第2次世界大戦、いわゆる太平洋戦争で負けた日本は、アメリカなどの連合軍に一方的に裁かれました。判事がすべて連合軍側だけという全く偏(かたよ)った裁判(東京裁判)で、日本は、中国や朝鮮に侵略して現地の人たちを虐殺し、抑圧するなど好き勝手な暴虐(ぼうぎゃく)を働き、戦争を引き起こした、という判決を下されました。


日本人は、この戦争の罪を背負わされ、中国や韓国などから、いまだに戦争責任を追及されています。この罪の意識によって多くの人が自分を肯定することがうまくできず、若い世代ほど集約されて自己肯定感が低くなっています。これが、世代が若くなるほど覇気(はき)がなく、ひ弱な人が多い、という形で現れ、急増する引きこもり、セックスレスカップル、自殺の大きな背景のひとつです。このままいけば日本の将来を背負える若者がどんどんいなくなる、という大きな危機が日本に迫っています。


しかし、この公平とはほど遠い裁判で訴えられた、日本が近隣諸国に侵略して残虐な行為を働き、戦争を引き起こしたというのは、はたして本当のことでしょうか。これが本当でないとしたら、日本人は幻の罪をいまだに負わされ、それによって日本という国は坂を転げ落ちかかっていることになります。戦争前、そして戦争中に起こったことをよく見て、日本の”罪”が本当なのか、検証してみたいと思います。


日本は、1905年に日露戦争で、大国ロシアに勝ちました。これによって日本は、念願だった西欧諸国との不平等条約を解消し、大国の仲間入りをしますが、同時に、西欧諸国に恐怖感を植え付けてしまいました。特に、ひどい白人優越主義でアメリカンインディアンや黒人奴隷を抑圧していたアメリカの白人移民は、有色人種の国の日本が白人の強国に負けない力をつけてしまったことに、大きな恐怖を感じました。そのためアメリカ国内で、白人移民による、日本人移民の迫害が始まりました。


日本人はそれまで親米で、日本人移民に対する迫害が始まっても親米の姿勢を崩さず、外交努力で迫害をなだめようとしました。にもかかわらず迫害はエスカレートする一方で、ついに1924年には、日本人を排除する法律は作らないという約束をアメリカが一方的に破って、排日移民法を成立させた段階で、日本にいる日本人にも反米感情が吹き出しました。白人優越主義と、強くなってしまった有色人種の日本に対する恐れによって、日米関係を悪化させたことが、太平洋戦争の大きな要因のひとつです。


江戸時代の長かった鎖国を解いて開国して以来、日本の一番の願いは、欧米の強国に侵略、征服されないことでした。欧米列強の中で地理的に最も近く、常にアジアを狙うロシアが日本にとっては一番の脅威でした。そして自国を守るために戦略的に最も重要なのは、日本の本土以外では朝鮮半島で、次が満州です。日本は周りを囲む海によって守られているとは言っても、非常に近いこの2カ所が欧米列強に、特にロシアに取られると、日本としてはかなり致命的です。


ところが日本は、朝鮮半島を巡って清と戦争をしてしまいました。朝鮮半島の中立化を画策した日本(清と共同で中立を管理することを提案していた)と、朝鮮を属国化しようとしていた清(朝鮮はもともと安全保障を清に頼っていた)の利害が対立したうえに、朝鮮内にも清につく派と、日本について独立を望む派が分裂していました。


清にとって、そして日本にとっても不幸だったのは、眠れる獅子と密かに恐れられていた清が、日本にあっけなく破れたため、それを見た欧州列強がここぞとばかり、清の各地で半植民地化を進めたことです。両国とも欧州列強の勢力を排除することが共通の望みであるのに、その両国が争うことによって、列強の陣地を拡大してしまいました。1912年に清が滅亡した後、中国の内乱に日本がずるずると巻き込まれていったことも、太平洋戦争につながった要因のひとつです。


日清戦争後、急速に満州、朝鮮半島に勢力を伸ばしたロシアに対して、日本は当初、外交努力でロシアの進出を食い止めようとしました。これを手助けしたのはイギリスです。イギリスはヨーロッパでロシアの進出を食い止めてきたし、自分が大きな利権を持つアジアでも、ロシアに出てきてほしくはありませんでした。そこでイギリスは日本と1902年、日英同盟を結びました。


日英同盟の締結は、白人国家、しかもその超大国が有色人種の国家と対等の同盟を結ぶという、画期的な出来事でした。ロシアの南下を防ぐのがもちろん最大の狙いですが、大きな背景のひとつとして見逃せないのは、騎士道精神を持つイギリス人が、日本人の武士道精神を認めたことです。


1900年に北京の共同租界で清国軍の発砲をきっかけに欧米と日本の8カ国の公使団と、清国軍、義和団との間で戦闘となった北清事変(義和団事件)で、公使団を守るためイギリスは、地理的に最も近い日本軍に出兵を要請しました。清に侵略する意図のないことを明確にするため日本は最初、この要請を断り続けました。しかしイギリスが欧米各国へ根回しをし、アメリカも正式に要請したことで日本は重い腰を上げ、出兵しました。そして常に先頭に立って奮戦し(死者などの犠牲者が一番多かったのは日本兵)、清国軍を鎮圧して役目が終わるとさっさと引き上げました。しかも、当時は制圧した先で物品の略奪や無抵抗の相手に暴行を働く兵士が多かった(特に中国の兵士に多かった)のに、日本兵は規律を守り、そんなことは一切しませんでした。これを見たイギリス人は感銘を受け、日本人を見直すようになったようです。それが有色人種と対等の同盟を結ぶことにつながった背景のひとつだと言われています。


日本はロシアに対し、満州の主権は認める代りに朝鮮からは手を引くことなどを提案していました。日本に負けるわけがないと思っていたロシアは日本の提案をすべて拒否して1904年、日露戦争が始まりました。1905年に大方の予想を覆してロシアが破れ、アジアでの南下をあきらめたことにより、むしろ日本、ロシア、イギリスとの間に友好関係が生じました。特に日本とロシアの友好関係は、日本が、降伏した旅順要塞司令官のアナトーリー•ステッセルに帯剣を許すなど非常に紳士的に扱い、戦争捕虜も非常に人道的に扱ったなど、ここでも戦が終われば敗者も尊重する武士道を発揮したことが、ロシア人に非常に好意的に受け取られたようです(この友好関係は非常に残念ながら、ロシア革命で共産党が実権を握ったときに打ち切られました)。そしてこの後の第1次世界大戦では、日露戦争前はあれだけ敵対していたロシアとイギリス(さらにフランス)が組んで、ドイツと対決しました。


この日英露の3国が仲良くなったことで迷惑を被ったのはアメリカ合衆国です。日露戦争のポーツマス講和条約の仲介を果たしたことでアジア進出を企てたアメリカは、まず中国進出を一時的にはこの3国に阻止された形となりました。また、満州では1905年、東清鉄道を日米共同で経営することが桂太郎内閣と内定していたのに、小村寿太郎外相の反対で破棄されました。アメリカはそれでもあきらめずに、1907年には満州鉄道の中立化を提案しましたが、何もしていないアメリカが中立化によって利益を得ようとしているのは虫がよすぎると、日本とロシアの両国によってその提案が退けられました。


このあたりでアメリカは、日本を仮想敵国と見るようになったようです。

(続く)