「戦うリーダーのための 決断学」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
PHP研究所 2003年9月発行・より
追いつかれたところで戦いとなった。
多勢に無勢で、毛利勢の渡辺平蔵・児玉児玉元保・三戸就清・
内藤九郎右衛門尉・井上就良ら、錚々たる武将たちが討死し、
いよいよ元就も危ないという事態になった。
そのとき、元就の家臣の一人渡辺通(とおる)という者が進み出て、
「殿の甲冑と馬を私に」 と申し出てきた。
つまり、「私が影武者をつとめます」 というのである。
ちなみに、当時の文献には、影武者という言葉は出てこないので、
正しくは、「私が影武者をつとめます」 といういい方はないわけであるが、影法師武者という言葉はあったようである。
元就は甲冑を脱いで渡部通のものととりかえ、馬もとりかえた。
おそらく、そのあと、渡辺通がそこに踏みとどまり、「われこそは元就なり、首を取って手柄にせよ」 とでも叫んだのであろう。
渡部通がそこで元就の身代わりになって時間かせぎをしている内に、
元就自身は何とか窮地を脱しているのである。
そのあたりのことを記した史料はみつからないが、郡山城に逃げもどった元就は、渡部通の遺児を召し出し、家督の相続を許し、加増をしたものと思われる。
元就にとって、渡部通は命の恩人だったからである。
ふつうは、そこまでであろう。
何年かたてば、そのときの渡部通の行為は、
人びとの記憶からも消えていくことになる。
その点、元就はちがっていた。
このときの渡部通の行為を風化させない工夫をしていたのである。
どこの大名家でも、年頭、重臣を集めていわゆる 「賀詞交換会」 をやる。
毛利家でも江戸時代を通じて、元日に重臣たちが集まっているが、そのとき、「歳首(さいしゅ)甲冑の賀儀(がぎ)」 とよばれる儀式が執り行われるのが例になっていた。
いま風のいい方をすれば 「甲冑開き」 である。
そして、江戸時代を通じて、毎年の 「歳首甲冑の賀儀」 をとりしきるのは渡部通の子孫の家の人間に限られていたのである。
しかも、それは、元就のときからの伝統だったという。
元就にとって、出雲遠征のときの撤退、しかも、大江坂七曲で、自分の身代わりとなって死んでいった渡部通への思いを風化させてしまうことはできなかったのであろう。
このような部下思いの元就だったからこそ、「この人のために命を捨てても惜しくない」 という部下も育ったものと思われる。
~同じような話を8月19日に『「武名を上げる」と「家名の存続」』 と題して紹介しました~コチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12298610565.html
5月18日 光が丘 四季の香公園(東京・練馬)にて撮影