~フリガナなど一部省略してあります~
「徳川家が見た幕末の怪」
徳川宗英(とくがわ むねふさ 1929~)
株式会社 KADOKAWA 2014年6月発行・より
財政再建の旗手となったのは、下級士族出身の調所笑左衛門だ。
当代一流の経済学者・佐藤信淵の健作にもとづいて、砂糖・生蠟・藍玉など特産品の品種改良と増産を図り、専売体制を強化した。
だが、正攻法だけでは天文学的借金をなくすことはできない。
次に笑左衛門が打った手こそ、とてつもない奇策だった。
二百五十年がかりで五百万両の借金の元金だけを返済し、利子は払わないという計画だ。
債権者から古い借金の証文を取り上げ、代わりに借用金高を記した借金通帳を渡すと、
「薩藩は日本国のために働いておるのだから、何も恥じることはない」
と開き直った。
当然、怒った債権者たちは奉行所に訴える。
だが、笑左衛門はそれを見越して幕府に十万両を献上していたため、
彼らの不満は抑え込まれた。
この根回しに使われた十万両は、いったいどこからひねり出したのだろう。
現存する借金通帳を見ると、薩摩藩ではそれから約四十年間、
元金の二百五十分の一ずつを毎年律儀に払い続けている。
そして、明治四年(1871)の廃藩置県で、なし崩し的に返済は終了した。
ほとんど踏み倒したようなものだ。
廃藩置県がスピーディーに行われた裏には、こうした事情がある。
藩がなくなれば莫大な借金を帳消しにできるので、じつは、どの藩も廃藩置県を大歓迎していたのだ。
調所笑左衛門は、二百五十年ローンで浮かせた金子を産業振興に使い、琉球との交易を隠れ蓑にした密貿易も盛んに行い、
わずか十年ほどで百五十万両もの隠し財産をつくった。
結果的に、これが幕末の軍資金となったのだから、みごとな手腕というべきだろう。
さらに薩摩藩は、のちにニセ金までつくっている。
主導したのは、斉彬の死後に藩権力を握った島津久光、家老の小松帯刀、大久保利通ら藩の重鎮だった。
このときのやりかたも、じつに巧妙だ。
まず、琉球と薩摩領内のみで通用する 「琉球通宝」 を三年間に百万両を限度として鋳造する許可を幕府に申請した。
許可が下がると、幕府発行の天保通宝と同じ型・同じ重量で琉球通宝を鋳造した。
そして、その技術を流用してニセの天保通宝を鋳造した。
目的は最初から、天保通宝の偽造だったに違いない。
ニセ天保通宝は、薩摩では 「天ぷらガネ」 と呼ばれたそうだ。
「天ぷら」 とは、「みせかけだけのまがいもの」 という意味だ。
天保通宝は全国的に百文で通用したが、ニセ天保通宝の原価は三十六文だったという。
偽造額には諸説あるが、少なくとも三百万両分のニセ金がつくられたようだ。
そのあと薩摩では、幕府発行の 「万延二分金」 のニセモノもつくられた。
これらが武器や軍艦の調達や戊辰戦争の軍費として使われたのは、いうまでもない。
藩のためなら借金も踏み倒すし、ニセ金づくりも密貿易もする 。
これくらい肝が据わっていなければ倒幕の主役にはなれなかった、ということなのかもしれない。
6月6日 光が丘公園付近(東京・練馬)にて撮影