認知的体験  -60ページ目

わかりやすい操作説明を考える

2000/5/海保
 テーマ:わかりやすい操作説明を考える
ーーー認知心理学からのアプローチーーー
●はじめに
ユーザの操作を支援することが、マニュアルに課せられた最も大事なミッションである。しかしながら、そのミッションを達成するのは容易ではない。次のような、いくつかの構造的ともいうべき困難があるからである。
1)ユーザによる操作行動の可能性のすべてを予め知ることができない
 機械に対する操作空間にはかなりの自由度がある。その自由度に対して
 どのように表現したら操作に自然な制約をかけられるかがわからない。 
2)操作に習熟した人は初めて使ったときのことを思い出せない
 誰が操作説明を書くのがよいのかを決めるのは、意外に難しい。操作を
 知らない人のことを共感的に理解することができないからである。
3)操作のアナログ性と説明のデジタル性との折合いをつけるのが難しい
 実演以外の説明では、連続する操作のどこをどの程度の詳しさで切り取 
 って説明すればよいかがわからない。

こうした困難を克服するヒントのいくつかを、ユーザの認知・行動特性の観点から提案してみたい。

●内容
(1)マニュアル作りに認知心理学を役立てる
 マニュアル作りに認知心理学がどこでどのように役立つかの概説的な話
 の中で、とりわけ、操作の説明の難しさとそれを克服するための指針を
 提案してみる(海保)。
(2)なぜユーザは操作ができないのかーー課題分割をめぐって
 ユーザはなぜ操作ができないのかを、課題分割の困難性という観点から
 考えてみる(植田)
(3)操作説明に必要なことーー操作内容からメンタルモデルまで
 操作説明にはどのような観点からどのようなことを書けばよいのかを
 考えてみる(松尾)。
(4)VTRマニュアルの内容分析ーーー操作説明の可視化の方策
 一つの事例として、操作説明の可視化の方策をVTRマニュアルの内容
 分析を通して考えてみる。(高橋・山本・青山)
(5)操作説明をめぐる諸問題
 操作説明全般にわたり、いくつかの問題を提出する(岸)。

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研究を評価する

00・5・2海保



@@@@@@@@@

●研究評価と論文査読の機会が増える

 50代も後半になると、他人の研究の評価や論文の査読の仕事が増えてくる。

 筆者の場合、学内では、卒論、修論、博論の評価は、毎年15件くらいある。さらに採用昇進のための査読も年に数件はある。学外では、学会(5つ入会している)の論文査読が、編集委員をしていないときで年に数本、編集委員をしていると15本くらい。さらに、予算申請がらみの審査が2件くらい(研究数で言うと、30件以上)。

 研究者のライフサイクルを考えると、これが、今の自分に課せられた仕事と思い込むことにして、誠心誠意やってはいる。しかし、しんどいし気が重い。



●研究評価が厳しくなってきた

 業績主義がかなり日本の大学研究者の世界でも一般化してきた。ポストを得るにも昇進するにも、査読のある論文の数が問われる--もっともこれは理工系の話---。したがって、投稿論文の不採択は、たちまち不利益につながる。

 また、研究に投入される税金が格段に増加してきている。たとえば、文部省・科学研究費は1000億を越える。当然、どれだけの成果が上がったかが厳しく問われることになる。短期的かつ金銭的な費用対効果だけを考えれば、その低さは、公共投資の比ではないはず。最近、会計検査で、文部省・科学研究費の成果報告書の未提出が***件(***年度)もあることが指摘されたとの報道もあるが、報告書のほとんどはジャンク・ペーパー(ごみ箱行きの紙)である---もっとも、文科系の世界では、この報告書が業績審査として提出されることもあるのだから驚く---。

 いずれにしても、研究評価がここにきてきわめて厳しくなってきている。それだけに、厳しくすれば本人から恨まれる。甘くすれば周囲から批判される。実に、しんどいし気が重い仕事である。そのためかどうか、査読や審査は義務的なもの以外はすべて断るという人を知っている。



●評価規準さまざま

 研究の評価規準は、さまざまであるが、規準の高低と質が思案のしどころとなる。

 まずは、評価規準の高低。卒論と博論を同一の規準で評価すれば、誰も大学を卒業できなくなる。さらに、これは明示的に言うのははばかられるところもあるが、学会誌間でも---ということは、学会間でも、ということになる---規準の高低はある。ただし、これは、あくまで主観的で暗黙の規準としてである。格づけの好きな(?)アメリカあたりでは、あからさまに、これは格が低い(掲載規準が低い)雑誌である、と言う。投稿者も、「この論文なら、この雑誌へ」との配慮をする。

