラを見たいと思います。
オスロじゃなくても、もっと南のモスクワでも見られるかな?

文明がいろいろと衝突している地球ですが、そろそろ宇宙的な出来事によって、新しい地球文明ができてくる時代になってきたのかもしれません。

大きな船が沈む前に、ネズミが動き出すといいます。
でも航海に出た後なら、ネズミも逃げ場所もないでしょう。
地球に暮らす生物だって同じことです。
いくら月に行く時代になったからといって、この地球から逃げ出すことはできません。
そういう意味では、人類は皆、運命共同体です。
そのことを自覚するようなことが、これから起きてくるかもしれません。
太陽の活動からは目が離せません。


仏教思想のお勉強をしてみました(仏教におけるブラフマンとアートマン)

【仏教思想のお勉強をしてみました】


仏教における「アートマンとブラフマンは一体である」的、ベーダンタ的思想について。

ただし、シャンカラは8世紀、如来蔵思想は3世紀頃(?)だから、仏教の方が古いのかもしれない。


①真如(tathatā、タタータ)


「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。

(以上、Wikipediaより)


その常住普遍不変不改から来たものが、


②如来(tathāgata、タターガタ)


ブッダゴーサによる語義釈の全てではないが、一部として、

1. tathā āgata(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。過去に出現した古仏がみな一切智性に到達した様に、同様に釈迦牟尼仏も一切智性に到達したため。

2. tathā gata(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。

3. tatha-lakkhaṇaṃ āgata(真如相に通じる) -  「真如 (tatha タタの特徴を悟った者」。

(以上、Wikipediaより)


③如来蔵(tathagata-garbha、タターガタガルバ)


如来蔵思想とは


 如来蔵の原語(サンスクリット)は tathagata-garbha  如来を胎児として宿すもの という意味である。すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張である。

 如来蔵思想は『如来蔵経』に始まり『不増不減経』『勝鬘経』によって継承され、『宝性論』にいたって組織体系化されたとされる。また、大乗の『涅槃経』では如来蔵を仏性ということばで表現し、その「一切衆生悉有仏性」の経文は有名。

 これらの思想は、後の密教の成立に大いに寄与し、また中国や日本の仏教に深い影響を与えた。


『法華経』と如来蔵思想


 初期大乗仏教の『法華経』でも「若有聞法者 無一不成佛」(方便品第二)とあり、「其中衆生 悉是吾子」(譬喩品第三)とある。『法華経』にはすでに、法華経を聞けば成仏しないということはなく、すべての衆生は仏の子供で、すなわち仏の遺伝子を持っていると説くのである。そこに、如来蔵の萌芽をみなくもないが『法華経』を如来蔵経典ではない。

(以上、広済寺ホームページより)


以上。

つまり、仏教においても、タターガタというアートマン的真我と、タタータというブラフマン的普遍常住の存在が一体であり、さらにタターガタガルバという、魂のような存在、輪廻転生を繰り返し、将来仏陀となるべき仏性のような存在(実体)を認めているのではないかという考察でした。



ちなみに、梵我一如とは


梵我一如(ぼんがいちにょ、梵तत्त्वमसि, tat tvam asi、汝は其()れなり)とは、インド哲学(ウパニシャッド哲学)において、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること[1]、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドのヴェーダ(ウパニシャッド)における究極の悟りとされる。

(以上、Wikipediaより)


多くの古ウパニシャッドは紀元前500年以前に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。

(以上、Wikipediaより)


以前、私が「仏教はヴェーダンタ哲学の影響を受けている」と言ったら、「なんだそのヴェーダなんチャラというものは」と言った仏教僧侶がいた。

日本人は、鎌倉仏教が世界仏教の発祥の地で、仏典は漢字で書かれていると勘違いしている人がいるようだ。(笑)


憲法改正は必要ない。改正するなら、「、」を「の」に換える一字だけにするべきだと思う。

今日見た夢の話し。
(憲法記念日は過ぎてしまったけど…なぜか今日夢を見た。)

