「 歴史小説の読み方 吉川英治から司馬遼太郎まで 」
会田雄次 (あいだ ゆうじ 1916~1997)
PHP研究所 1986年1月発行・より
ここで私は、明治維新と明治期における薩摩(鹿児島)藩、薩摩人に
たいする日本人の評価というものを考えてみたい。
薩長土肥の藩閥政治といわれながら、とくに嫌われ槍玉にあげられて
いるのは鹿児島出身者である。
彼らは芋、芋といわれて嫌悪の対象になった。
現在その傾向はとりわけ強い。
テレビの維新・明治物でも役人として威張りかえっている俗物は大抵
みな薩摩っぽ、それが 「オイドン」 とか 「ヨカ ヨカ」 とか威張っているということになっている。
実態はそうでもなかった。
薩摩人は政治家、とりわけ官僚行政家や官僚向きではない。
それに西南事変で、優秀な人材の大半を失ってしまった。
政界には鹿児島閥は今日に至るまでほとんどない。 財界でもそうだ。
明治政府の中枢を占めたのは伊藤博文、山県有朋をはじめ今日まで
長州勢が圧倒的である。
西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛など薩摩人はみな軍人だ。
薩閥というのは、軍部、それも海軍だけに見られた現象といってよい。
だのになぜ鹿児島人だけが明治時代において悪の象徴、自由民権運動の弾圧者として出てくるのか。
そこには二つの歴史的理由があると私は見る。
一つは、幕末に薩摩藩が江戸の藩邸に浪人を集め、放火、強盗など
江戸中を荒らし回らせた。
これは西郷らによる江戸を社会不安に陥れて明治維新を早からしめようという、いわば権謀術数の一つだったが、浪人たちはわざと薩摩弁を使い
藩士らしく見せかけたという。
これが尾を引いたことである。
もう一つは川路利良と かれが大成した警察組織にある。
川路は薩摩藩士で警察制度の創始者だが、彼の理想と行動は司馬遼太郎著 『翔ぶが如く』 に見事に書かれている。
川路はフランスに留学してポリス制度を学び、中央集団国家の確立には合理的警察制度を完成させることが不可欠の前提になるとし、大久保利通と協力、軍隊と明確に区別した警察権というものを内務省につけ日本の警察制度を生み出した人物だ。
と同時に、特高警察の生みの親でもある。
この川路は、四十歳幾つで病気に斃れたが、本当は自由主義者なので
あった。
だが、大久保利通と同じく、列強と伍して行くにはどうしても日本は国家を強くしない限りやられてしまう。
国家を強くするには中央政府の強化必要だ。
ために警察制度をつくり一切の自由主義をしばらくの間、圧殺する。
中央政府がしっかりした組織となり足場ができ、国家が外圧におしつぶされなくなったとき、そういう社会になったとき初めて国民は自由というものを かち得る権利を持つのだ。
川路とはそういう信念を持って邁進した人物だったのである。
この川路は薩摩人だったから、侍救済のため薩摩の人々を警官に多数採用した。
巡査の代名詞のごとき 「オイオイ」、「コラコラ」 という呼びかけは、鹿児島であれば普通の呼びかけにすぎない、別に威張った物言いではない。
だが、一般的には巡査だけがやたら使ったために、差別的な呼びかけと
うけとられ、薩摩人への反感をつのらせる ことになったのだ。
とりわけ自由民権運動の弾圧、特高警察の動きが、恰好の官憲惡という宣伝材料になった。
それが戦後の軍人嫌いと一種の社会主義的な物の考え方の流行によって増幅されたと考えられる。
だが現在の薩摩嫌い、さらには(薩摩出身の作家の)海音寺(潮五郎)氏があれほどの情熱を以て信望した西郷隆盛という人物が戦前はともかく
戦後日本の、即ち現代人の 「師表」 になっていない ということにはもうすこし微妙な問題があると私は思う たしかに今も日本人には西郷隆盛は大いに人気がある。
だが、西郷隆盛を描いた本は売れない。
その逆のような吉田松陰の本はよく売れる。
その現象は、西郷は好きだがその真似はできない、したくないという戦後の日本人の心情があるといわねばならない 。
2018年12月25日に 『 土佐人以外は 「長宗我部が嫌い」 』 と題して安岡章太郎の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12426709167.html
奈良・東大寺大仏殿 8月13日撮影