 次は、研究評価の規準の質、換言すれば、評価の観点。

 もっとも大まかなものは、「掲載可能から掲載不能」「優れているから劣っている」まで、2段階から5段階くらいまでの判断をもとめ、あとは、その理由を付すようなものである。この対極にあるのが、独創性、斬新さ、論理性、方法の完璧性など観点別に点をつけて、それを総合する形式のものである。

 どんな評価規準を採用するかは、学問(学会?)文化や評価する目的によって異なる。そのあたりをつい忘れて「絶対評価」をしてしまうと、評価の「妥当性」が疑われることになる。



●評価が一致しない

 ほとんどの研究評価は、実質的には、2人か3人の専門を同じくする「仲間内」で行なわれる。「仲間内」であっても、しかし、評価者間で判定の一致する割合は、それほど高くはない。したがって、その調整に手間取ることになる。

 ある学会誌で3年間、編集委員をしたときの経験では、最初の段階での3人の査読者間の一致は、採否2分割で言うなら、4割程度ではなかったか思う。

 評価が行なわれるところならどこでもそうであるが、トップレベル(きわめて独創的なものは除く)とボトムレベルの判定は一致する。問題は、採否、合否のボーダーライン近辺である。しかも、これが圧倒的に多い。ここで判定が割れる。

 また、研究費申請の審査では、これからこんな研究をしてみたいという申請についての評価をすることになるが、採用人事と同じような難しさがある。過去の業績のない若手研究者のきわめて独創的な研究申請が落とされがちになる。

 

●妥当な研究評価をめざして

 評価には、評価される人が、評価結果に納得してくれる、ということも結構大事になる。納得してもらえない評価は、やる気を削いでしまうからである。時には、大騒ぎになることもある。

 しかし、評価は、その人が属する組織全体のクオリティを保証するため、という大義がある。個人の納得性のみを重視するわけにはいかない。

 この両者の要請を満たすためには、評価規準を「ある程度まで」透明化した上での、エキスパートや仲間による「主観的な」評価を行なうことになる。

 ここで、「ある程度まで」と「主観的」について一言。

 評価規準を「完璧に」定めることは不可能であるし、また、あまりに細部に渡ってまで定めてしまうと、評価コストがかかるだけでなく、被評価者も目標が見えなくなってしまう恐れがある。

 「主観的」とは、最終的な評価は、評価者の主観に頼らざるをえない部分があることを言いたいためである。「主観」のない評価は、過去の数量的な実績に依存することになりがちで、ともすると、将来への展望をにらんだ評価にならないこれでは、大義にもとる。

会議はほとんどさぼり

今の時期の会議では、来年度のことの相談だらけ。
研究室にいるから、もし、自分にかかわることが
あれば、呼んでください、といって、会議の頭だし
をして退出するようにしている。
したがって、会議の退屈さストレスとは無縁の
日々が過ごせるので、時間もたっぷりできる。
定年前、窓際族になるためのちょっとした工夫の
一つ。

研究室がだんだん片づいてくる

図書館から借りた本はほとんど返した
4月からの授業に使えそうなものは仕分けた
いらないと決断した本は、少しずつ捨てているが、
これができない。どの本にもそれなりの
センチメントがあるから。でも、古いのは、
古いという理由だけですてるに値するのだが。
最後は、引っ越し屋さんに頼んで一括して
新しい研究室へ運んでもらうことになるだろう。

閑散としてくる研究室を眺め回すと、ちょっと
感傷的になってくる。

注意管理不全とヒューマンエラー


00/3/2 海保  心理学ワールド原稿 2000年7月号
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注意管理不全とヒューマンエラー
 海保博之 (筑波大学心理学系)

---注意というのは両刃の剣みたいなものである。一方では、同時に進行する多くの事象の中から、関心のある一群の事象を追跡することができる----しかし、他方、注意は現に起こっている事象のすべてを見逃さずに覚えておく能力を制限している---(リンゼイ/ノーマンより)

