【0】生死一如/正負一如 ~絶対的矛盾の自己同一~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

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〇【7-⑮】「歴史的存在論」について【Ⅰ
 

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FFTV 新型コロナとフィリピンの人権状況
:ゲスト/波多江秀枝さん(FoE Japan)



FFTV コロナの影で
~種苗法の改悪(ゲスト:印鑰智哉さん)




※以下の引用における太字・色彩などの強調は、引用者によるものです。

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〈[コラム1] 生死一如

これは、本書[黒崎宏『悪の起原』]を書いているときに、
自然と私の脳裏に浮かんでいたイメージである。

              *

山奥に老婆が1人住んでいた。
ある夜のこと、トントントン、と戸を叩く音がして、

「お願いします」

という女の声が聞こえた。
隙間から覗いてみると、若い女が戸口に立っていた。
老婆は戸を開けた。

「どうなさった」

「道に迷って難儀しています。
一晩泊めていただけないでしょうか」

「ようございますとも。どうぞどうぞ」

「では。
私は生みの女神でございます。
どうぞよろしく」

老婆は戸を閉めた。ところが、きちんと閉まらない。
よく見ると、女神から紐が一本のびていて、
戸の隙間から外へつながっている。
老婆は戸を開けてその紐の行き先を見た。
するとそこに、真っ白い死神が静かに立っていた。
視線が合った。

「おお怖い」

老婆はぞっとした。
縁起でもないと思い、そばにあった斧で、急いでその紐を断ち切った。
すると死神は、何の抵抗をするでもなく、
どさっとそこに崩れ、土塊【つちくれ】になってしまった


「やれやれ」

老婆は急いで戸を閉め、鍵をかけて中に入った。
すると、哀れにも、生みの女神も同じように、土塊になっていた、とさ。

 老婆は、死神も一緒に招じ入れるべきであったのだ。”
(黒崎宏【著】
『悪の起原』
2017年、春秋社、98-99頁)

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‟「阿弥陀さまよ、どうぞ自分の煩悩を皆、とってくださるな、
これがないと、あなたのありがたさが、わかりませぬ

と、真宗の妙好人(みょうこうにん)はいうのである。
煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)の片影を
ここに認めうるではないか。
人間としての自由は、木石などの自由と違う、
また極楽や天界の住民とも違う。
仏は涅槃に入るのをやめて、
菩薩のまま この娑婆界に生死するという。
涅槃に入ったり、天界に生まれたりしては、人間の自由はない。
人間は
煩悩に責められる娑婆にながらえて、
「不自由」のなかに、自立自由のはたらきをしたいのだ。
ここに人間の価値がある。
人間は
積極的肯定の上に卓
(た)っている存在である。

 人間には
自分の自由と不自由とを
自覚し分別し煩悩
(はんのう)する自由がある。
これは他のいかなる存在にも見られぬところである。
その上、その分別性のゆえに、
他の自由を尊重し、他の不自由を共感する。
煩悩
(はんのう)する(この場合ボンノウとよまぬことにする)
つまり人間には、自分の外に出て
また自分を見ることができるはたらきがある。
このはたらきの故に、人間は、
自分らの社会的集団だけでなく、
自分以外の他の生物でも無機物にでも
何でも一つにした絶大の社会集団を認める事ができる。
これを仏の煩悩という。
大慈大悲ともいう。
弥陀の本願の出処はここにある


 このゆえに、人間を
他の生物に比べて見てばかりいられなくなる。
弱肉強食とか適者生存とか優勝劣敗などという生物界の現象を見て、
人間も生物だから、れでもよいのだなどという人がある。
地獄は 
このような人々のために用意せられてあるのだ。
生物界の進化論は、人間界に、
その部分を応用するわけにゆかぬ。”
(鈴木大拙【著】/上田閑照【編】
「自由・空・只今」、『東洋的な見方』所収、
1997年、岩波文庫、69-70頁)

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【第1章・概要】

技術の進展の累積的な結果によって、
人間が、
同時性・直接性・相互性という性質を持つ古い倫理に変わって、
すべての生物の保護と未来世代の擁護という新しい倫理に直面する

という同一のモチーフが、本書の各章で展開されるが、
第1章のすべての節でも同じモチーフが
各節ごとに少しずつ視点を変えて見直されながら反復されていく。

Ⅰ.ソフォクレスの『アンティゴネー』の中には
「人間にまさって驚くべきものはない」という合唱歌がある。
人間は大地を掘り起こし、鳥、魚、獣を取り、家畜を支配する。
しかし、人間は自然の自己回復力を破壊することはできなかったし、
また人間自身が死を免れられないという限界を背負っていた


