「 歴史の温もり 安岡章太郎歴史文集 」
安岡章太郎(やすおか・しょうたろう 1920~2013)
株式会社講談社 2013年12月発行・より
ところで昨年、私は高松市で催された四国文化の講座で、「四国人気質」
という課題で何か話せといわれ、右のようなことを前置きに、歴史というものはその土地に住む個々人の心情に宿ったものから作られるという例に明治維新を上げて、土佐の勤王党というものも、その根は関ヶ原の合戦で徳川氏に亡ぼされた長曾我部の遺臣の怨恨にあるという話をした。
そこまでは、まあ良かった。
しかし、土佐人の気質というものは、いまでも自分たちが長曾我部の血を引いているという意識があって、それが核になって出来上がっているというような話をしはじめると、聴衆の雲行きが何となく怪しくなってきた。
だいたい講演会では 「ご当地」 といって、その土地柄と結びついたことを何か喋って、そこから自分の主題に話を展開して行くのが定石のように言われている。
高松なら菊池寛の故郷だから、菊池寛と歴史というような話でもすればよかったのだが、私はなぜか大平前首相のことを憶い出し、その容貌について、
「あの手の顔は、土佐人に多く、あれはきっと長曾我部氏が四国全土を
統一したとき、土佐から行った兵隊 いわゆる一領具足 の血液
が、ご当地にながれて根づいたものかと思われます」
といった。すると、そのとたんに聴衆の間から不満の声がザワめき立ち、なかには眼を怒らせと、いまにも椅子から立ち上がろうとする人さえいた。
私は、ようやくにして気がついた。
高松に限らず、長曾我部といえば土佐以外の四国の各地で、最も怖れられ、かつ忌み嫌われている名前なのである。
いや、土佐の中でも幡多(はた)郡など、西へよった地方では長曾我部氏を敵視して、
「高知の人はガイなきに(乱暴だから)・・・・・」
と、暗に自分たちは高知県のなかに含まれていても、京都からきた一条氏の子孫であって、野蛮な高知の人間とは関係がない、といわんばかりに言ったりするくらいのものだ。
まして県境をこえた愛媛、徳島などへ行くと長曾我部氏の不評は甚だしい。
愛媛出身である大江健三郎の話では、母親が泣く子を叱るとき、「チョウソカベがくるぞ」というのがキマリ文句で、大江氏自身、チョウソカベときくと、いまでも心底に不吉な動揺をおぼえるということを、その小説 『万延元年のフットボール』 の中で述べている。
しかし、何といったって、長曾我部氏が活躍したのは戦国時代のことで、その後、豊臣氏に敗れ、徳川家康にも敗れて、領地を全部没収され、慶長年間の末には、もうその一族も家臣も散りぢりに何処かへ消えていまった存在ではないか。
だが、そんなことを言っても、はじめに 「長曾我部の血をひいていることが土佐人気質の核」 だなどと言ってしまったあとでは効果はない。
止むを得ず私は、
「長曾我部氏といいましても、それは何処からやってきたか、その出自
は歴史上は明らかにされていないことでありまして、要するにそれは土
佐人にとって一つの伝説、一つのアイドルと申しましょうか・・・・・」
などと述べ立てたが、言えばいうほどシドロモドロになるばかりであった。
やがて質問の時間になると、つぎつぎといろいろの人が手を上げて、或いは長曾我部氏の侵略性について述べ、或いは長曾我部氏が四国の寺院を破壊したまわったことと讃岐の琴平信仰のことに触れて、それを土佐人としてどう考えるかなど、(安岡は高知生まれ・人差し指)返答に窮する問いが、矢継ぎ早に発せられたのである。
私は、壇上に立って昏惑をおぼえながら、初めて自分が土佐人以外の何者でもないことを意識させられ、一刻もはやく高知県内に逃げこんで、皆にこのことを訴えたいような気分に、次第に追いこまれて行った。
2016年7月1日に~関ヶ原の戦いと明治維新・「土佐の場合」~と題して司馬遼太郎の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12168231460.html
12月3日 青葉台公園(埼玉・朝霞)にて撮影