要約すると、今、憲法を改正する必要はないということ。

左翼も右翼も、同意するはずだ。
今、憲法を改正せよと言っている左翼がいるとしたらエセ左翼であり、同じく、今、憲法を改正せよと言っている右翼がいたらエセ右翼だと自ら証明していることと同じだと思う。

すなわち、自民党はエセ愛国党ということだ。
もっと言えば売国奴政党。

言論の自由、表現の自由を守ろう!
(左)

国としての独立を守ろう!
(右)

自衛のための軍隊を保持するのは当然のこと。

第 9 条 日本国民は、正義と 秩序を基調とする国際平和 を誠実に希求し、国権の発動 たる戦争と、武力による威嚇 又は武力の行使は、国際紛争 を解決する手段としては、永 久にこれを放棄する。 ② 前項の目的を達するため、 陸海空軍その他の戦力は、こ れを保持しない。

自衛のための軍隊を持つことはできないとは書いてない。

ここが重要。
②の
「前項の目的を達するため、 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」
とは、
「前項の目的を達するための陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」
ということだ。

何が違うか分かりますか?
「前項の目的を達するため、」
「前項の目的を達するための」
という意味であり、

【憲法を改正するとしたら、9条2項の「、」を「の」に変えるだけ。つまり、一文字だけの改正にとどめるべき。】

でも、これは日本語として「、」を「の」の意味だと解釈することは可能。

よって、そのほかの改正を目論むいかなる憲法改正にも反対する。

—-
夢の中で憲法の一文字だけ違ってたことに腹を立てていた。

「ワープロのタイプミスか!? それじゃ済まされないんだよ!! バカヤロウ!」
みたいに。(笑)


ときどき、薬に頼りたくなる

ときどき、薬に頼りたくなる


身体の病いではなく

心の病いのための薬


楽になりたいから


薬を飲めば精神が楽になる

“精神”というほど高尚なものではなくて

ただの思考だ

いや、ただの“神経”だ

脳内にある無数の神経

それが薬を飲むことによって沈静化される

いや、ただ、“麻痺する”といった方がいいかもしれない


そうなると、あれこれ思考して苦しんでいる“私”は楽になる

“私”はマヒして

主体性を失う

コントロールを失う


そもそも

はじめから

コントロールすることなどできなかった

“私”が私をコントロールすることなど…


ただ、自分がやっていたことは

自分自身による自分へのコントロールから自由になろうと

必死の抵抗を試みていた

それは“無為”になること


でも、“無為”になることは怠惰になることでしかなかった


怠惰になり

何もしない


自己否定とは生きながらにして死ぬことだ


生きているのに


どう生きていいのかわからない


だから


苦しくて


いっそうのこと


何も感じることも


何も考えることも


何の実感もなくなる


薬を飲んで


生きていることを忘れたいと


思ってしまう




遠くに聞こえる汽笛の音


遠くに聞こえる汽笛の音

突然胸を締め付ける郷愁

何もやる必要はない

ただ待つこと以外には

でも

いつまで待ってもやって来ないことがある

それは

思い出を再現すること

二度と同じ体験はできない

あのときと同じ体験は

それなのに

なぜ

思い出すのか

思い出してしまうのか?

あのときに戻りたいから?

それとも

今が不安だから?

何もない今

空虚な今

郷愁だけが胸を満たす

無尽蔵の

記憶

あのとき

たった一人で孤独だった

でも

私を愛してくれる人がいた

でも

今はいない


プレアディアンは地球のことをこんなによく理解しているのかと、驚いた件

プレアディアンのメッセージを読んで確かにそうだと身につまされました。

地球の男性は妻や子を養うために自分を犠牲にして働くことを当たり前だと思っています。
また、社会に貢献するために、会社で働くことに意義を見出してきました。

ところが、最近では事情が違ってきました。女性は自立し、子育ては社会的責任だという時代になってきています。
一方で、社会は、世界的に一部の超富豪のエリートによって支配されており、腐り切っているという絶望感があります。

