「過酷な環境」というものがある。

例えば、部活動。

顧問からのしごき。
先輩のパシリ。
長時間に及ぶ練習。

などなど。

例えば、職場。

残業に次ぐ残業。
上司からのいじめ。
過重なノルマ。

などなど。

こういう環境はつらく苦しくひどく消耗する。程度にはいろいろあるだろうが、俺自身は、部活の例は当てはまらないが、職場の例は一部当てはまる。

さて、これらにがっつり当てはまる人の中に、こんなことを言いだす人がいる。

「あの時が一番つらかった。あの時期を乗り越えたから、他の場所でも耐えられるようになった」

「人生で最も過酷な経験をしたから、どんな経験でもへこたれないよう成長した」

一聴すると、「なるほどー」と思ってしまうし、実際こういう発言を、耳にしたことがある人は多いだろうし、言ったことがある人、思っている人も結構いるんじゃないだろうか?

しかし、ちょっと待ってほしい。

実はこれ、少し変だ。

成長とは何か?それは、

出来なかったことが出来るようになることだ。

これを踏まえて、先の言い分を見てみると、その要素は見当たらない。

なぜと言って、まず、「最もつらかった時期・環境」から移ったのならそこは必ず「最もつらくはない時期・環境」のはずだ。

そして、何より大事なのは、「最もつらい時期・環境」をその人は”ぶっつけ本番”で乗り越えているということだ。

そうではないか?

新しい環境に飛び込むとき、その環境について正確な知識がないことはよくある。身につけたつもりでも、”理想と現実”の壁にぶつかることもよくある。

練習なしで、過酷な環境に飛び込み、それを乗り越えている。

それができた人間が、それより楽な環境を耐え抜けるのは当たり前だ。

何も成長などしていない。

いや、しているのかもしれないが、この件では判断できない。

「最も過酷な環境に耐えたから、それより楽な環境で平気」

そういう感覚は、「重たい荷物を持った後、軽い荷物を持つと、普段より軽く感じる」というよくある話であり、単なる錯覚だ。

しかし、この錯覚が蔓延しているせいか、ブラック企業(最近ではブラック部活なる言葉も聞く)の過酷さを「人間的に成長できる良い環境」と勘違いしてしまっている人がいる。

個人的には、こういうところがブラック企業がなくならない一つの要因になっている気がする。

過重労働で疲労困憊になっている従業員を見て

「素晴らしい!これこそ人間が成長する姿だ!美しい…!」

とか、あるいはその従業員自身、

「ああ、つらい…でもこれを乗り越えるときっと素晴らしい人間になれるはず…!輝く自分を想像するだけで頑張れる…!」

と思って悦に入っているんではないだろうか?

「高校鉄拳伝タフ」という漫画で印象的なシーンがあった。

あるプロレスラーが、自分の師匠に、入門時に竹刀でさんざん、それはもう、頭頂部から流血し、竹刀が折れるほど殴られたことを語り、その師匠にこんな言葉を言われたことを誇らしげに語る。「地獄を見せる愛もある」

これに対して、主人公の父親が、

「あなたは同じ痛みを味わえますか?」

こう問いかける。そのプロレスラーは何も答えられず、主人公の父親は続ける「人間はそれほど強くないんです」と。

まさに、これが象徴的だな、と個人的に思う。

それによって成長できたと語るなら、当然同じ痛みに耐えられて当然だし、それ以上の痛みに耐えられて当然だ。

それが出来ぬというのなら、それは単なる勘違いだ。

ちっとも成長してなんかいない。

思うにそう考えてしまうのは、

「あんなに苦労したんだから、成長してないなんて思いたくない」

という想いがあるんだろう。

気持ちはわからないではないが、しかし、そこをこらえて、過酷な環境は人間を成長させないということを真正面から見据えて、環境の改善に努めねば、「成長した」と思い込んでいるだけの実は疲弊しきった人間を生み出すだけではないだろうか?

そして、そんな人間が量産された社会が明るいものになるだろうか?

「しごき」「ブラック企業」そういう環境に身を置き、そして上に挙げたような理由で「自分は成長できた」と思っている人は、「成長とは、できなかったことができるようになること」という基本に立ち返り、自分を振り返ってみてはいかがだろうか?

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