前日の横浜関内でのクラブ活動の強烈な残滓の中、予約していたので仕方なく観賞。
二日酔いを除いても、なんだよーわからんかった。
ジョーカーってのは、バットマンに出てくる悪役で、かなりひどいことをする、頭のイカれたやつなんだと思っていたけど、結局こいつはなんだか可哀想なやつだったんだ、で終わった。しかもミュージカルみたい。何でこんなん作ったんだろう。
レディー・ガガの歌はさすがだなぁ。
米国は内戦状態にあった。カリフォルニア州とテキサス州は合同で、WF(WESTERN FORCE)を組織し、政府軍との激しい戦いのさなかにある。冒頭に大統領は国民への演説で「政府軍は優勢にあり、WFを駆逐している」と言うが、現実にはワシントンDCはWFの猛攻に戦況は悪化しており、WFはシャーロッツビルまで迫っており、前線を築いていた。戦場カメラマンのリーとレポーターのジョエル、リーに憧れる若いカメラマンのジェシーの3人のジャーナリストとニューヨークタイムズの記者のサムは、大統領への単独インタビューを敢行するため、ニューヨークからワシントンDCへと向かうが、WFの攻撃はすさまじく、前線のあるシャーロッツビルからワシントンDCへ入るしかない。PRESS車両に乗った4人は、1600kmのドライブを始める。途中の街では、激しい戦闘、市民の犠牲者を処分している兵士達など、無法で残虐な殺戮行為が行われている。無慈悲に市民を殺して回る戦士達。しかし、彼らがどちらの軍に属しているのは、描かれない。またある街では、平和な日常が続いており、内戦については「関わりたくない」という市民達が普段通りの生活を送っていた。そんな街でもビルの屋上には銃を持った市民の姿が。そんな残虐で熾烈な内戦を、4人のジャーナリストの目を通して淡々と描いていく。ラストでは、いよいよ政府軍は降伏し、WFは大統領を狙って、ホワイトハウスを陥落させるため、最後の進軍を開始する。戦士の後ろからカメラを構えて弾丸飛び交いロケット弾が炸裂する中、最後の瞬間を写真にしようと、突入していくジャーナリスト達。そしてホワイトハウスは陥落し、大統領を見つけた兵士とジャーナリスト、大統領を射殺しようとした瞬間、レポーターのジョエルが大統領に「大統領、何か言いたいことはありますか?」と質問する。大統領は、「殺さないでくれ」と一言。「それを聞きたかったんだ」というジョエルの言葉を最後に、あえなく大統領は射殺されてしまう。それを冷静に写真に収めるジェシー。
何が正義で何が悪なのか。
戦場ではそんな議論は不要だ。目的にむかって、お互いに殺し合うだけ。それだけが戦場の全てなのである。
しかし最後まで、何が原因で、どんな経緯でアメリカは内戦に落ちていったのか、その理由は説明されないままだった。ということは、監督の意図は、「理由」ではなく、分断されたアメリカの最後の姿を描きたかったのだろう。今、大統領選挙を一ヶ月後に控えた今、トランプイズムと、それに戦いを挑む民主党とで、アメリカは分断状態に陥っているように外からは見える。大国の内部分裂。その最後の姿を、描きたかっただけなのかもしれない。
そういう映画があることだけは、夏頃から知っていたが、あまりにベタなタイトル、全く知らないキャスト。完全スルーしていた作品。最近、いきなりメディアやなんかでこの映画が爆発的ヒットをしていることを知った。公開当時は、全国で単館公開(1映画館だけ)であったのに、話題が話題を呼び、客が客を呼び、全国120館以上で公開されているという、映画。「カメラを止めるな」的インディーズから飛び出した、いわば瓢箪から駒的な。監督は自腹を切りまくり、口座に7000円しか残らなかったとか、実は農家を経営していて、めちゃめちゃ忙しい人らしいとか、まぁ、そんな話が耳に入ってきた。
時は幕末、京の夜。会津藩士高坂新左衛門は密命を帯びて命を狙う、長州藩士と刃を交えていた。その時、一天にわかにかき曇り激しい雨と雷が二人の藩士の頭上で鳴り響く。