そんな中で、男性は、かつてのようには24時間、この社会で、女や子供のために労働する意義が見出せなくなっています。

地球の社会全体は、破滅の方向に向かっているのかもしれません。
そして地球上のどんな国にも、大きな社会にも、もはや属する意義を、男性は見出せなくなっています。

だから、今流行っているのは、社会からドロップアウトすることです。
(私が十代のときに既に試みたことです。)

でも、私は自分で実践してわかったのですが、私はたった一人では生きていけませんでした。

文字通り「一人で生きる」ということは、無人島で狩猟採集して、裸一貫からすべてのものを自分で自然のものから作って生きるということです。
何か出来合いの製品をお金で買ったりしたら、そのときはもう“一人で生きた”ことにはなりません。

たとえば今流行りの、田舎に引っ越して、小さな共同体をつくって、大きな社会からは自立して生きるとします。
でも、“大きな社会”から何かを買ったりしたら、厳密な意味では実質的には大きな社会に依然として所属していることになります。

でも、そこまで厳密なことは抜きにして、今流行り始めたことは、既存の社会から離れて山里に引っ越して、気の合う仲間たちと一緒に小さな共同体(コミューン)を作って、そこで自給自足し、子供を育てることでしょう。

(私は十代から20代前半でそのようなコミューンの実験場(?)を体験しました。)
(多くの人に、「逃避している」と言われましたが、私にとってみたら、「理想の探求」であり、“逃避”ではありませんでした。)

今は逆に、この“滅びゆく社会”に所属してアクセク働くことに意義を見出せなくなっている男性がたくさんいるような気がします。

そのような男性は、思い切って都会から抜け出して、愛する女性と山里に引っ越して、自給自足して子育てすることは、とてもいいことだと私は思います。

でも私は既に20代前半で、さんざん実験して、ドロップアウトから逆にこの社会にドロップインしました。
そして、この大きな社会の中で愛する女性と出来合い、戸籍をつくって、子供を育てました。

だから、この社会がどんなに腐っていても、これからこの社会が崩壊しようとも、ここから逃げようとは思いません。

この社会で子供を育てて、やっと子供が自立したので、他の地球の男性と同じように、自分がこの社会に所属して労働することが、地球にとって意味あることだとはもはや考えられなくなっていますが、この社会から離れて理想郷を作ろうとは思いません。

運命共同体。

小さな共同体を運命共同体と考えるか、それともこの腐り滅びゆく社会全体を運命共同体と考えるか、自分の意識をどこにフォーカスするかの問題です。

この社会が腐って滅びるなら、自分の責任でもあります。
だから私は山里にはたぶん引っ越したりしないでしょう。
大地震が起きようと、たぶん東京にいるでしょう。

記憶喪失と宇宙方程式と理趣教

前にも書きましたが、私が事務所で働いていたときに、記憶喪失の人を担当させていただいたことがあります。
ある日、花火大会の夜に、急に記憶をすべて無くしてしまった。つまり自分が何故今ここにいるのか、まったく判らなくなってしまった。名前も住所も生年月日も生まれ故郷も過去に何をしてきたのかも。父も母も。兄弟も。独身なのか結婚しているのか、子供がいるのかいないのかも。そしてお金もなにもなく、どこでどう生きていけばいいのかもまったく分からない。
ところが、その人が言うには、何故かたった2つのことだけは覚えていると言うのです。
その2つは、理趣経とアインシュタインの宇宙方程式だと言うのです。
事務所の他の人は半信半疑でしたが、私はとても興味深く思いました。
私は彼は嘘を言っているようには思えませんでした。
彼に宇宙方程式を書いてもらって、あとから調べてみたら、正解でした。そして、宇宙方程式に関わるトピックを調べて後から彼に質問してみました。すると、その謎については私はわかる。わかるけど言葉では説明できない。説明できないけど、私には謎ではないと言いました。
だとしたら、彼は天才なのですが、私は事務的なことよりも、そのような話を彼としていました。
こざっぱりした、痩せて小柄な、とてもシンプルな感じの人でした。
理趣経だけは全部暗記していて記憶に残っているから、僧侶だったのかもしれないと本人は言いましたが、記憶はすべてなくなっていたのです。