Ⅱ.ところが技術的行為の範囲が拡大した結果
行為の直接的な結果だけを評価する従来の倫理学が
無効になってしまった
人間の行為が、
自然秩序に永続的な損害を与えないか、
同世代の範囲を超えて未来の人間に影響を与えないか。
そういうことが問われるようになった
しかし、こうした吟味に耐えるためには、人間は
道徳的意志を持つだけではなくて、知識を持たなくてはならない。

Ⅲ.人間の行為の本性が変わったので、
地球が壊れやすくなった。
人間は「地球の生物圏全体」を、責任の対象にしなくてはならない

しかも個々の行為とその結果ではなくて、
「因果系列の累積的な性格」を考慮に入れて、
科学技術の世界変革を評価しなくてはならない。
知ることが新しい義務となる

Ⅳ.技術が累積的になり、人工的環境が拡張され、
拡張が自己目的化されると、
個別的な行為ではなくて、
生産という全体的な行為と政治が道徳性の領域となる。
人工領域は島ではなくなり、自然領域が島となり、
世界そのものが滅びる可能性が発生している。
世界に人間が存続するという世代間の義務が発生する


Ⅴ.カントの「定言命法」が要求する無矛盾性は、
世代間倫理の尺度にならない
新しい命法
「汝の行為のもたらす因果的結果が、
地球上で真に人間の名に値する生命が永続することと
折り合うように行為せよ」
と命ずる。

Ⅵ.従来の倫理学にも、未来倫理が存在した。
宗教的な千年至福説では、
来世の幸福のために現世の幸福を犠牲にする

ぺリクレス改革のような政治的プランでは、
最善の国家をめざす計画を立てて
共同体の将来の幸福を追求する。
マルクス主義的ユートピア主義では、
現代世代を未来の目標の手段とする。
これは進歩という事実から生まれた世俗的終末論
である。

Ⅶ.技術が人間そのものに適用され、
次のような可能性に人類は直面する

細胞生物学によって死を制御し、世代交代の存在しない社会となる。
学校生徒の学習意欲を薬物によって高め、
人間の攻撃性を脳への電気刺激で抑制し、
快楽中枢を電気的に刺激する。
遺伝子操作で種を自分の計画通りに改善する。

Ⅷ.技術が累積して
理論的な極限問題に現実性が与えられるようになる

たとえば
「地球上に何が生息すべきで、何が生息すべきではないか」
というような巨大な規模の問題が
現実的な意味を持つ。
遠い未来への倫理学が要求されると、
代議制度のもとで誰が未来を代弁するか という難問が生まれるが、
どのような価値の知識が重要か という問題に帰着する。

Ⅸ.技術の集団的、累積的な歩みのもたらす行為の新しい可能性が
新しい倫理を必要としている
。”
(ハンス・ヨナス【著】/加藤尚武【監訳】
『責任という原理』
2000年、東信堂、ⅲ頁3-4頁)

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“結局プロメテウス〔=技術〕は、
鎖を解かれることになった。
その彼〔プロメテウス=技術〕に今では、
科学がこれまでに誰も知らなかったような様々な力を与え、
経済が休みのない原動力を与えている
。”
(ハンス・ヨナス【著】/加藤尚武【監訳】
『責任という原理』
2000年、東信堂、ⅲ頁)

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人間の不完全性と意味

 時間の中で生きている人間の本質的な有限性は、
さきのことえであっても
いずれ死がおとずれるという事実にあらわれていますが、
この時間的な有限性が、
人生を意味のあるものにする唯一の有限性ではありません。
ひとりひとりの人間が
他の人間といっしょに生きているという有限性
もおなじように、
ひとりひとりの人生を無意味なものにはせず、
むしろそもそも意味のあるものにするのです。
私がいっているのは、人間が不完全であり、
たとえば
その人のさまざまな素質によって決まっている精神的な制約を持っているという事実のことです。
(中略)
ひとりひとりの人間は、たしかに不完全ですが、
それぞれ違った仕方で、「自分なりに」不完全なのだということを
忘れてはなりません。
その人のやりかたで不完全なのはその人だけです。
こうして、積極的な表現をすると、
ひとりひとりの人間が、
なんらかの仕方でかけがえのなく、
代替不可能で、代わりのいない存在になる
のです。
(中略)
 さきほどの議論で、
死が、
生きる意味になくてはならないものであること
がはっきりしました。
死は、一回きりの人生と私たちの責任存在を基礎づけているからです。
おなじように、ここで、
人間の不完全性が生きる意味になくてはならないものであること