高坂新左衛門が目覚めると、そこは江戸の街であった。京にいたはずが、なぜ江戸に。不審に思う新左衛門。人声に気づき路地を曲がった所では、町娘が素浪人に絡まれている。すわ!と思った矢先、そこに現れたのは、世直し侍、心配無用ノ介。すらりと刀を抜いて名を名乗ると、狼藉者は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。そこで「カット!」の声。「じゃ、本番いきます!」先ほどと同じ光景が繰り返される。思わず新左衛門、「無用ノ介殿!助太刀いたす!」と刀を抜いた。再び「カット!こいつ誰なんだ。放り出せ!」そこは京都太秦の撮影所。「世直し侍」の収録最中であった。
新左衛門は、ただものとは思えぬ刀さばき、更にオリジナル以外何者でもないちょんまげをゆい、普段から侍言葉を話す。「拙者には、剣の道以外はない」と殺陣の師匠に弟子入りし、切られ役をやることになった。
そんな時、先生と呼ばれる時代劇俳優風見恭一郎からの指名で、風見が作る新たな時代劇に主演級の役で出演の話が舞い込む。とんでもないと断る新左衛門の前に現れた風見恭一郎。その顔を見たとき、新左衛門は氷つく!
金は多分かかってないし、知らない関西系の役者ばかりだし、タイトルロールでは監督の安田淳一の名前が色々なスタッフ仕事で出てくるし、助監督の沙倉ゆうのは、映画の中でも助監督役で出演しているし、その他スタッフ仕事も一杯やっているようで、何度も何度も名前が出てくる、完全手作り映画なのだが、どこかその真剣さが伝わる緊張感のある画面、関西人ならではの笑いのツボ、幕末の武士としての矜持。伝わるものがビシビシ伝わり、最後まで目を離せないいい映画でした。
おすすめします。
President Onlineでこんな記事を見つけた。
2024年上半期の「バー、キャバレー、ナイトクラブ」の倒産は、前年同期比で161.1%も増えたそうだ。女性の方は全然しらないだろうが、こういう場所は女性が隣について、お酒を作ってくれたり、お話の相手をしてくれたりする場所で、店によってマチマチではあるが、相手をしてくれる女性の飲んだ分も含めて、2時間遊ぶと大体一人3~5万円は取られる。クラブとなるとおそらくもっと高いだろうが、自分で払ったことがないので知らない。上司に連れられて接待でいくような場所だ。自腹でこんな店には一度も行ったことはないし、行きたくもない。これら飲食店の業績不審の理由は、お客に「お金がなくなったから行かなくなった」だけではないと記事は言う。
企業の接待縮小。これは大きいだろう!
夜の街離れ。つまり、若者の「アルコール離れ」もあって、キャパクラへ行く客層の重要なレイヤーが離れていっているということ。
次にホステスの人材不足。
この原因は客にあるらしい。それも理解できる。
概ね建設関係の方や個人事業主の方などは、ホステスに対して、かなり失礼な態度をとるのを目撃する。つまり、暴言であったり、お触りであったりということだ。ホステスは娼婦ではないから、お触りは失礼だし、「なんだてめぇー、何やってんだ!」的叱責は、ゴージャスに仕立てた内装や雰囲気にはそぐわない。泣き出すホステスもいたりして、ママやチーママが飛んできて、客やホステスをなだめるという光景をよく見かける。
愚痴る客、武勇伝、説教は嫌われる3大タイプである。
しかし僕が現役で、社用でそういう店に通っていた頃は、それらを見事にいなす女性が多かった。非常に世間のニュースに詳しく、「知ってる知ってる!」と出しゃばるのではなく、客の話題に上手に乗っかり相槌を打ったり、客が言葉につまると、「〜新聞はこんなこと書いてましたよ」とうまく話をつなぐ。
今の若いホステスは、まったくお客に対するスキルもなく、かわいいとか、胸が大きいとかで押してくるので、眺めている分にはいいが、おじさんにはつまらん。
さて!
