第2次世界大戦、いわゆる太平洋戦争で負けた日本は、アメリカ合衆国などの連合軍によって、判事がすべて連合軍側だけという、連合軍、特にアメリカにばかり都合のいい裁判(東京裁判)にかけられました。そこで日本は、中国や朝鮮に侵略して現地の人たちを虐殺し、抑圧するなど好き勝手な暴虐(ぼうぎゃく)を働き、戦争になったのは日本が悪い、といった判決を下されました。


この戦争の罪の意識によって、戦後生まれの多くの人が自分を肯定することがうまくできなくなってしまったばかりか、それが積み重なって若い世代ほど自己肯定感の低い人が多く、覇気(はき)がなくて、ひ弱な人が多い、という現象となって表れています。それが急増する引きこもり、セックスレスカップル、自殺の大きな背景のひとつです。このままいけば日本の将来を担える若者がどんどんいなくなる、という大きな危機が日本に迫っています。


引きこもり、セックスレス、自殺は、人と人との心のつながりが切れていることの現れですから、このつながりを取り戻すには、ぎゅっと抱き合うハグなどスキンシップを増やすことが、いいきっかけになると思います。しかし、この大元が、戦争の罪を負わされていることだとしたら、その罪を晴らすのがこの日本の危機を解消する最善の方法かもしれません。ですから、日本が近隣諸国に侵略して残虐な行為を働き、戦争を引き起こしたというのは、はたして本当のことだったのかを検証するために、戦争前、そして戦争中に起こったことをじっくりと眺めてみたいと思います。


日清戦争で清(当時の中国)に勝ち、日露戦争でロシアに勝った日本は、アジアでのロシアの脅威を取り除き、ロシアから租界(外国人居住区)と租借地、満州の鉄道を譲り受け、中国大陸に進出しました。このころ、アメリカも中国に進出しようとしていましたが、強国となった日本が邪魔でした。そのため、国ぐるみで中国(清の跡を継いだ中華民国)に急接近し、共同で、日本がやることを非難し続けました。これにアメリカのメディアが乗って日本を非難し、さらにアメリカ人宣教師が中国で日本人は残酷などと宣伝し、中国人の日本人に対する反感が強くなりました。


中国人は、国内で半植民地化を進める国には、どこにも反感を持っていました。そのため、各国の公使館や租界が中国人に襲われる事件がたびたび起こりました。蒋介石の国民党を蹴落とそうとする中国共産党が、人民を煽動したのも手伝って、租界の襲撃はだんだん激しくなりました。特に、1927年に南京で日本を含む共同租界が襲われてから立て続けに、漢口と済南の日本人租界が襲われ、多くの日本人がひどい暴行を受けました。


日本は日清戦争で勝ったものの、それ以降はほぼ、中国寄りの政策をとっていました。1925年に外務大臣に就任した幣原(しではら)喜重郎は、国際協調路線、特に中国では反日の動きを止めるため、すでに日本が持っていた権益以外は求めず、アジアの安定を目指し、幣原外交と呼ばれました。


1925年に日本は、ワシントン条約に基づいて中国内での権益の縮小方針を決めました。その年に、中国が関税自主権の回復を目指して、ヨーロッパ各国に呼びかけた関税特別会議の開催に積極的に協力し、欧米列強を憤慨させたくらいでした(会議は中国の内紛のため、結局は中止)。1926年には中国が、今度は治外法権を撤廃するための国際会議をヨーロッパ各国に提案したときも、日本は再び積極的に協力しました(この会議も中国の内紛で中止)。同じ年に、南北に別れていた中国の南軍が、北軍を征伐するために進軍した、いわゆる北伐のとき、治安の乱れを恐れたイギリスが日本に対し、中国に兵を送ることを要請しましたが、内政不干渉を貫くために、この要請を拒否しました。さらに同じ年、万県でイギリスと日本の船舶が中国軍によって攻撃される事件が起きましたが、イギリスが武力で対抗したのに対し、日本は外交上の抗議だけですませました。


さらに日本は、南京や漢口での租界に対する中国人の攻撃でも、無抵抗主義を貫き、報復もしませんでした。そればかりか、南京の事件の直後、イギリスとアメリカが蒋介石に対し、今後同じことがあったら武力で対応するという最後通牒を突きつけることを決め、日本に同調を求めましたが、幣原外相は逆に両国の大使を説得し、最後通牒を断念させました。こうした一連の日本の親中政策によって、アメリカにそそのかされて日本批判ばかりをしていた中国政府が日本を、特に幣原外相を信頼するようになり、反日の姿勢は全く和らぎました。


ところが、1927年に南京と漢口で無抵抗主義を貫き、日本人に大きな被害が出たことに日本国民は憤慨し、軍部は幣原外交に対し、弱腰と猛反発しました。そして、日露戦争によってロシアから引き継いだ関東州の租借地と南満州鉄道を護衛するための守備隊だった関東軍が独断で1928年、満州で一番力を持っていた張作霖を爆殺しました。張作霖を殺すことに日本にも関東軍にも利点はほとんどなく(ですからその理由はよく分かっていません)、これを蔣介石軍のゲリラがやったように見せたことがばれて、日本は大きな非難を浴びることになるのですが、この事件は、軍部が日本政府の意向を無視して勝手に軍事行動をするという、非常に悪い前例を作ってしまいました。


当時の日本の憲法(明治憲法)では、軍部が政府の下ではなく、天皇陛下の直属であったため、弱腰の政府の言うことなどに従うことはない、という気運が軍部に生まれました。もちろん、天皇の許可を得ていませんし、出先の関東軍が独断で戦闘行為をすることは軍法違反なのですが、張作霖暗殺事件をきっかけに、関東軍が都合のいい解釈で、独走を始めました。1931年には満州事変を起こし、満州一帯を占領しました。


満州は、朝鮮人移民が、中国共産党の煽動によって、中国人との間でたびたび暴力沙汰を起こし、治安が乱れていました。そんなとき、偵察中の中村震太郎関東軍大尉が現地の中国軍に捉えられ、殺されるという事件が起き、関東軍は調査を開始しますが、真相が明らかにならないまま外交交渉に移されることになりました。中国側は調査を約束しましたが、日本による陰謀であると主張し、関東軍の兵士たちばかりでなく、日本にいる日本人にも、中国に対する非難が沸騰しました。これにさらに、日本人女学生数十人がピクニック中に中国人に乱暴されるという事件も起き、ついに関東軍は切れ、軍事行動を起こします。


1932年に満州全域を占領した関東軍は、満州に帰りたがっていた溥儀を利用して、溥儀を国王とする満州国を設立します。幣原外相は、満州事変には不拡大方針を表明しましたが、1930年にロンドン海軍軍縮会議で、軍部の許可なく軍縮条約を決めたとして軍から散々非難されていたこともあり、満州事変のすぐ後に失脚しました。その後、日本政府の満州国承認をしぶる犬養毅首相が五•一五事件で海軍将校に暗殺されると、政府内で軍に逆らえる人はいなくなり、政府は満州国を承認しました。それは中国での領土拡大を制限するワシントン条約の違反であり、各国から非難を浴び、国際連盟は満州国を認めないことを採択し、日本は国際連盟を脱退することになります。そして、しだいに中国との全面戦争に向かっていきます。

(続く)