関ヶ原の戦いと明治維新・「土佐の場合」 | 人差し指のブログ

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関ヶ原で敗北した側の集団から明治維新のエネルギーが出てきたということは、一見因果応報のようですが、

そうではなくて関ヶ原というものがその後の歴史に対して非常に大きな重圧力をもったということです。

たとえば土佐の場合では、長宗我部氏が敗滅して、土佐になんの関係もなかった山内氏がやってきた。

土佐は長宗我部氏が四国征服をしたころにはすでに一種の国民皆兵制で、土佐人はすべて長宗我部侍といってもいいような形になっていたわけです。

これは日本中どこの藩、どこの土地でも経験しなかったことで土佐だけです。

このために、江戸三百年の間、土佐の郷士(ごうし)、庄屋階級以下は自分達は負けた側であって、山内氏というのは進駐軍であると考えていました。

ですから山内氏を自分達の殿様・主君であるとは思いにくかった。

で、結局どこに忠誠心をもっていっていいかわからなくなって、いわゆる天保の庄屋同盟ができ上がったわけです。

これは自分達の主人は天皇であるという、当時としてはちょっと考えられないようなラディカルな過激思想です。

山内家は米ができる部分である土の上をもっているだけで、土の下は天皇のものであるという、一君万民思想というか平等思想というか、後になって自由民権運動にまで発展する思想です。

それを天保年間に土佐の庄屋連が秘密に申しあわせたという異様なことは、やはり関ヶ原の重圧ということを考えないとでてこない

「司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅 3    徳川家康~高田屋嘉兵衛」
司馬遼太郎(しば りょうたろう1923~1996)
中央公論新社 2010年11月発行・より


光が丘・四季の香公園の薔薇(東京・練馬)5月9日撮影

薔薇