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ほぼうさのブログ

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです。

わが国日本でロックの歴史は…という話になると、すべてはビートルズから始まったという説明がくることが多い。それで誰も文句を言わないし、説明する側はとてもラクチンなのだが、実際のところそこまで簡単ではなかったようだ。

ビートルズがデビューする前夜、ジョンレノンがリバプールやドイツのハンブルグでプレイしていた頃は、革ジャンを着て不良ヤンキーさながらの格好で気合の入った演奏をしていたらしい。それが「ラブミードゥ」の頃になると全員スーツを着てキマった感じで演奏したのだから、バンド仲間の間では「あいつらはもう変わっちまった。なにせあんな大衆に媚びた格好でお子様向けの軽い音楽なんてやりだしたもんだ。おわっちまったよ。」なんてことを言われていたそうだ。

このエピソードは、ビートルズ以前のイギリスでは気合の入った革ジャンロックの萌芽となるようなシーンが存在していたことを示している。そして、リバプールとは無関係かつ同時進行的に、ロンドンではローリングストーンズが生まれたのだから、ロックのすべてがビートルズから始まったという説は乱暴きわまりない話だろう。
さしずめ、ビートルズで青春を過ごした団塊系のオッサンたちの人生がビートルズによってハジマっただけであったのが、いつのまにか思い出の中でロックの歴史がはじまったことになってしまったんじゃないかと想像している。歴史とはいつの時代も、こうして歪曲され、都合のいいように解釈されるものなのかと疑ってしまう。

フュージョンの誕生もそうである。すべてをマイルスのビッチェズブリューに求めるのは正直無理があるのだが、これもいつの間にか定説化してしまっているのは大問題だ。という話をしだすと大変長くなるので、また別の機会に…
思えば3年くらい前にヴィニーカリウタ氏がグレッチをやめてラディックに移籍したのはとても衝撃的だった。グレッチにおけるヴィニーカリウタのシグネイチャースネア(あの白いの)は本当に音が良くて、完成度も高くて、いつかおれが金持ちになったら買ってそばに置いておいてやろう、と思うくらいのものだった。実際、おれは金持ちになっていないのであとはお察し…であるが、ともかくヴィニーの移籍に伴って、あのシグネイチャーは生産終了となり、ラディックから新しいやつが出るのだろうと思われていた。
しかし、つい最近ヴィニーのウェブサイトに行くとなんと「Coming Home to Gretsch」というポップアップが表示されたのだった。これは驚きだ。ようは出戻りだ。ヴィニーカリウタは一時期ほんの気の迷いでラディックに移籍したが、やっぱりグレッチサウンドが忘れられず戻ってきたということになる。
思い起こせば、自分も最初はラディックのスネアを買っていた。でも出音が全然しっくりこなくて、フープをダイカストにしたりと投資を重ねたがやっぱり気にくわなかった。その後Pearlさんのカスタムクラシックレジェンドと出会い、これは素晴らしい!と思いたってラディックを売り払い購入した。そしてそのあと、120kくらいするグレッチのUSAカスタムに出会った。
グレッチの音は異次元、だと思った。叩くたびシェルが激しく鳴る。フープの金属音も殺気立ってて最高だ。おれはプロのドラマーになるんだからこれくらいの楽器は買っておかないといけない。うむ。そう思って買ったはいいが、シェルが振動しすぎてフープのネジがすぐゆるんでポロっと落ちる、ライブの最中にチューニングが激しくずれる、などの被害に見舞われ、泣く泣くPearlを主力選手にするようになった。今となってはいい思い出である。なにしろドラムを叩いていた頃すら懐かしいのだから。
つまるところ、ラディックの出せる音っていうのはビートルズ時代のラウドな、いい意味で粗削りなサウンドであって、グレッチのような殺気立った完成度の音は出せない。そこで結局、ヴィニーは戻ってきたのではないかと推測している。
高校のとき、社会の先生が「近代のはじまり」ということで、デカルトの「我思うゆえ我あり」とパスカルの「人間は考える葦である」を黒板に書いたことは覚えている。その板書をノートに取ったこともきちんと覚えている。しかし、それが一体どういう意味だったのか。あまり記憶にない。

パスカルのお話はわりとわかりやすくて、寒空の下そとに放り出された人間はあまりにか弱くてすぐに死んでしまうが、人間は考えるということができる。考えるってすばらしい!人間ってすばらしい、みたいなニュアンスだろうか。

黒板にパスカルとデカルトが並んでいると、なんだか「我思うゆえ我あり」が同じような意味に見えてくる。人間の存在価値とは、考えることです!ネコは考えてません。ウサギも何も考えずにニンジン食ってフンをポロってこぼします。だからあいつらはいつまでたっても人間になれないのだ。おれたちは考えるという思推能力によって初めて、人として生きる意味と価値を手にしたのだ!…と、こんなニュアンスになってくる。