●はじめに
 注意には、自分でコントロールできる部分と、自分ではコントロールできない部分とがある。その隙をねらうかのようにして、注意不全は、人にエラーをさせ、時には事故を起こさせる。
 本稿では、エラー低減のための、注意の内的(自己)管理力および外的管理力を高める方策について考えてみる。

●注意特性から人を分類してみる
 注意には、持続性と1点集中性という特性がある。一定時間、所定の仕事に一定量の注意を注ぎ続けるのが持続性、一つのことに利用可能な注意量のすべてを注ぐのが一点集中性である。
 注意のこの特性に着目して、図1に示すような、人を類型化する図式を作ってみたことがある。タイプ判別のためのチェック項目も作ってみたが---「工作が好き」「ゲームが好き」など---、2つの軸ごとに、「あなたは、一点集中するほうか、それとも、あちこちと注意を拡散させるほうか」「あなたは、注意が長く続くほうか、それとも、続かないほうか」と個別に聞いてタイプ分けすることもできる。図中の数字は、そのような聞き方をしたときの、大学生50名のタイプ別の人数割合である。ちなみに、筆者は、気配り型である。

<<<<図1が入る>>>>

 注意とヒューマンエラーを考えるときにも、この類型は役立ちそうである。たとえば、
 ・真剣勝負型の人は、一つのことにのめり   込ん でしまい視野狭窄(きょうさく)   を  起こしが ち。思い込みエラーを   しがち。
 ・一発勝負型の人は、リスク管理がへた。   つま らない(と思った)仕事ではたる   みによるミ スをおかしがち。
 ・気配り型の人は、その時々の状況に左右   され て見逃しやうっかりミスをしがち。
 ・じっくり型の人は、即応性に欠けるので、   緊 急事態への対応が遅れがち。
 自分を知り自分なりの対応を考えること---これが注意の自己管理---は、エラーを減らすには必須である。このタイプ分けは、その一助になると思っている。

●注意管理システムを作り込む
 注意はすぐれて内的な認知資源ではあるが、ヒューマンエラーとの関係を考えるとき、注意を個人の中だけに閉じ込めて考えてしまうと、話がうさんくさくなる---とは言ってもあとでこの話をすることになるのだが---。事故が起こると、当時者の「たるみによる」うっかりミスが原因との報道がしばしばなされ、それで誰しもが納得して事は治まってしまうようなことになりがちでる。しかし、これでは、次の事故防止につながる有効な対策は生み出されないままになってしまう。注意管理をもっと「場」の中でも考えてみる必要がある。
 たとえば、前項で注意特性に着目した類型を紹介してみたが、作業をチームとして行なうようなケースでは、注意特性のタイプという点から人を作業内容に合わせて割り付ける。
 細部の詳細にわたる面倒な仕事には真剣勝負型の人を、仕事の段取りや時間管理には気配り型の人を、長時間の監視業務にはじっくり型の人を、故障診断には一発勝負型の人を割り当てるというように。
 あるいは、注意特性のタイプを考慮したメンバー構成にすることもありうる。
 さらには、作業の進行過程で、メンバーの注意状態に目を配り適切な指示や作業管理をする人を用意するといったようなこともある。
 このような、いわば、チームという「場」の中にチーム全体の注意管理を最適化するための仕掛けを組み込むことで、個人による注意の自己管理の不全を補うわけである。

●注意管理を支援する情報環境を作り込む
 もう一つの「場」は情報環境である。
 原子力発電所のオペレータ室を見学したことがある。部屋全体が情報で溢れかえっている。したがって、その情報すべてに誰もがいつも注意しているわけではない。しかし、注意を向けられていない情報が不要でないことは言うまでもない。必要なときには注意を向けてもらわなければならない。そこで、オペーレータの注意管理を支援するさまざまな仕掛けが必要となる。
 たとえば、音である。
 情報環境は、目での取り込みが主である。しかし、視覚での注意範囲はごく限られている。そこで、音を使う。時には、警告音による注意喚起、さらには、人工音声による情報内容の強制的な?伝達である。
 視覚に訴える情報環境でも、大事な情報は目立つように中心においたり、変化を知らせるためにちらつかせたり(blinking)といったことによって、注意喚起をはかっているのは周知の通りである。

<<<イラスト2をここに>>>

 情報環境に過度に注意管理支援の仕掛けを組み込むとうるさがられたり、慣れられてしまったりで、喚起機能を果たさなくなってしまう。「適度さ」についての案配に難しいところはある。