私は最近になって、もしかしたら、理趣経も宇宙方程式も、彼の個人的記憶ではないのではないかと思いつきました。
彼が記憶をすべて無くしてしまったことは確かでしょう。ところがそれと引き換えに(?)、宇宙的というか、ユングの集合無意識というか、シュタイナーのアカシックレコードというか、そのようなものにアクセスしたのではないかと思います。

彼の受け答えはとてもシンプルで的確で、何か、とてつもない可能性を感じました。
でも、ある就労型のグループホームに入り、彼は身体がそれほど頑丈そうにも見えませんでしたが、日雇いなどの労働を真面目にするようになりました。
その後も何度か面接しましたが、朝から晩まで働いて、身体的にはきついと言っていました。
私としては、彼には特別な能力があると感じたので、日雇い労働で時間が潰れるのは勿体ないような気がして、書道をやってみてください、とお願いしたりしました。筆で字を書いてこんど見せてください、とお願いしましたが、そんなことをしている暇などなかったようです。もったいない、残念なことです。私は何故か、彼が筆で字を書いたら、すごい字を書くだろうと直感したのでした。

それはともかく、たとえば、個人の“記憶”というものを維持するのに、かなり膨大なエネルギーを費やしているとすると(脳が)、それを維持する必要がなくなったとき、もっと他の膨大な記憶にアクセスする回路が開通したりするのかもしれません。

人間には、自分でも気づかない、膨大な可能性というか能力があるのかもしれません。

でも、普通の人は、そういう話を信じません。
私も同僚から、「彼の話をまともに信じてるの? そういうきみも変わってるよね」と言われましたが、私には彼が嘘をついているようには思えませんでした。

3/17(日)の夢(ホテルの中にあるオフィスと独裁者に賞を授与する日本人の実力者)

今日はだらけてよく眠った。
夢でいろいろ懐かしいところに行った。
うろ覚えだが、現実と非現実が混ざり合っている。

昔プログラマーをやっていた頃のオフィスが大きなホテルの中にある。
ホテルの一室を常時借り切ってオフィスにしている。
広いフロアの一角に、会員制のサロンがある。
そのサロンで私の結婚式の二次会をやったことがあり、オーナーの女性を知っている。
でも私がプログラマーを辞めてから、そのサロンの中に入ったことはなかった。
プログラマーをやめてから、そのホテルにも行かなくなったからだ。
でもなぜか、私はそのホテルに行って、昔のプログラマーのオフィスに入っていく。
昔の仕事仲間がすっかり歳をとって偉い上司になっている。
ついでに、サロンの扉を開けて入ろうとしたが、躊躇した。
もうこのサロンの会員ではないから歓迎されないだろう。

それから場面が変わって、中南米のどこかの国の独裁者が日本にくる。
ひどい暴力的な独裁者だから、日本人で歓迎する人は誰もいない。
ところが、その独裁者に賞を授与するという日本人の実力者がいて、その授与式になぜか私も招かれる。

とても広い競技場の広場で、その受賞式が開催された。
大きな何十メートルもの高さのある彫刻の立像が聳え立っている。
なぜか覆面をしてフードを被った一行が並んでいる中で、独裁者が入場してくる。
こんないかがわしい演出をしない方がいいのではないかと、私は思っている。
日本人の民間の有力者はその独裁者を讃えて賞を授与する。そして、賞と一緒に多額の賞金を渡す。

私はなぜかその受賞式を一番近くの席で見ている。
私のような凡人が、何故こんな式典に招かれたのか疑問に思っている。

式典のあと、式典を主催した日本の実力者で大富豪のオジサンが真っ先に私のところに来て、親しげに話しかけてくる。

「私は未だに生まれてこのかた、どんな賞ももらったことがない。もちろん大金の賞金なども貰ったことがない。今まですべて自分で努力して金を稼いできた。誰かから金をもらったことなど一度もない。今回はあの独裁者に賞と多額の大金を授与したが、俺のほうが貰いたいくらいだよ。まったく!」

なんでこんな愚痴を私に言うのか、私には分からない。きっと私とこの実力者はかなり親しいのだろう。
でも私にはこの人が誰なのかわからない。