ところが、デカルトの意味するところは全く違っていたはずだ、ということを最近思い直した。近代の思考において重要な役割を果たすのが、「ほんとうは自分の中に存在する」という考え方であり、デカルトはそれを言っているのだ。つまり、目の前にうつるこのパソコン画面でさえも、じつは本当に存在しないかもしれない。でも、この、考えている自分というのは確かに存在していて、ゆるがないものだよね、ということである。

これは結構あたりまえのようで深いことを言っていて、我々はともすれば真実を外に求めがちである。上原ひろみさんのピアノはすごく上手い、あれこそ本当のピアノだ。カレー好きなのに下北のカレー食べたことないだって?やっぱりホンモノの味を食べとかないとダメだよ。こないだの婚活パーチーはハズレだった、いつか王子様が…。
そう、人間というのは誰しも、外側の世界のことばかりに本当や本物、真実や最終到達地点があると思ってしまうものだ。しかし、実はそういった外側の世界じゃなく、自分の内面、内なる心と対話するべきなのである。外側の世界の評価とは、だれか権力ある他人が決めたうそっぱちの序列なのかもしれない。マスコミが作り上げた偽りの、幸せのあり方なのかもしれない。だからそれよりも、確かに存在する「考える自分」にとって、本当のものとは何だろう…真実とはなんだろう…こうやって一般的な世俗価値観からいちど離れ、自分なりの正しさを見つけていく姿勢こそが近代のはじまりなのである。
歳をとったら都会を離れ、自給自足の豊かな生活を送ろう…ということは一度も考えたことがない。それは自分がそこそこ田舎の荒れ果てたヤンキー村を出たことと、宇都宮の最果ての地である清原工業団地というこれまたカビくさい村社会に住んでいたことと無関係ではないが、とにかくナンセンスだと思うからだ。

自給自足とは、つまるところ豊かさを捨て、現実と向き合うことである。もし自分がネコに生まれたとしたら、ネコがすることはせいぜい[寝る 食べる 食べられるのを避ける トイレする ネコづきあいをする 異性のネコをおっかけまわす 子ネコを育てる]くらいしかすることがない。しかしひとたび人の子として生まれると、それはそれは大変で、寝る、料理する、食べる、洗濯をして、掃除をして、服を着て、お風呂を入れて、お風呂に入って…と挙げるときりがない。それなのに、マンガを読んだりテレビを見てふぅ、としたり風呂上りにボーっとしたりできるのは、より面倒なことを他の人がやってくれていて、そのありがたさに甘えているからだ。

スーパーマーケットにならぶ多種多様で新鮮な食材。あれを自分でそろえようと思ったら何日かかってもそろえることは不可能だろう。すなわち、日々生きるための食料を得るだけでも、土地を耕し、水をひいて、作物を育て、嵐の日は作物を守り、ニワトリをとってきて、ニワトリを食べやすいようにさばいて、ブタにえさをやって…という果てしない作業が待っている。自給自足とは、こうして数限りない時間を現実と向き合うことなのだ。この超多忙なスケジュールのどこに、自然の中で「ふう、豊かな暮らしだぜ…」と思える時間があるだろうか?

真に豊かな暮らしとは、誰かが必要とするモノ、サービスを提供するかわりに、上にあげたような面倒ごとを少しずつ、そう少しずつ肩代わりしてもらって、食後にデザートを食べながらふぅ、と一服する生活を言う。

自然界に生きるネコは寿命が3年ともたない。しかし飼い猫はおのれのかわいさを飼い主に提供し、えさとあたたかい場所を肩代わりしてもらうことで10数年など余裕で、慢性的な疾患にかかる年齢まで生き延びることができる。豊かな暮らしとはそういうことで、現実と向き合うこととは、そういうことなのだ。
いまのところ、吹奏楽ではエレキギターを使わない。20世紀最高の音楽的発明品を敢えて避けているようだ。しかし、いずれ使う日も訪れるかもしれない。

知り合いのつながりで、吹奏楽のコンサートを見に行く機会が最近増えた。吹奏楽とオーケストラは、当然弦楽器の有無で区分されるのだが、例外もある。コントラバスや、場合によってはエレキベースが導入されることもあるので、厳密には吹奏楽も弦楽器を使っている。

それよりも、その形態のライトさに人気と特徴があるようだ。オーケストラではなにかとクラシックのお堅い曲しかできないが、吹奏楽ではそのときの流行歌を取り入れてアレンジして披露してもよい。オーケストラも吹奏楽もひとまとまりを楽団、と言うが、吹奏楽はブラスバンドとも言う。つまりバンドなのだ。バンドである以上は、そのフットワークの軽さをいかした活動の仕方が可能というわけである。AKBの楽曲をアレンジしてメドレーにしたり、そういう大衆向けのコンサートを幾度となく見たことがある。