●注意の自己管理を最適化する
 再び、話しが注意の自己管理に戻る。注意は、ある程度までは、自己管理できる。集中しようと思えば集中することができる。注意力が落ちてきたら、「がんばって」注意力を高めることができる。注意にはこうした能動的な側面があるので、注意の自己管理の話が出てくることになるし、事故が起こると、自己管理不全が個人の過失責任として法律的な罪にも問われることになる。かくして、注意の自己管理力の向上が求められることになる。
 とはいっても、そのための有効な方策がそれほどあるわけではない。また限界もある。この点の認識をしっかり持たないと、「安易な」精神論か「カルト的な」自己鍛錬の話しになってしまう危険性がある。
 さて、ごく当たり前の方策の一つは、注意の特性についての知識を豊富にすることである。たとえば、「易しい課題をするときより難しい課題をするときのほうが、注意レベルは低めにする(ヤーキーズ・ドドソンの法則)」ということを知っていれば、そうした場に遭遇すればそれなりの対策を自ら工夫することができる。特定の場に固有の体験的な知識もあるし、心理学の研究から得られた普遍的な知識もある。心理学者の啓蒙的な活動が求められるところである。
 これに関連してさらに、こうした知識を実践できる形にする方策も身につける必要がある。知識は使えてこそ有効性を発揮する。そのためには、一定の訓練プログラムで教育を受けるのが一番であるが---とはいっても、注意管理に特化したプログラムの存在は寡聞にして知らないのだが---、誰もがいつでもそんな機会をもてるわけではない。日常の場で意識的な試みをすることで、知識を手続き化していくしかない。
 そのときのポイントは、今自分の注意状態がどのようになっているかをきちんととらえること(モニタリングすること)、そして、それに応じた注意資源のコントロールをすることである。
 たとえば、スピード負荷がかかっていて、「あわてている」ので---これがモニタリング--必要な要素動作を省略してしまう恐れがある。指差呼称をしながらやっていこう---これがコントロール---となればエラーも減るはずである。なお、ここで、省略エラーや指差呼称が、前述した知識になる。知識の有無、そしてそのタイミングよい運用がいかに大事かがわかる。
 筆者の場合は、車の運転時にこうしたことを心がけている。あるいは、定期講読している車の雑誌に載っている危険予知課題は必ず挑戦し、知識の活性化に務めている。

●指差呼称を使う
 注意の自己管理の最適化の決定打とも言ってもよいものが実は一つある。指差呼称である。指で指して自分のするべきことを口に出して確認する行為である。いろいろの作業現場で導入されて効果をあげている。
 注意のような内的過程は、自分の内部だけで管理するには限界がある。限界を越えると、管理不全が発生する。そこで、指を動かす行為や呼称という形で外部にだし(外化し)、注意管理をより完全なものにしようというわけである。
 なお、指差呼称には、確認以外にも、チームで仕事をしているときには情報の共有にも役立つ。仲間が今何に注意を向けているかがわかるからである。
 さらに、行為の意識化にも役立つ。慣れた行為は自動的に実行されるが、時には、ある要素行為がうっかり飛ばされてしまったり(省略エラ-)、別の類似した行為をしてしまったりする(実行エラー)ことがある。それを防ぐために一つ一つの要素行為を意識化させる契機として指差呼称を使う。

●注意の心理工学の領域を作る
 安全工学という分野がある。安全をもっぱら機械・システムにいかに技術として組み込むかを研究している。たとえば、
 ・多層防護  故障や事故が起こってもそ   れが拡大にないように幾層にも障壁を設け  る
 ・フェールセーフ(fail-safe) 故障して   もそ れを補完するものを用意しておく
 これにならって、注意の心理工学とというべき研究領域があってもよいと思っている。
 よく知られているフール・プルーフ(fool-proof)という仕掛け。大事なことをするときにはそれなりの心理的・行動的なコストが必要になるようにする仕掛けである。押しながら回さないといけないガス栓、安全装置をはずさないと打てない銃などに作り込まれている。
 こうした仕掛けが考案されたのは、人の注意と行動の信頼性の低さを工学的な技術で対処しようとしたところから生まれた。これが、注意の心理工学の一つの研究分野である。前述した情報環境の設計のところで述べたようなことも、これに入る。人の注意特性に配慮したインタフェース設計である。
 注意の心理工学のもう一つの分野は、注意の自己管理の技術化である。危なっかしい話しになりがちではあるが、「場」を限定すれば、「合理的な」技術になりうるものがありうるはずである。たとえば、集中力を高める、あるいは逆にリラックスするための各種技術は、スポーツ訓練の場で生み出され実践され効果をあげている。生理現象を援用した技術は、とりわけ有望な技術になっていくように思う。安全第一が要求される「場」でも、注意管理の技術を蓄積している。それらの有効性を実証することと理論化することとが当面の課題であろう。最終的には、注意管理を教え訓練するための教育プログラムを開発することになる。
●おわりに
 「注意1秒、怪我一生」というように、一瞬の注意管理不全がエラーや事故につながってしまう。注意に限らないが、一瞬をコントロールするのは、至難の技である。そこが一般の人の関心を引きつけるところであるし、研究者の挑戦心を刺激する。

