「 人と出会う 1960~80年代、一編集者の印象記 」
岡崎満義 (おかざき・みつよし 1936~)
株式会社 岩波書店 2010年5月発行・より
松本清張さんとは二回、海外旅行をした。
最初は1967(昭和42)年の大晦日に羽田を発ってキューバへ行った。
(略)
ハバナ空港に降り立ったとき、思いがけない人に会った。
ノンフィクション・ライターの竹中労さんである。
この人には何度か取材をしたことがあり、むこうも私の名前を覚えていてくれた。
竹中さんのそばにいた日本人女性は、昔の有名な海軍大将・山本権兵衛の孫娘で、山本満喜子さんといった。
「満喜子さんはキューバ暮らしが長く、カストロ首相をはじめ党、政府の要人にも知り合いが多い。何か役に立つことがあるかもしれないよ」
と紹介してくれた。
初めての異国で、頼りになる味方に出会ったような気がして、挨拶をかわしていると、清張さんがしきりに私の尻をつつく。
私が親しそうに竹中さんと話をしているのが、なぜか気にくわなかったようで、早く代表団一行とハバナホテルへ行こう、とせきたてた。
ホテルに着いて、清張さんの部屋でひと息ついていると、
「君は竹中労と知り合いなのかね」
いかにも不快そうな声で訊かれた。
「ええ、週刊文春編集部のとき、芸能関係の取材などで、何度か話を聞いた人です」
「君、ああいう悪いのとつき合ってはいけないんだよ。商売柄、いろんな人とつき合うのがジャーナリストだが、長くつき合うのは、筋のいい人間にしぼっていかなければいけない。筋の悪いのと親しくしていると、目が曇ってきて、真実が見えなくなる。そうなったら、ジャーナリストとして失格だよ。君はまだ若いのだから、よく気をつけなさい」
こんこんと諭された。
そのときには、竹中労さんがどのように 「筋が悪い」 人なのかについての説明はなかった。
あとでわかったことだが、何年か前、週刊誌 『女性自身』 に、匿名の文壇ゴシップが載った。
清張さんがヨーロッパ取材旅行をして帰国の途中、ベイルートに立ち寄った。
小説 「砂漠の塩」 の映画化が進んでおり、主演女優新珠三千代さんがその地でロケ中だった。
清張さんは足をのばして、戦中見舞いに訪ねたのだ。
やがて長い海外ロケも終わり、映画が完成したあと、清張さんは新珠さんの労をねぎらって、ダイアモンドの指輪をプレゼントとして持参したが、受け取ってもらえず、すごすごと引き揚げた、という少々意地の悪いゴシップだったようだ。
「主演女優に原作者がダイアモンドの指輪を贈った、という程度のゴシップなら、まあ有名税として笑って読みすごせる。しかし、受け取ってもらえず、肘テツをくらって帰った、とまでひどいウソを書かれては、これは許せない」
清張さんはこのゴシップを書いたのは誰か、と光文社に強く迫った。
匿名記事は編集部の責任だから、編集長が謝りたい、と言うのに対して、清張さんはそれに同意せず、あくまでゴシップ執筆者の詫び状を要求、それがきき入れないなら、カッパノベルスに入っている小説をすべて引き揚げる、と押しに押し、ついに 「竹中労」 という名前が出た、ということだった。
これにはさらに第二幕があった。
カストロ首相との対談は空振りに終り、がっかりして帰国してから二ヶ月ほど経った頃だったか、月刊誌 『話の特集』 に、竹中労さんの 「キューバ紀行」 の連載が始まった。
その中に、こともあろうに、清張さんと私がハバナ市内のモーテルに、女をつれてしけ込んだ、と書かれていた。
日本大使館で下働きをしている肥田野さんという老人に案内されて、社会主義国にモーテルがあるのか、と見学に行ったのはたしかだが、革命の匂いの残る国で、しけ込むといった危険な行動をとるわけがない。
東京の仇をキューバで討つわけか、と思ったが、その部分は短い記述だったので、清張さんには黙っていようと思った。
ところが、すぐに清張さんから電話がかかってきた。
「君、『話の特集』 を読んだかね。また、あの男がありもしないことを書いている。あんなことを書かれて、君は平気なのかね。早く編集長にかけあって、訂正してもらいなさい」
編集長の矢崎泰久さんにわけを話して、次号で訂正してもらい、一件落着となった。
竹中さんの仕事の中には、美空ひばり伝のような傑作がある。
この人にはどこか八方破れの、一匹狼のアナーキスト風な無頼な雰囲気があって、そこが魅力でもあった。
しかし、清張さんはそういうところが、逆に嫌だったのかもしれない。
12月4日 和光市内(埼玉)にて撮影