今回は、「コリントの信徒への手紙一5章」の内容について考察したいと思います。
但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。
もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。
ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。
どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。
もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。
どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。
神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。
前回、このブログで「コリントの信徒への手紙一5章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。
「コリントの信徒への手紙一5章」では、「不道徳な人々との交際」というテーマで書かれています。
ここでパウロは、「パン種」の譬え話を用いて「みだらな行い」について語ります。
(5章1〜8節)・・・
1現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
2それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。
むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
3わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
4つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。
それは主の日に彼の霊が救われるためです。
6あなたがたが誇っているのは、よくない。
わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。
現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。
キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
・・・・・・・・・・
まずパウロは、コリントの信徒の中に「みだらな行い」をする者がいることを指摘します。
それは、「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」というものです。
「父の妻をわがものとしている」とは、自分の母親と性的関係を持っていることを意味します。
自分を産んだ母親か、父の後妻として来た継母かに関わらず、親子間で性的関係を持つとは、何と悍ましく、何と常軌に逸した行いでしょう。
そのような「みだらな行い」はサタンが好むものであり、神様が最も嫌うことであることは言うまでもありません。
なのにコリントの信徒たちは、その罪を放置したまま何の裁きも下さないで、むしろ自分たちの信仰が正しいと誇らしげに振る舞い、驕り高ぶっていたのです。
しかしパウロは、「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべき」であり、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡すべきだと、きっぱりと切り捨てます。
そして、「パン種」の話を持ち出して、下記のように諭すのです。
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。
現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。
キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(5章7〜8節)
ここで言う「パン種」は、霊肉魂を汚す原因となるものであり、サタンが好む「みだらな行い」や「悪意と邪悪」を指します。
RAPTさんの「御言葉」の表現を借りれば、非真理という言葉に置き換えても良いと思います。
私たち信仰者は、自らの霊肉魂を非真理の入っていない、純粋無垢な真理で充満させることが求められるのです。
もし仮に、兄弟姉妹の中に非真理に侵されまま、いつまでも教会内に留まろうとする者がいるのであれば、即刻その者を裁く必要があるのです。
(5章9〜13節)・・・
9わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、10その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。
もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
11わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
12外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。
内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
13外部の人々は神がお裁きになります。
「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
・・・・・・・・・・・
ここでパウロは、「人々を裁くこと」について「外部の人々」と「内部の人々」に分けて説明しています。
「外部の人々」を裁くのは神様の管轄であって人の預かる所ではないが、「内部の人々」なら、むしろ教会内にいる人間で裁くべきだと述べているのです。
私は、以前このブログの中で、「人が人を裁くことは罪である」と書きました。
(ここより転載)・・・
人が人を裁く時の心理は、自分が正しく、相手が間違っているという認識が元になっています。
しかし、神様の視点からすれば、その認識は傲慢極まりない態度であり、驕り高ぶった罪人として映るのです。
アダムとエバが、善悪を知る木の実を食べたことが原罪とされたように、神様を愛することから離れ、神様を差し置いて、人間の都合の良い価値基準に基づいた善悪の認識は罪であることを、今一度思い起こす必要があるのです。
だから、自分が正しいと思っていることでも、神様の視点から見れば、ひょっとしたら間違っているかもしれないという謙虚さが必要になってくるのです。
その善悪の判定が、人の私利私欲を満たすことを前提にしたものか、神様の望まれることを前提にしたのかによって罪か罪でないかが分かれます。
もし仮に、神様が望まれる判定を知ることができるのであれば、人は、その神託に従って行動すれば義とされます。
しかし逆に、神様の御心を尋ねようともせず、神様のことを一切無視して、人の私利私欲を満たすことだけを判定基準にして行動すれば、それは罪となるのです。
何故なら、善悪の判定を下せるのは創造主である神様しか権限がないのであり、霊的に未熟な人間が立ち入るところではないのです。
神様の目から見て完全でない人間が、勝手に自分たちの都合の良い基準で人を裁くなんて、越権行為も甚しいのです。
だからパウロが言うように、私たち信仰者は「神様に忠実である」ことを忘れてはならないのです。