●引用文献と参考文献
Lindsay,P.H. & Norman,D.A.1977 「情報処理 心理学入門ll注意と記憶」 サイエンス社
海保・田辺 1996 「ワードマップ・ヒュー  マンエラー---誤りからみる人と社会の深  層」 新曜社
海保博之 1998 「人はなぜ誤るのか---ヒュ  ーマンエラーの光と影」 福村出版
海保博之 1987 「パワーアップ集中術」   日本実業出版社


 こうした意義をより実効性のあるものにするためには、選ばれたマニュアルが身近にあって、いつでもすぐに手本にしたり分析したりできるようになっているのが望ましいことになる。TCシンポのときだけちらっとみた、というだけではだめである。ぜひ、欲しい人が入手できる、あるいはせめて閲覧できる方途をお考えいただきたいものである。
****本文  32行

心理研究者のモラルコード  人を使う研究者が守ら

                    62行(本文
心理研究者のモラルコード  人を使う研究者が守らなければならないこと

●研究者も人であり研究者でもある
 研究者も研究の場を離れれば一人の生活者である。生活者としてのモラルを守ることは当然である。ところが、これが意外と難しい。とりわけ、大学をずっと仕事と生活の場にしてきた者は---日本では、ひとたび大学教官になると定年まで外の世界に出ることは極めてまれ。***によると、***%---、外の世界を知らないだけに、世間一般の生活者としてのモラルを守れないことが多いように思う。そこにこそ個性があり、アイデンティティがあるとも言えるし、とりわけ横ならび意識が強い日本社会ではむしろ希少価値もあるとも言えるが、研究者が世間---研究者の生活の中にも「世間」(1)が実はあるのだが---と接触するようなところでは、軋轢が発生してしまうことも多い。
 また、心理研究者のモラルにいく前にさらに研究者としてのモラルに関しても一言。研究者モラルコードとは、研究に携わる者なら誰しもが守らなければならないものである。たとえば、「社会、人を貶めるおそれのある研究はしない---判断が難しいが---」「成果は公開する」「無断で他人の研究を使わない」などなど。もちろん、ここでも、ときどき研究者のモラル違反が発生することもあるが、逆に、「世間の人」が研究的な仕事をするときに、この研究者モラルに違反することが多い。たとえば、筆者の体験でも、こんなことがあった。
 ・アイデアから論文のまとめまで人から多大の支援を受けながら、自分一人がやっ
  たかのようにして論文発表をしてしまう
 ・天真爛漫に人の研究成果を使いながら、引用文献を挙げない
 ・人に研究させておきながら---もちろん、研究費はもらうのであまり大きな口で  は言えないのだが---、自分で行なった研究であるかのごとく発表してしまう
 さて、人として、研究者としてのモラルコードを守っただけでは、「心理」の研究者は十分ではない。研究対象が人であるだけに、さらに厳しいモラルコードがある。
●心理研究者のモラル
 古澤ら(2)は、研究者倫理として、「協力者の尊重」「守秘義務」「協力者への恩恵(得られた成果を協力者に還元する)」の3つを挙げている。アメリカ心理学会は、もっと細かく次のような10の原則を定めている。要点のみ摘記。
(1)研究が倫理的に容認できるかどうか
(2)参加者を危険にさらす度合いをあらかじめ検討する
(3)協同研究者も同様の責任を負う
(4)研究内容の説明責任
(5)研究の必要上、隠ぺいやごまかしを使うときは十分に慎重であること
(6)参加者はいつでも参加を断ることができる
(7)被験者を危険な状態にさらさない
(8)研究成果を参加者に知らせる
(9)参加者に好ましくない影響を与えたときは、それを除去、矯正する
(10)参加者についての情報の守秘義務
 かつて、行動主義者・ワトソンが、生後11ケ月のアルバート君を使って、情動条件づけの実験を行なったことがある。白ネズミを見せては大音響を出して、白ネズミに対する恐怖を条件づけるというものである(注3)。10のモラルコードを適用するとどうなるであろうか。
●心理研究者のモラル・ハザード
 このように文章として明文化されると、モラルコードの遵守はごくあたり前で、何を今さらという感じがするかもしれない。しかし、実際には、厳密にこれらのコードを守ろうとすると、いくつかの困難に直面する。心理研究者の側からすると、一定の人数を一定の期間内に集めて研究しなければならないので、どうしても無理をすることになる。これが、当たり前のようになると、モラル・ハザード(モラル崩壊)をきたす恐れがある。
 その1。心理実験や調査には、不本意な時間的な拘束、さらには、不本意な作業がどうしても入ってくる。実験、調査への参加は任意、いやなら止められるとは言っても、それでは所定の被験者が確保できない。英文の論文では、「被験者は授業の単位取得要件の一部として参加した」との一文が入っていることが多い。しかし、被験者からすると、これは、一種の強制に近い。前述のコード(8)成果公開によって償うことで我慢してもらうことになるが、心理関係以外の授業では、あまり償いにはならない。
 その2。認知研究が盛んになるにつれて、被験者に過大な要求をする研究が多くなってきたように思う。「今、あなたが考えていることを口に出して言ってください」と指示されて(注4)、びっくりしない人はいないのではないか。過大な心的作業は、被験者に不全感を残す。しかし、研究者からすると、データはほしい。そこで無理を言うことになる。被験者へのアフターエフェクトが多いに気になるところである。
<----69行