ところが、である。そんな「ライト」なノリの中にも譲れないものがあるらしい。吹奏楽が現代の楽曲をアレンジする際に、ドラムセットを使用してエイトビートを刻む…クラシックの作曲家がこんなことを聞いたらびっくりたまげてしまうかもしれないが、これは自分が中学の時から存在するしきたりで歴史は長い。そして上述のとおり、楽曲によってはエレキベースも柔軟に使い分ける。近年起こったバンドブームの中で、便利で使えるものは遠慮なく取り入れているわけだ。ただどういうわけか、エレキギターを使うことにはまだまだ抵抗があるらしい。使っているバンドもあるかもしれないが、残念ながらお目にかかったことは一度もない。どうやらここの一線はブラスバンドとロックバンドの最後の一線、攻防戦ということらしく、この緊迫した状態が今後時代を経るにしたがってどのように変わっていくのか見とどけていきたい。

いつからかバンドをやってモテたいとか思わなくなった。

 

まだ自分が高校生の、ドラムを始めたときはそれはもうモテたくて仕方なかった。こんなにドラム叩けるオレってすげーだろっていうオーラ全開でバンドをしていた。モテたいというと相手が女性に限定されるが、ここは男女問わず人間がすげーって言ってくれるならどちらでもよかった。女性ならなおのことよかった。

 

遡れば江戸の頃から、男は三味線をひいて唄をうたうとモテたらしい。あとは、今で言うお笑い芸人がモテるように、歌舞伎役者のモノマネがうまい人も会話の中で女性を楽しませることができるからモテたらしい。だから男たちはこぞって一芸を身につけるため、三味線を習ったり唄を習ったりしたそうで、やはりこのアタリはモテたくてバンドをはじめる高校生のヤングでホットな情熱に通ずるものがある。

 

人間とは不思議なもので、あれだけ燃え上がっていた情熱も、細々とむくわれぬ音楽を一生懸命やるうちに静かに消えそうな灯火になっていくのがわかる。きっとバンドでそこそこ成功したり甘い体験をした人はまだビンビンでギラギラしたバンドライフを過ごしていることだろうが、自分はそうではなかった。しかしそれゆえ、モテたい目立ちたいなどの欲求から離れて音楽と向き合うことができるのだから、これは感謝すべきである。若さとは、ときに芸術の追求に邪魔になることもあるのだ。

そもそも、人間はどうして煙を口に入れて吸って吐こうと思ったのだろう。その根本思想が謎である。

いつも消耗品を購入している取引先から営業でまわってくる人は、しゃべると駅の灰皿のようなにおいがする。駅の灰皿を思い出してほしい。あんなに黒くてなにものかがこびりついているのだ。たまにすごい勢いで火事になるアレである。そんなにおいを発しつづけているこやつはきっと長生きできないだろうという気がする。

たばこの煙が嫌いという人は多いが、それはたばこの害悪を表面的にしか理解していない。エグザイル系の男を見てダセーwと言ってるのと同じで、実際に彼らの歌や踊りを見たり聴いたりすると本当に聴くに堪えないし、見るに堪えないほどひどい。つまりたばこの煙とは、たばこがもたらす不快感のごく一部、表層的な部分にしか過ぎない。実は吸ったあとの残りかすの部分のくささが本当にやばいのである。たばこが好きで好きでたまらない人でさえ、灰皿のにおいを好む人などいない。オエッてなる。駅の灰皿の火事のにおいを「あ、たばこのいいにおい」なんて言ってるハゲは存在しないのである。

猫が好きな人だって、猫のウンコはたえがたい苦痛を飼い主に与える。つまり灰皿とはタバコのウンコなのだ。それでもあなたは、タバコをやめませんか?

以下に、料理のおいしく作れない人の典型的な行動パターンを記す。

レシピ通りに材料をそろえる→特にレシピの意味を考えることなく、疑問も覚えず、指示通り作成する→最後の段階で、急に自分のカラーを出したくなり、レシピには一切登場しなかった調味料たちを加えだす。

ああ、あるある…と思った人、おおいに反省してください。でも、いやいやこんな作り方、失敗するに決まってるじゃないか…と思われる方であっても、これがどうして失敗するのかをきちんと説明するのは意外と簡単ではないと思う。

1.完成形のイメージ
ただ漠然と、料理名と写真を見て「あっこれにしよ」と思うだけで、具体的にどういう味になるのか、最終的にもっていきたいゴールの形のイメージを持っていないことが多い。だから最後になって慌てて自分の得意とする調味料による味付けに頼ることになる。

