隠されていた西郷隆盛の汚点  | 人差し指のブログ

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『 「 南州翁遺訓」 を読む 』

渡部昇一 (わたなべ・しょういち 昭和5年~平成29年)

致知出版社 平成八年十一月発行・より

 

 

 

 

 

 西郷隆盛の伝記は戦前は英雄崇拝的な伝記が多くあり、西郷は日本人の中で最も伝記の多い人とさえ言われています。

 

 

しかし、戦後は、目ぼしいものとしては田中惣五郎 『西郷隆盛』 (吉川弘文館) と勝部真長 『西郷隆盛』 (PHP文庫) ぐらいではないかと思いますが、勝部さんの本はいわゆる頭山(満)翁のような右翼的西郷崇拝者が書いたものではなく、歴史家として近代的知性で見ていらっしゃるので大いに参考になります。

 

 

その中に、南州(西郷隆盛)は若いころは策謀が非常に好きであったと書いてあります。  これは確かです。

 

 

 例えば、十三代将軍家定夫人は薩摩藩から嫁に行きました。

 

 

これは島津忠剛(ただかた)の娘篤子(とくこ)を敬子(けいこ)という名前で薩摩藩主斉彬(なりあきら)の養女にして、さらに近衛忠煕(ただひろ)の養女として江戸に送り込んだものです。

 

 

これが後の天璋院(てんしょういん)ですが、薩摩藩はこの天璋院を用いて

十四代将軍を一橋慶喜にしようとしました。

 

 

これは斉彬の陰謀でもあるけれども、具体的に駆け回ったのは若き日の南州つまり西郷吉之助です。

 

 

 

 それから、鳥羽伏見の戦いのとき、仁和宮嘉彰親王を征夷大将軍として錦旗をつくって官軍だと言い、一挙に意気阻喪せしめたのも南州のアイデアだったと言われています。

 

 

事実、西郷はこの戦が不利な場合は天皇にこっそり山陰道に落ちてもらい偽の鳳輦(ほうれん)(天皇の御乗物)を比叡山に移すなど、細かな作戦を立てています。

 

 

とくに尊王官軍という名分を保持し続けることを作戦の根幹としました。

 

 

 

 当時、すでに大名も武士も朝廷を敵として戦えないという 「空気」 を西郷は的確に把握していたのです。

 

 

若き日の西郷は策謀軍略に長(た)けた大軍師、大参謀でした。

 

 

策略家としての西郷の計略のもっと重要なのは、鳥羽伏見の戦いを起こすきっかけになった、薩摩屋敷を根城にした関東攪乱です。

 

 

西郷は相楽総三(本名・小島四郎左衛門将満)、伊牟田尚平などを使って江戸中に火をつけたり強盗をしたりして不安に陥れました。

 

 

相楽 総三(さがら そうぞう、天保10年(1839年) - 慶応4年3月3日1868年3月26日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷志士江戸出身。

赤報隊隊長。

 

伊牟田 尚平(いむだ しょうへい)は、江戸時代末期(幕末)の薩摩藩重臣の家臣

天保3年(1832年)5月、薩摩藩喜入郷の領主・肝付兼善の家臣・伊牟田倉左衛門の息子として生まれた   ~wikipedia

 

 

 

これはものすごいもので、外交問題になったぐらいです。

 

 

そして、江戸取締りの庄内藩まで攻撃したので、庄内藩は薩摩屋敷を焼き。それが、鳥羽伏見の戦いに結びついたわけです。

 

 

これは全部、(西郷)南州が中心になってやった陰謀でした。

 

 

 関東攪乱というのはゲリラですから、陰謀中の陰謀です。

 

 

そのとき、攪乱を起こした連中は、名もいらず、金もいらず、地位もいらないというような人間で、そのいちばん上が相楽総三だった。

 

 

この相楽総三は江戸でゲリラをやったあと薩摩の船で江戸をのがれ京都に行き西郷に会い、再び西郷にすすめられ、官軍の先鋒隊として赤報隊を結成し東山道を攻めていくわけです。

 

 

あとで南州は、ああいう火付け、強盗まがいのことをさせた連中が官軍として生き残るのは、官軍にマイナスになると考えたと思われ、この一味を下諏訪において偽官軍として死刑にしました。

 

 

これは策謀の極みと言うべきものです。

 

 

この事件は維新政府確立後は長く隠されていたが昭和三年になって相楽には正五位が贈られ名誉が回復されました。

 

 

その事蹟は 『沓掛時次郎』 『瞼の母』 など股旅ブームを起こした長谷川伸によって 『相楽総三とその同志』(昭和十五年~十六年、単行本は新小説社・昭和十八年) として明らかにされた。

 

 

勝部真長氏も相楽総三の件が西郷の良心に及ぼしたと思われる影響を重視しています。

 

 

 これは維新の、そして西郷の汚点ですから隠されましたが、これは南州にとっては後になっていちばん胸の痛むところだったと思います。

 

 

 

                                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7月9日の夕方2頭の鹿が猿沢池の方から商店街に向って歩いていきました。