「徳川家が見た幕末の怪」
徳川宗英(とくがわ むねふさ 1929~)
株式会社 KADOKAWA 2014年6月発行・より
伏見の寺田屋は、今も旅館として営業しており、「史跡博物館」 として見学もできる。
龍馬が伏見奉行の襲撃を受けたときにいた部屋や、愛用の刀、銃弾の痕(あと)が残る柱などが見られるということだ。
龍馬ファンなら誰でも一度は訪れているだろう。
だが、鳥羽伏見の戦いでは伏見市街の三分の一が焼失したといわれており、前々から、
「龍馬が泊まっていた頃の寺田屋とは建物が違うのでは?」
とささやかれてきた。
平成二十年九月、この問題が週刊誌で取り上げられ、京都市歴史資料館が調査した。
その結果、「船宿寺田屋は、慶応四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦で伏見市街が罹災(りさい)した時に焼けた」 と発表された。
これに対して寺田屋では、「市の見解を明示することも含めて考えたい」 とする一方で、「建物の一部が被災しただけで、全焼したわけではない」 と主張したため、「平成の寺田屋騒動勃発(ぼっぱつ)か!?」 と、かなり話題になった。
寺田屋の建物が昔と別のものだったとは意外だ。
歴史的建造物的をたくさん抱える京都市は、以前から、この種の調査に大変な手間とお金をかけて厳しくチェックしている。
古い史料を見直し、証拠能力を精査したうえで、歴史的事実と齟齬(そご)がないかどうかをたんねんに検証する姿勢には、頭が下がる。
(略)
寺田屋を見学した人の話では、パンフレットなどを販売する帳場のようなところに、京都市の見解を載せた新聞記事のコピーが貼ってあったが、
「龍馬愛用の部屋」 の中には弾痕(だんこん)と刀痕がしっかりとあったそうだ。
写真を見ると、柱には 「弾痕」 「刀傷」 と書いた紙が貼ってある。
いかにも龍馬がそこにいたかのような印象を与える張り紙だが、ぱっと見ただけで、あとから作った傷のような気がした。
根拠は、柱の色と木目だ。
古い建物の柱はまっ茶色になって、きれいに木目がでない。
だが、弾痕や刀傷のある 「龍馬愛用の部屋」 の柱は、きれいに木目が出ている。
これは、柱を洗い直した証拠だ。
「ニセモノ」 というつもりはないが、柱が洗ってあるというのは怪しい。
(略)
現在の寺田屋は、昭和三十年代に 「十四代寺田伊助」 を名乗る人物が買い取り、旅館として営業を始めたといわれているそうだ。
商売をする以上はお客にたくさん来てほしいから、「龍馬らしさ」 を演出したとしても不思議ではない。
「偽装だ」 と怒っている人もいるようだが、あまり目くじらを立てずに、龍馬がいた寺田屋の 「レプリカ」 だと思って見学すれば、歴史に触れる一つのきっかけにはなると思う。
6月6日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影