「戦うリーダーのための 決断学」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
PHP研究所 2003年9月発行・より
どうしても、江戸時代が間にあり、そのがんじがらめの身分秩序が頭にあるので、戦国時代の主従関係がきわめて強固なものと思われてしまう傾向がある。
しかし、実際は、身分間の移動が自由だっただけでなく、主君をたびたび替えることも自由だったのである。
自分に対し十分な恩義を与えてくれていないと判断すれば、自分のことを正当に評価してくれそうな新しい主君を求めて、その家から出ていくことは自由だったのである。
これを 「去留の自由」 あるいは 「去就の自由」 などとよんでいる。
主君にしてみれば、こうして家臣が家を離れてしまえば軍事力が弱体になるので、何とか家臣の減少をくいとめなければならなくなる。
こんなところにも危機管理はおよんでいたのである。
そのためには、家中に自由な雰囲気が必要になる。
いいたいことがいえないような組織は、やがて自滅せざるをえないというのが戦国時代の一つの真理であった。
すでに述べたように、寵臣ばかりをまわりに集めない、すなわちイエスマンばかりで固めないというのもその方策ということになる。
これはよく知られていることであるが、黒田長政が、新しく福岡城を築いて入ったとき、ふだんは使わない部屋を特別に用意させ、月のうち二日、朝から夕方まで長政がその部屋にいて、直接、長政に何かいいたい者は、その部屋に訪ねてきて意見をいうように指示している。
当時、封建的主従制の論理から、上を飛びこえて何かいうということは歓迎されていなかった。
歓迎されないどころか、一般的には禁止されていたのではないかと思われる。
この場合でも、たとえば黒田長政の足軽が意見をもっていても、足軽から足軽組頭にいい、足軽組頭が足軽大将にいい、足軽大将から家老
にいい、家老からようやく長政の耳に達する形となる。
このような場合、えてして、途中で、最初の足軽の意見は、あまりあたりさわりのないものに曲げられてしまうことになるのがふつうである。
「殿のご機嫌をそこねたらまずい」 という意識が働くからである。
ときには途中で握りつぶされ、長政の耳にまでは届かなかったかもしれない。
黒田長政は、そうした問題点に気がついていた。
直接、家臣と接することで、できるだけ、生の声をひろいあげようとした。
これも勇気のある決断である。
6月6日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影