はっきりします。
不完全性は、いまでは肯定的な価値と考えられます。
私たちのさまざまなあり方は不完全であるからこそ、
唯一のものになること
が明らかになります。

 けれども、
ただ唯一であるそれだけでは、
唯一であることは肯定的な価値になりません。
ひとりひとりの人間が唯一の存在であることに価値があるのは、
人間の共同体という上位におかれた全体に関与することによって
です。
(中略)
唯一のあり方に価値がありうるのは、
ただ、自分だけで唯一であるのではなく、
人間の共同体にとって唯一である場合だけです。
(中略)

 人生が一回きりで ひとりひとりの人間が唯一であること、
 しかもあるものにとって唯一であること、
つまり他者にとって、共同体にとって唯一であること

一つの公式にまとめてみましょう。
それは、
人間の「おそろしくもすばらしい」責任、人生の「重大さ」
私たちの注意を促すような公式です。
そうすると、
タルムードの創始者のひとりであるヒレルが
およそ二千年前にモットーにした言葉を
引き合いに出すことが出来ると思います。
その格言というのはこうです。

「もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。
しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、
私は何であろうか。
そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか。」

「私がしなければ」というところに、
各個人が唯一だということが含意されています。
「自分のためにだけにするなら」というところに、
唯一であってもなにかに尽くさなければ、
価値がないし無意味だということが含意されています。
「いましなければ」というところに、
そのときどきの状況が一度きりだということが含意されています。



生きる意味と価値

 ここで、生きる「意味」の問題について
いわなければならなかったことを まとめてみましょう。

 生きるとは、問われていること、答えること
 ――自分自身の人生に責任をもつことである

ですから、生はいまや、
与えられたもの(ゲゲーベンハイト)ではなく、
課されたもの(アウフゲゲーベンハイト)であるように思われます。
生きることはいつでも課せられた仕事なのです。
(中略)

 けれども、ここで、
つぎのことを付け加えなければなりません。
宗教的な人間は、生きている実感、
いわば「存在理解」が優れていて、もう一歩先に進みます。
人生を仕事と心得ている人たちをしのぎます。
課された仕事だけではなく、
いわば、仕事を「課す」
または「課した」決定機関である神格をも知っています。
いいかえれば、宗教的な人間は、
人生は神が課した使命だと知って生きている
のです。

 最後にまとめていうと、
生きる「価値」の問題に対しては
どんなことをいうことができたでしょうか。
ここで明らかになった見解は、もしかすると、
ヘッベルの言葉で
もっとも適切に表現できるかもしれません。
彼はいいます。

人生それ自体がなにかであるのではなく、
人生はなにかをする機会である!
」”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】
 /山田 邦男、松田 美佳 【訳】
『それでも人生にイエスと言う』
1993年初版発行、春秋社、52-58頁)

――――――――――――――――

“意味は
三つの主要な方向で実現されることができます。
人生を意味のあるものにできるのは、
第一に、
なにかを行なうこと、活動したり創造したりすること、
自分の仕事を実現することです。
第二に、
なにかを体験すること、
自然、芸術、人間を愛することによっても
意味を実現できます。
第三に、
第一の方向でも第二の方向でも
人生を価値のあるものにする可能性がなくても、
まだ生きる意味を見いだすことができるのです。
自分の可能性が制約されているということが、
どうしようもない運命であり、
避けられず逃れられない事実であっても、
その事実に対してどんな態度をとるか、
その事実にどう適応し、
その事実にどう対応し、
その事実に対してどうふるまうか、
その運命を自分に課せられた「十字架」として
どう引き受けるかに、
生きる意味を見いだすことができる
のです。”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】
/山田 邦男、松田 美佳 【訳】
『それでも人生にイエスと言う』
1993年初版発行、春秋社、72-73頁)

―――――――――――――――


ジェリー・マンダー
‟科学技術を礼賛する人々は、
科学技術のおかげで
私たちの生活水準が上がったという。
移動が速くなり、選択の幅が広がり、
余暇が増え、贅沢ができるようになった。
しかし、それによって
人間の満足感、幸福、安全、あるいは生命力が
向上したかどうかは別問題
。”

――――――――――――――――――


いま、
今般の新型コロナウィルスの
世界的な、また諸国での拡大感染という
このタイムリーな時期を受けて、
――と申しましても
そう早くに終息するものではないはずですが――
大野和興『日本の農業を考える』の周りで
これまで、このテーマでの記事を書き連ねて来、
書き続けていく内に、
中断していた〈監視-AI-経済協定-資本〉のテーマでの自分にとっての中核の関心事に近づいて行き、
〈監視-AI-経済協定-資本〉でも扱っていた
科学技術のテクノロジー至上主義》や、
また、
統計学や政治経済(学)をふくめた、
フーコーの‟生権力”そして‟統治性”といった、
今の私たちの社会や資源や人々を管理差配する為の、広義の種々のOS的なテクノロジー》を、
〈今の私たちの社会を重畳的に構成する諸書式〉として、ひとつ一つ分けて剥がして分析できるものならば、ひとつ一つ剥がして看る必要が出てきているのではないか?
と今般の《新型コロナウィルスの拡大感染》と
それによる《社会の機能停滞》とを受けて
思うのであります。