2.取り返しは基本的につかない
料理は最後の段階だけで美味しさが決まるほど単純でない。それこそ序盤の下準備、前処理、加熱の具合…さまざまな要素によって決まる。最後のさじかげんひとつでこれらの失敗を覆せるほど甘くはないのだ。また、自分の味のカラーも序盤に決まる場合が多い。最後に加えて自分の味になるようなものはカレー粉とかキムチとか、そういう劇物しかないことを肝に銘じるべきだろう。

3.レシピの意味を理解できていない
たとえば大根を下ゆですることや、こんにゃくを塩でもみこむこと等、ひとつひとつの工程がどういう意味を持っているのか理解すると、味の最終形がイメージしやすくなる。逆に言うと、理解が不十分である場合、これらをまったくテキトーな具合にやってしまい、レシピ通りにやったのにどうして…というくらいせつない出来になることがあるのだ。

こういう些細なことが、意外と人生万事に当てはまりそうな気がするものだから、料理とは実に面白いと個人的には思うのだなあ。
化学実験を日々仕事としてやっている人間から言わせてもらうと、料理ができない人というのは存在しない。

料理は家にコンロや水道などの実験器具がない場合を除けば別だが、投資もさほどすることなく安値で器具機材を揃えることができる。実験方法や手順、材料やノウハウはすでに開示されており、さらに写真などでイメージもつかみやすい状態になっているのが現状だ。器具、機材があり材料、手順が開示されている、ということは再現性が得られるということに他ならない。再現というのは、すなわちそのとおりやれば絶対に成功するということだ。

だけども料理がうまくできない、と嘆く人が少なからず存在する。これは正しくは「料理を作ってもおいしくない」ということになる。

料理を美味しく作るのはたやすいことではない―これは実験でも共通である。良くコントロールされた実験データを得るのは才能やセンス、知識、そして努力が必要だからである。誰にでもできることではない。しかし実験と料理が最も異なることは、実験はあわよくば高校の理科をスルーできれば一生やらなくてもよい点に尽きる。つまり料理は誰しもが毎日の生活において、ある程度の結果を残していかなければならないものなのだ。
人類の歴史を紐解いていくと、どうやら最古の文明というのはメソポタミア近郊の紀元前6500年前ということで概ね見解が一致している。少し前まではエジプトが最古の文明だということだったらしいが、文明の起源と農業の開始とは必ずしもイコールでない。大規模な農業を行う上で、権力者が大きな労働力を動員し、灌漑農業システムを組み立て、社会階層と職業が分化し、そして文字による記録があること。これが文明の条件と言われているそうだ。

そんなことはわりとどうでもよくて、そこから西洋人がクラシック音楽と呼ばれる和声の方式を確立するには、1700年頃まで待たなければならない。文明がはじまってから8200年も経過している。それ以前にも教会などやお祭りで演奏される音楽は存在したが、いま我々が最も親しんでいる形態の音楽の、和声的なルーツを作り出したのがバッハだということは常識とされているようだ。
バッハ、モーツァルト、ベートーベン…この巨人たちが100年かかって1800年前後まで音楽を発展させた。その後ショパンとかいろんな人が爆発的に現れて、100年後。1900年頃にアメリカでまったく新しい音楽のジャズが生まれる。
ジャズはブルースから少し遅れて生まれたというが、おそらくそうらしい。そしてロックが大きく発展するまでが50年。ロックがポップミュージックになったのが1980年。あれから30年。日本のポップス界は行き詰っていると言われる。

今われわれが親しんでいる音楽というのは、かくも浅い、浅はかな歴史しかないのである。この10年やそこらに生まれた価値観、常識などに、実際はいったいどれだけ歴史的な重みがあるというのか…推して知るべきだ。
現在、日本のポップス界で起こっていることというのは、誰かが新しいフォーマットを作って、そのバスに乗り遅れるな!いそげ!と言って似たような工業製品の山が積み上がる。音楽の歴史にして30/300年の間にここまで腐った。文明の歴史からすると30/8500年の間に。
これはいくらなんでもダサすぎるんじゃないか…とみんな気づくべきじゃないのだろうか。音楽の歴史から、文明の歴史から考えると、日本独自の音楽業界のスタイル―つまりテレビがあって、事務所があって、レコード会社があって、お金がたくさん動いて、音楽をネタにフトコロがうるおうこと―は全くもって必要な仕組みではないのである。
今われわれがすべきことは、沈みかけた音楽業界の泥バスにギリギリ追いついて乗り込むことじゃない。そうではなくて、文化を一番底のレベルから支えていくがむしゃらな一生懸命さ、真剣さこそが本当は最も大切なことなんだと思うのだなあ。

何を言ってるかわからない、といってポルナレフみたいになる読者の顔が目に浮かぶようだ。