そんなキャパクラやクラブに疲れたおじさんが足を向けるのが、「美魔女クラブ」なる店だ。女性の平均年齢は30~50歳。銀座や六本木、横浜関内等のクラブを引退した女性が中心である。つまり、手練れのホステスが多いのである。客あしらいも上手ければ、客の懐具合に合わせた飲み方をするし、ちゃんと世間の話題から下ネタまでついてくる。成熟した大人の女性だから、おじさん達でも理解できる日本語を話してくれるし、昭和の話題にも乗っかれる。
そして値段もリーズナブルで2時間で1~2.5万円くらいで遊ばせてくれる。これなら、自腹でも、たまには行けそうだ。
若者は、キャパクラからスナックへテリトリーを移しているらしい。行きつけのスナックにも、たま〜に若者3〜4人くらいの新規客がくる。彼らは隅の席に陣取り、カラオケに興じている。カウンターはおなじみの常連ばかりである。ガンガン連続で歌う若者には、そっと「ボックスじゃないから、ここは。全体というものがあるでしょ?ね?」などと小声でアドバイスすると、素直に聞いてくれるし、ちゃんと常連の歌にも拍手をしてくれる。常連も彼らの歌に拍手をする。みんなハッピーに楽しめるので、彼らも「また来ます」と言ってボトルを置いていく。ボトルがあれば、何時間いても3~5千円だろう。ちょっとしたママ手作りの付け出しや、軽食も出してくれる。
スナックといえば「昭和臭」が漂うが、実は今、スナックの時代がまた到来しているのでは、ないだろうか。
さて、今夜もまた、常連の待つ、あのカウンターで、70歳とは思えないおぼこい系のママの顔でも見に行きますか。
3人の男を殺めて、死体をバラバラにした罪で逮捕された品川真珠は、逮捕のときにピエロのメイクをしていたことから、「品川ピエロ」とネットで広められた。
彼女が殺したとされる一人の男の小学生の息子から、「父の頭を探してください」と頼まれた、児童相談所職員の夏目アラタは、この少年が、自分の名を語って獄中の品川ピエロに手紙を書き、面談の段取りまで整えていたことを知る。彼は少年に変わって品川ピエロに会い、少年の父の頭がどこにあるのかを聞き出そうと東京拘置所へ出かける。
面談室に現れた品川ピエロは、逮捕時とはまるで別人の様相で現れる。
「あなた、私が怖くないの?」
「怖ぇよ」
歯並びの悪い歯をむき出して彼女は言う。
「あなたは手紙の人じゃない」
面談室を出ていこうとする真珠に声を掛ける。
「なぁ、俺と結婚しようや。そうしたら毎日面会することができる」
その言葉に振り向いた彼女は、邪悪な笑みを残し、去っていく。
真珠の私設弁護士が、獄中のピエロが署名した結婚届を持って、アラタのもとを訪ねてくる。アラタは署名した結婚届けを持って東京拘置所を訪れ、結婚届を彼女にガラス越しに突きつける。
「うれしい」彼女はつぶやいた。
それから二人のガラス越しの面談は続く。
そのたびに、真珠の言動は変動する。
「実はね、誰にも言っていないけど、私は誰も殺していない。無実なの」
その時から、アラタは真珠の周辺を調べ、そして過去にたどり着く。
彼女の父親のこと、母親のこと。
逮捕された部屋に残された、誰のものか分からない血痕のこと。
彼女は本当に連続殺人犯なのか。そして死体をバラバラにして隠したのか。
彼女の驚愕の過去、生い立ちが少しづつ姿を現す。
公判のたびに、態度も証言も変わる真珠に、弁護士も裁判官も翻弄される。
そして、実は彼女は本当の品川真珠ではないのではないかと疑問が。
幼少時の異常なIQの低さ。
しかし面談した時の彼女からは、知恵遅れの印象は全くなく、むしろ非常に頭が良いという印象を得た。そして成長し20歳の彼女のIQは正常値を超えていた。
なぜ異常な成長を遂げたのか。
彼女につきまとったという、ストーカーの正体は?