前回記事】での
近代「合理」主義「効率」主義帰結としての、
皮肉で矛盾した《ブラジリア症》の光景を踏まえて、
キリスト教的な哲学者の瀧澤克己による根源的な批判と、それに対する西田幾多郎による応答と、
それを受けての鈴木大拙からの助言を得て磨かれて以降の、
最晩年の西田幾多郎による「絶対矛盾の自己同一」
《ブラジリア症》という現象や
アーレント『人間の条件』で

問題提起や指摘されたが、
今まで持ちこされてきた《現代世界ならではの問題》
また今般の《新型コロナウィルス》など、
今の私たちに突きつけられた問題を
見つめなおし考え直すのに、
参考になるのではないか?と
黒崎宏『悪の起原』を開いては思い、
最晩年の「場所的論理と宗教的世界」
あらためて読み始めたのですが、
(【次の記事】を更新する上でも
「場所的論理と宗教的世界」という論考は
重要のように思えて読んでいるのですが)
すぐに消化できるものではなく、
いま咀嚼しながら読み進めている最中であります。


〈ただいま、ここに、
この世界(のあり合わせ)を身にまとって具体的に、
私も、あなた様も、

(好き嫌いは別にして)共に生きている〉
という意味での、
歴史的な〈世界内存在〉という事情に加えて
最晩年の西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」には、
先の瀧澤克己からのラディカルな批判と

鈴木大拙からの助言とを得て、
「不断煩悩即菩提」のような

逆対応的な矛盾」の要素を、
その内容に、新たに得ており、
《今般の行き詰まり》に直面しての
この「逆対応」方面への考え方への転換
この複雑系的なこの地球のなかにおいて
その視野や計算には限界がある人間による
従来の〈効率主義や合理化〉的態度
の前に提示する、
代替的なOSの1つになるのではないか?
と思うのであります。


何故そう思うのか?”でありますが、
アーレントの『人間の条件』で、
人間の進展や科学技術的な離陸》による
思わぬ皮肉的な事態への直面》を、
問題提起していた記憶があるからです。

「人間の条件」というタイトルを選んだのは、
人間は条件づけられる存在であるが、
〈社会のかたち〉のほかに
これまでずっと、
その人間を条件づけてきた本源として、
〈地球という拘束の影響が、
重力のように纏わりついて来た〉ワケだが、
その地球という拘束や生命(生老病死)の拘束から
科学技術と、
経済という資源分配テクノロジーの差配とをもって、
(一部の)人間たちは《解放されたがっている》が、
〈その不都合なもの〉
除去しようと躍起になっている営み》が
翻って皮肉にも、
もはや《‟近代”ですらない現代世界》という
《緊急の問題や難問など、
私たちに突きつけられている現代的な不安》に
直面
させられている(と読解しているのですが)
という問題提起が書かれたあったからです。

ただいまの《新型コロナ危機の発生》は、
(あまり自分は消化できていない、
ドゥルーズ=ガタリの概念である)
自然によるものでも、
自発的に発生したものでもなく、
《この世界にある様々な諸要素や諸要因が
重なり合っての
〈いまの様相の欲望の‟アレンジメント”〉が
招いた事態》であったり、
また
〈いまの社会を運用するOS的なる‟ダイアグラム”〉が引き起こすことになった事態
と言えるかもしれません
――また、この新型コロナ禍においての
“とにかくカネを刷れ”という対抗案も、
じつは〈また別の欲望の‟アレンジメント”〉
かもしれません。
しかし、
いま様々に困窮している方々への支給や
種々の支払い免除や猶予や減免措置などは、
生存救助のための喫緊に必要な措置だと
思います――
・・・・・・が、
その〈新型コロナウィルスで世の中が停滞している、
この世界に、ただいま、生きている〉
だけでなく、
私たちは、
《この新型コロナウィルスの流行を受けて》、
どのように生きて行かざるを得ないのか」、
それに当たっては、
どのような臨み方が、無理がないか
が問われているのではないでしょうか?


いま、西田幾多郎
「場所的論理と宗教的世界観」を
読ませてもらっている間に、
‟反-生産的”に高樹には映る、
呪縛的》なる
いまの欲望の‟アレンジメント”のかたち〉として
岩波書店『世界』2014年3月号に
掲載された対談の、
田中洋子×広井良典
「拡大成長の呪縛を どう断ち切るか
~地球資源、人的資源の決定的限界に向き合う~」

を御覧いただきたいと思います。


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