人が人を裁くことを慎まなければならないのです。
「聖書」に書かれていることから逸脱し、霊的レベルの幼い人間が、神様を出し抜いて高慢に振る舞うことは避けなければならないのです。
・・・(転載ここまで)
基本、人は人を裁くことを慎まなければならなりません。
しかし、上記アンダーラインの所で示したように、神様が望まれる判定を知ることができるのであれば、人は、その神託に従って行動すれば義とされます。
つまり、神様が何を望んでおられ何を嫌悪されているか、神様の心情を理解でき、かつ自身も全身全霊で御心に従うことのできる程の霊的成長を遂げた者であれば、場合によっては人を裁くことも許諾されるのです。
特に、教会「内部の人々」に対しては、パウロが(5章9〜13節)で述べているように、教会内にいる人間が裁くことは認められているのです。
何故なら、教会内の信徒は神様に通じている者であり、教会内は神様の御心を理解し、霊的成長を遂げた者、あるいは霊的成長を遂げようともがいている者の集まりでなければならないからです。
もし仮に、教会内に不道徳な者が潜んでいることを発見したのであれば、即刻、その者に裁きを下し、悔い改めるか教会から脱退するか、いずれかの選択を迫る必要があるのです。
もし仮に、「内部の人々」の罪を黙認し放置したままにすれば、教会全体も同じ罪を背負うことになってしまうのです。
なので、「内部の人々」の罪を黙認し放置したままにすることは、教会として絶対に避けなければならないのです。
非真理となる「パン種」をきれいに取り除き、常に教会内は「純粋で真実のパン」で満たされるべきなのです。
そして、このことはパウロが生きた時代に限ったことではありません。
今の時代に生きる私たち信仰者一人一人にとっても、心しておかなければならないのです。
RAPTさんの「御言葉」を信じていると公言しているのであれば、自分自身、それに相応しい実力を身につけ、非真理となる「パン種」をきれいに取り除く必要があるのです。
私自身の間違った言動によって、RAPTさんの「御言葉」に「パン種」を混ぜ込んで、汚すようなことが絶対にあってはならないのです。
そのためには、これまで以上に「御言葉」をしっかりと学び、神様と疎通し、私の中を真理で充満するよう実践していくしかないのです。
そして、「外部の人々」の罪については、いずれ神様の裁きが下される時が来るでしょう。
特に、大バビロンである中国共産党が滅び去った今、全世界で霊的な刈り入れが始まっています。
麦と毒麦が刈り取られ、選別される時が来たのです。
悪人は裁かれて衰退の一途を辿り、義人はこれからますます祝福に満たされ、力と恵みに満たされる時代が到来したのです。
先ずは既に御言葉を聞いている私たちの中から霊的な刈り入れが始まると、RAPTさんは「御言葉」の中で宣告されています。
しかし、ここで注意しなければならないことは、神様を受け入れ「御言葉」を信じているからといって、必ずしも義人と認められたわけではありません。
4本の信仰の柱をしっかりと立て、神様が喜んでくださることを実践できているかどうかが問われてきます。
そして、24時間常に神様を意識して、霊肉魂を常に清らかに保てるかどうかが運命の分かれ道となるのです。
サタンがいつ何時、隙を狙って毒麦を撒きに来るかわからないからです。
私たち信仰者も、毒麦として選別されることのないように、「純粋で真実のパン」を作ることのできる本物の麦へと成長していかなければならないのです。
ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介させていただきます。
この「御言葉」の冒頭部分だけを転載させていただきます。
(ここから転載)**********
今年の9月4日で、朝の祈り会を初めて7年目に入りました。
そして、7年目という聖なる年を迎えた今、神様が以前から予定されてきた全体のZoomの集まりを行い、そこから何人もの十二弟子候補を選び出しました。
そして、その十二弟子候補とともに朝の祈り会を何日も守りつづけた結果、今、ちょうど12人の人が私のもとに残り、朝の祈り会を一緒に守りつづけています。
神様は2023年までに12弟子を選び出すとかねてから予言されてきましたが、まさにその予言通りに実現してくださったわけです。
もっとも、その12人が今後、使徒として活躍できるかどうかは1人1人の責任にかかっていますし、場合によっては他の人に交替となる人も出てくるでしょう。
いずれにせよ、Zoomの集まりを通して毒麦と麦とが次々と区別され、工作員は炙り出され、義人たちは使命者として立てられて、千年王国の歴史を成していく準備がしっかりと整いました。
神様は今後も、12弟子のみならず、それ以外の使命者も次々と立てて、千年王国の歴史を壮大に成されていくでしょう。
**********(転載ここまで)
この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。
聖なる神様。
ありがとうございます。
聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、非真理となる「パン種」をきれいに取り除き、常に教会内は「純粋で真実のパン」で満たされるべきであることを悟りました。
RAPTさんの「御言葉」を信じていると公言しているのであれば、自分自身、それに相応しい実力を身につけ、非真理となる「パン種」をきれいに取り除く必要があるのです。
私自身の間違った言動によって、RAPTさんの「御言葉」に「パン種」を混ぜ込んで、汚すようなことが絶対にあってはならないのです。
どうか神様、これまで以上に「御言葉」をしっかりと学び、神様と疎通し、私の中を真理で充満させてください。
4本の信仰の柱をしっかりと立て、神様が喜んでくださることを実践することで神様に受け入れられ、真の義人となれるように導いてください。
そして、私たち信仰者も毒麦として選別されることのないように、「純粋で真実のパン」を作ることのできる本物の麦へと成長していきますことを心から祈ります。
この世が、無神論の世界から神様を信じる世界へと変わっていくことを心から願います。
神様を信じることが当たり前の世界に変わっていくことを心から願います。
私たち一人一人が常日頃から神様を呼んで、神様が常に共にしてくださる幸福な人生を生きることができますことを心から願います。
多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。
中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。
全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。
RAPTさんの「御言葉」に出会った多くの人たちが、よこしまな心を取り除いて、一筋の心で神様を愛し、無限に真理を吸収して、サタンに完全に勝利し、この世の多くの人々を救う大使徒へと成長していきますことを心から祈ります。
RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。
そして一刻も早く、私たち一人一人の祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。
これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。
アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
皆様に祝福がありますように。
(2024.1.6)