彼女の父親は何をしたのか。
様々な謎を絡ませながら進むストーリーに目が話せない。
監督は堤幸彦。
コメディーサスペンスの名手であるが、この作品ではコメディー部分は封印して、純粋にサスペンスを描き出していく。
主演はアラタを柳楽優弥。独特の、悪の空気と正義の空気を同時に纏う不思議な役者。ドラマの「ガンニバル」での怪演が忘れられない。
品川真珠には、黒島結菜。NHK「ちむどんどん」での主演、芝居の評価はいまいちだったが、その可憐な可愛らしさに僕は魅かれた。特にシャープな顎と唇が好きだ。その彼女の表情がいつもの可憐さから変化しているのは、歯並びの悪いマウスピースを装着しているせいだろうか。異常な殺人鬼、サイコな女を、演じきっていて好感が持てる。
恐ろしく、おどろおどろしく、童顔でかわいい。
ラストマイルという言葉は、僕の前職で通信機器事業に携わっていた時によく使った言葉だ。「最寄りの基地局からユーザーの建物までを結ぶ通信線の最後の部分」という意味。WiFiが発達し、無線が当たり前になった今、この言葉は通信業者から物流業者のものに変わった。「配送センターから受取人までの最後の1マイル」という意味。ピンポンして配達してくれる人達のことだ。
この映画では、アマゾンを想定したネット販売大手Daily Fast社の配送センターから配送業者のセンターを通じて、配達された荷物が爆発するという事件が連続して起こる。犯人の目的はなにか。Daily Fastを狙ったテロなのか、配送業者がターゲットなのか、あるいは無差別のテロなのか。
警察が介入し、市民の安全を確保するため、センターからの配送をすべて止めるよう命令する。しかし、1時間止めると1億円の損害になるデリファスにしてみると、とんでもない横暴である。しかし新任センター長の舟渡エレナ(満島ひかり)は一計を案じて、これを逆手に取って対応する。頭の良い女性だ。
この映画が提示している問題は、おそらく「格差」だろう。
満島ひかりがものすごくいい。明るく笑顔で、しかも頭のいい女性だ。時に湧き上がる強烈な怒りを、見事に自己鎮静させるアンガーマネージメントは見習いたい。劇中に登場する配送センターは、前のセンターを居抜きで買い取ったから、まだシステムが古いのだというセリフがあるが、今のアマゾンの配送センターは、もっと人も少なく、極限まで効率化されている。
人間の幸福、欲求を満足させるために、極限まで人間を減らして効率化する。それが果たして、人間にとって幸福なのか。とどまるところをしらない人間の欲求を食い物にする大企業。誰がそれを責めることができるのか。
自殺を計り、植物人間として5年も生きながらえている社員がロッカーに残した謎の数式。2.7 m/s → 0 70kg。これの意味に思いついた時、背中を伝わる冷たい汗。
一回目の鑑賞では、満島ひかりに見とれている内に映画が終わってしまったので、連続2日鑑賞。
先日、米軍基地関係者とその奥様と食事をともにする機会をえた。奥様は、小中学生を中心に、高校生、大学生、社会人に英語を教えておられるアメリカ生まれのアメリカ人である。金髪がまぶしい美人であるが、それ私感なのでおいておく。
奥様いわく、「小中学生のクラスでは、楽しく歌ったり、ゲームをしたりして、自然に英語と触れ合えることを中心にしている。なのでテキストは使っていない。日本人の子供たちは、非常に覚えるのが早い。だが、高校生、大学生になると不思議なことがおこる。みんなが口をそろえて「私は英語が話せない」という。しかし彼女たちは、十分に理解できる英語を話している。なぜ自信を持たないのか」それは、日本人独特の羞恥心の表れではないかと意見を述べた。日本人は心の中で「英語はバッチリだぜ」と思っていても、表面上は「つたない英語で」と謙遜するのが美徳だ。僕はこの美徳が大好きだが、最近の若い人はそうでもないようで、オリンピックみてもがっかりしているのだが、ま、それはおいておいて。
