「武名を上げる」と「家名の存続」 | 人差し指のブログ

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「戦国武将の手紙を読む」

小和田哲男 (おわだ てつお 1944~)

中央公論新社 2010年11月発行・より

 

 

彼らが徹底抗戦をしたのは、織田軍の攻撃をできるだけ魚津城でくいとめようという、魚津城の守備を任された責任感のようなものもあったと思われるが、それとともに、「どうせ死ぬなら、後代に名を残すような戦いをして死にたい」 という思いもあったのではないかと考えられる。

 

 

 

 『景勝年譜』 などによると、十二名の城将たちの切腹シーンは実に壮絶なものであった。

 

 

彼らは、あらかじめ板札に自分の名前を書き、耳に穴をあけ、その板札を鉄線でゆわえつけ、切腹していったという。

 

 

要するに、首実験のとき、その首が誰のものかがわかるようにして死んでいったことになる。

 

 

すさまじいばかりのパフォーマンスといわざるをえない。

 

 

ただ、この行為を自己顕示欲のあらわれとか、スタンドプレーとみたのでは事態の本質をついたことにはならない。

 

 

こうした行動に武士たちを駆り立てる戦国の論理が働いていたのである。

 

 

実は、名誉の戦死は、子孫への遺産でもあった。

 

 

よく 「武名をあげる」 というが、これは本人の武名だけでなく、家名をあげることにもなったのである。

 

 

みごとに戦い、壮烈な死をとげ、名をあげることが戦国武士道の一つと認識されていたことをみておく必要がある。

 

 

 当時の武将たちが、「城を枕(まくら)に討死」 ということを厭(いと)わず、むしろ進んで死んでいったとの印象を受けるのは、

それが家名存続と連動していたからにほかならない。

 

 

事実、魚津城で死んでいったこの書状に連書した十二名の子孫は、

ほとんど近世米沢藩上杉家の重臣として遇されていったのである。

 

 

 

 

4月28日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影