信玄の影武者にだまされた | 人差し指のブログ

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「戦国の群像」

小和田哲男 (おわだ てつお 1944~)

株式会社学習研究社 2009年6月発行・より

 
 
 
平時の影武者の例として有名なのは、
武田信玄の影武者を弟の信廉(のぶかど)がつとめたという例である。
 
 
 
武田信玄は天正元年(1573)四月十二日、
信濃の駒場(こまんば)というところで死んでしまった。
 
 
死に臨み信玄は子の勝頼に、「三年、喪を秘せ」 と命じている。
 
 
信玄が死んだとわかれば、周囲の敵が武田領国めがけて攻め込んでくることがわかっていたからである。
 
 
 
この、いわゆる 「三年秘喪」 の期間。武田氏と同盟関係にあった相模の北条氏政は、信玄が生きているか死んでいるかをたしかめるため、家臣で、信玄の顔を知っている板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)を使者として甲斐の躑躅ヶ崎館に病気見舞いに行かせている。
 
 
 
焦ったのは勝頼である。
 
病気見舞いとしてくる以上、合わせないわけにはいかない。
 
 
 
『北条記』 によると、このとき勝頼は、信玄の弟で信玄と顔つきがよく似ているという弟の信廉を信玄の部屋の布団に寝かせ、薄暗くなったところで板部岡江雪斎をその部屋に招き、信玄と対面させたという。
 
 
 
信玄に化けた信廉が体を少しおこし、板部岡江雪斎に会釈をし、江雪斎はそれが信玄の身替わりの信廉であることがみぬけず。小田原にもどり、「信玄殿は健在」 と報告している。
 
 
北条氏政は影武者にまんまとだまされたわけである。
 
 
                                                                                   
 
 
このような影武者もいます・11月27日に「毛利元就の影武者の子孫」と題して紹介しましたコチラです
 
 
 
 
 
6月6日 光が丘(東京・練馬)にて撮影