金髪美人が言うには「あなたの英語は通じますよ。なぜ自信を持たないのですか?と聞くと、ネイティブのようには話せないからという答えが返ってくる」と。そこから、「ネイティブってなに?」という話になった。
日本人がネイティブ英語と言われて思いつくのは、まずアメリカ、次にイギリスであろう。なかなかオーストラリアを思いつく人はまだ少ない。
ネイティブとはなんだ?という定義になると、「日常生活で英語を主たる言語として生活している人」ということになるか。
インドには500以上の方言があるそうで、インド人同士でも言葉が通じないことは頻繁に起こるそうだ。ヒンドゥー語というイメージがあるが、実は州によって公用語が違う。で、全国土ではどうかというと、英語であるそうな。インド人同士が英語で会話している光景は、インドに行けば普通に見られる。
マレーシアも、学校でマレー語を学ぶが、マレー、インド、華僑で構成されている国なので、お互い日常的に英語で会話している。シンガポールも同様で、公用語は英語である。つまり、彼らもネイティブなのである。
だが、インド人の英語はそもそも早口なのに加えて、ヒンドゥーの発音も加わるから、慣れるまで何を言っているか理解するのに苦労する。マレーシアしかり。シンガポールはイギリス領であったので、ブリティッシュの発音に中国語の発音やアクセントが混ざるので、やはり慣れるまで分かりづらい。フィリピンその他、アジアの国々ではこういうことが頻繁だ。
では日本の学生は、インド人の英語を学びたいのか?違うだろう。
考えてみると、英語なんてものは単なる言語で、言語の目的は意思の疎通だ。つまりは、通じればいいのである。
インド人がインド英語を、シンガポール人がシングリッシュを、マレー人がマレー英語を堂々と喋り世界と交わっているんだから、日本人に日本英語があっても何も問題はないように思う。ようは、通じるか、通じないかなのだ。
通じるとはなにか。非常に高度に教育を受けた身からすると、意思の疎通であり、こちらの言い分が通じて、相手の言い分が理解できること。書いてあることが読めて、言いたいことが書けること。
しかし、先述の国の人達はちょっと違う。「自分を主張できること」がまず第一で、「何ならお前の言うことも聞いてやるよ」が第二なのだ。そう、生存競争を勝ち抜くためには、まずは自分を主張し、我が身を守り、相手を黙らせる必要がある。日本人は「アメリカ人のように流暢に話したい」のであるが、それは無理というものだ。アメリカは広い。州によってアクセントも違えば、イディオムも違う。慣用句なんか、日本語でもそうだが、毎日のように生まれているだろう。そんなものを全部覚える方法はアメリカに住むしかない。アメリカ社会が嫌いな僕には到底無理だ。
さて本論。
つまり言語というものの役割は、意思の疎通、自己主張の可否なのである。
日本人発音でもいいから、どんどん知ってるだけの単語を適当に並べて、日本人として主張すればいいのだ。英語を学ぶなら、せめて基本的な単語の並び方、関係代名詞等の基礎文法は知るべきだろう。これないと、そもそも通じない。日本人は日本人らしく、日本人としてできるだけ相手にわかりやすい英語を話せばいいのだ。用意した原稿を覚えて、アメリカ人に発音を直してもらい、慣れないジェスチャーまで加えて頑張ってるのを、僕は見てられないのである。そんなことはいいから、テーブルをこぶしでドン!とたたき、「NO!」と言ってみよう!そこから英語学習が始まるんだ。
予想通りの映画だった。