(1)研究者の生活の中の「世間」とは、就職、昇進、名声、評価などにまつわること。研究者仲間では「俗事」などと言って軽蔑的にみるのが「格好よい」とされている。内実は、研究者の「世間」は、口外できないほど「世間離れ」しているようなところがある。
(2)古澤頼雄ら(2000)「研究の倫理」 「発達研究の技法」福村出版に所収。
なお、ここで言う協力者は、実験に協力してくれる人の意味である。日本では、被験者(subject)が一般的だが、英語論文では、participantが最近では一般的。
(3)WATSON,J.B. (1930) 安田一郎訳「行動主義の心理学」河出書房新社
(4)プロトコル分析という。認知研究の切り札のごとく多用されたこともあった。
海保・原田編著「プロトコロ分析入門」(新曜社)参照

情報武装もほどほどに

個人情報を出さないのは、結構だが、
本の編集などをしていると、どうやって
その人に連絡したらよいか、皆目、見当が
つかなくてあきらめる、ことが最近は
よくある。とりわけ、女性研究者との連絡はとりにくい。
大学の事務に電話しても、絶対に教えてくれない。
学界名簿をみても、電話は消されている。何も
書いてない場合もある。
これでは、困る。
大学で、名簿にメールアドレスをのせるかどうか
話題になったときも、のせないでくれ、という人がいたらしい。
社会的なきずなをこれほど分断してしまった犯罪が憎い。
しかし、情報武装もほどほどにしてほしい気持ちもある。
自分は、携帯かメールへ誘導している。これならまず安心だしうるさくない
ーーほとんどマナーモードにしているのでーーー。
着信記録もとれるし、
どこでも連絡がつく。危ないものかどうかの判断もつく。
いかがなものであろうか。
しかし、これまで隠せ、という忠告もある。


朝一番の仕事が増えた

今朝は1時半に自然覚醒。
ブログを開設してからは、起きてからの仕事が
一つ増えた。
ブログをあけて、コメントやアクセス数チェック
さらに、書き込みと、結構、時間がとられる。しかし、
楽しみである。
きょうは、弟子筋のにかた君から、コメントが
きた。彼は、コンピュータの先生役をずっと
つとめてくれた学生だった。そのコメントによると
先生は、実名でやられたらどうかとのこと。
はい、そうします。
ただ、はらださんからのきつくも温かい指示もあるので、
個人情報はできるだけ隠すことにします。
年令も不詳、住所不明、履歴もなしでいきます。

今日の万歩計1617歩