コロナが蔓延する日本で、総理官邸でパンデミックが発生し、閣僚が相次いで倒れ、総理は死亡してしまう。こまった官邸側は、歴史上の偉人達をAIで現代に蘇らせて、内閣を結成する。総理は徳川家康、官房長官に坂本龍馬、経産大臣は織田信長、財務大臣は豊臣秀吉、その他紫式部、聖徳太子、北条政子、徳川綱吉、吉宗、足利義満。最強の内閣は、圧倒的なカリスマ性を発揮して、次々に改革を打ち出し、コロナから国民を守ることに成功。しかし、カリスマスターばかり故の確執も生まれ、黒い陰謀も裏では進む。
新人記者の西村理沙(浜辺美波)は、官房長官坂本龍馬の懐に入り、その陰謀に気づいてしまう。
途中で意識を失ったが、惜しいとは思わないような感じ。ありえないことをどう描くかと楽しみでもあったのだが、やっぱりねぇ~~な感じ。家康総理の長~~~い演説で幕を下ろすが、刺さらない。
最後に坂本龍馬がジャーナリストの理沙にかけた一言。「いまは、庶民が見たいと思うことだけを見せて、真実を報道していない」という一言だけは、まぁそうだね?って感じ。マスコミの大衆化にチクリと一言か。
浜辺美波を見ると「ゴジラ」が思い浮かんでしまう。
齢90の母が、「お嫁さんに会いたい」というので、車椅子を積んでドライブすることにした。仕事はここのところ色々忙しく、空いている土曜日は、この日だけ。日曜なら空いているが、ロングドライブは翌日に響くので、えい!や!で午前4時発。まだ夜明け前の東名は空いていて、快適に走ることができた。
10:30に神戸市長田区へ到着。6時間半。トイレ休憩2回。
母は家内と会えたのを喜んでいるが、自分が会いたいと言ったことはすっかり忘れてしまっているようだ。
「昨日」でも「明日」でもなく、「今日」や「今」だけで生きているってのは、なんだか素敵な気がしてきた。
面会1時間。家内の実家へ。ランチは「お腹いっぱいだと眠くなるから」とお断りし、仏壇に手を合わせて、お茶を飲みながら1時間。義理の弟も、脳梗塞の後遺症に苦しみながらも、なんとかやっているようで、安心した。
13:30に西宮を出発。名神も目立った混雑はなく、東名→新東名とスムースに通行できた。
休憩2回、20:00に自宅到着。やっぱり6時間半。1,145kmの弾丸ドライブは、やっぱりくたびれたなぁ。
年かな〜
道中、Audibleで小説の朗読を聞きながら運転。音楽は飽きるが、朗読は物語が進むので、飽きることなく、睡魔もやってこない。万城目学さんの「ヒトコブラクダ層戦争(上)」を往復で聞き終わる。
新宿歌舞伎町。そこは雑多な国籍の人間と、言葉が飛び交う東京の歓楽街中の歓楽街。ありとあらゆる種類の店があり、楽しいことも悪いことも、なんでもありのごった煮の街。
そんな歌舞伎町に建つのが、古びた「まごころ病院」。救急病院だが外科医はいない。院長は外科医だが、常に酒を飲んでいて使い物にならない。院長の息子は美容皮膚科医、医師は整形外科医が他に1名いるだけ。
歌舞伎町のバーで、外人相手にテキーラを飲み合いしている女。飲み勝ったものの、急性アル中で「まごころ病院」に担ぎ込まれる。所持金わずか。こんな患者を処置しても、金を取れない。拒否しろ!とスタッフはいうが、来てしまったものは仕方ない。しかしこの女、医師だった。アメリカの医師免許を持ち、軍医として戦場を駆け回った。外科医としては良いがとにかく仕事が雑で粗い。その上、日本の医師免許がないと日本では医療行為はできない(はず)。戦場では、丁寧に処置なんかやってられないらしい。この医師、日本人とアメリカ人の混血らしいが、岡山弁が話せる。小池栄子が、英語(非常につたない)と岡山弁を操り、次々に起こる事件や患者に対処していく。
脚本は宮藤官九郎。とにかく「ぼっけえおもろい」から一度観てください。
配信はTver, FOD, Amazon Proime