【7-⑮】「歴史的存在論」について【Ⅰ】 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
【新】ツイッター・アカウント☞https://twitter.com/IvanFoucault
徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


追加】翁長雄志の『言葉』 ~ハンストという『言葉』、投票実現という『言葉』、座り込みという言葉
〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●
情報などお知らせ
〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●

【関連記事】
【16-7】「価値」考 ~インド伝統農業に降りかかった《根源的独占》~【AI-メガFTA-資本】
改訂【19-⑨】〈分業社会〉に突きつけられた《福井豪雪》【監視-AI-メガFTA-資本】
【12-④】《現代テクノロジーと効率主義による貧困と死角》【~監視社会=AI=メガFTA=資本~
【12-①】《根源的独占》 ~人工知能=メガFTA=資本~
【12-②】効率化&コスト格差&市場淘汰による「根源的独占」~ビッグデ=AI=メガFTA=資本~
【16-3】ヴァンダナ・シヴァ《開発と経済成長、資本主義の勃興と、その技術的構造の隠れた歴史》


〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●
前ページ】などで出てきた“歴史的存在論”とは、
どういう内容のものか、を、掴めるのではないか、
と思える引用文の数々を、
このページと次ページと次々ページで、
並べていきます。


※引用文中の太字・色彩・下線での強調は、引用者によるものです。
また、〔〕による付記も、引用者によるものです。
〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●

“ミシェル・フーコー
――ピエール・リヴィエールとエルキュリーヌ・バルバンとのあいだは、時間にすれば半世紀ですが、
距離としてはほんの数キロと離れていません。
ある意味で、2人とも
自分たちが生まれた環境と社会階級に刃向かった人間でもあるともいえる
のです。
わたし〔フーコー〕は、ピエール・リヴィエールの行為が
――母親殺しとほかの3件の殺人を含むものでありながら――
苦しみに喘ぐ精神や犯罪的精神の発露であるとは
考えていません。
たしかに、それは何かの表出であり、
エリキリュリーヌの場合と比べて信じがたいほどの暴力性をともなうものであったけれども、
ピエールが育ったノルマンディーの農村社会は
人間の暴力と堕落を
日常生活の一要素として受け入れていました。
その意味で、ピエールは 彼が属する社会の産物だった
それ
エリキュリーヌ彼女の属するブルジョワ社会の産物であったの
まったく同じであり、
また、われわれこの洗練され、機械化された環境の産物であるの
まったく同じこと
なのです。
罪を犯したあと、ピエールは
村の住民たちの手で簡単に取り押さえられてもよさそうなものでした。
しかし、住民たちは、
みずから法を司ることは共同体の義務ではない
と感じていた。
復讐者の役を引き受け、
状況を正す義務を負った人間がいるとすれば、
それはピエールの父であるとかたくなに信じていたのです。
批評家のなかには、
ピエール・リヴィエールに関するわたしの書物を
実存主義理論の再確認と見なす人もいた。
わたしからすれば、とんでもない話です。
わたしは、ピエールを、
彼が生きた時代の宿命のイメージとしてとらえている。
エリキュリーヌが、
19世紀末、つまり世界が流動化し、
何が起きても、どんな狂気が現われてもおかしくない時代の
楽観主義を映し出していた
のと まったく同じなのです。”
(「M・フーコー、『権力構造』を分析する哲学者とのコンプレックス抜きの会話」
 /菅野賢治【訳】
『ミシェルフーコー思考集成Ⅶ』
 2000年、筑摩書房、300-301頁)

―――――――――――――――――

“……〈批判〉とは、
普遍的な価値をもつ形式的構造を求めて実行されるものでは
もはやなく、
私たちが行なうこと、考えること、言うことの主体として、
私たちを構成し、
またそのような主体として認めるように私たちがなった由来である
諸々の出来事
をめぐって行われる歴史的調査として批判は実行される、
というものだ。
この意味において、この批判は、
超越論的ではなく、
形而上学を可能にするという目的を持つことがないのだ。
この批判は、
その目的性においては、
系譜学的(généalogique)〉であり、
その方法においては、
「〈考古学的〉なものなのだ。
〈考古学的(archéologieque)〉である
――超越論的ではない――というのは、
この批判が、
あらゆる認識、あらゆる可能な道徳の普遍的な構造を
解明することを求めるのでなく
私たちが考え、述べ、行うことを分節化している、それぞれの言説を、
それぞれに歴史的な出来事として扱うことをめざす
という意味においてである。
この批判が〈系譜学的〉であるというのは、
私たちに行いえない、あるいは認識しえないことを、
私たちの存在の形式から出発して演繹するのではなく、
私たちが今のように在り、今のように行い、
今のようの考えるのでは もはやないように、
在り、行い、考えることが出来る可能性を、
私たちが今在るように存在することになった偶然性
から
出発して、抽出することになるからだ。”
(ミシェル・フーコー【著】/石田英敬【訳】
「啓蒙とは何か」、
P・ラビノウ編『フーコー読本』、
ニューヨーク、パンテオン・ブック刊、1984年、pp.45-46
ミシェル・フーコー【著】
小林康夫/石田英敬/松浦寿輝【編】
『フーコー・コレクション6――生政治・統治――』
ちくま学芸文庫、2006年、386頁)
――――――――――――――――――――――――――――――

‟フーコーの問題は、
たとえば、
狂気のある種の定義が、
どのようにして1つの装置のなかに現れて1つの現実となったのか

すなわち、
当時考えられていたようなものとしての精神疾患という定義が、
狂人たちを扱うやり方に見られるような非常に現実的な帰結のすべてを
どのようにしてもたらすことになったか
を見抜くことである。

 1つの引用がすべてを語ってくれるだろう。


「政治と経済、これらは、
存在する事物でもなければ、誤謬でもなく、錯覚でもなく、
イデオロギーでもありません。
それは存在しない何かであるけれども、
しかし、真と偽とを分類する真理の体制に属するものとして
現実のなかに組み入れられている何か
なのです。」
(ミシェル・フーコー【著】/慎改康之【訳】
『生政治の誕生 ~1978-1979年度コレージュ・ド・フランス講義~』
筑摩書房、2008年、26頁)


 フーコーは、
一般に認められた諸々の真理が、
そのように社会的かつ制度的に作り上げられたものであること

確認する。
ニーチェとは異なり、彼は、
非=真理が人間存在の諸条件のうちの1つである
などと付け加えないように気をつける。
(引用者中略)
 ある種の真理の体制とある種の実践とが、
そのようにして知と権力の1つの装置を形成する

この装置が、
存在しないものを
現実的なもののなかに組み入れて、
それを真と偽との分断に従わせる
のである。
ここから、
フーコーが好むテーゼの1つが生じる。
それはすなわち、
諸原因ノ連鎖によって、歴史的生成の因果性によって
言説
〔認識の枠組み〕
1つの歴史的アプリオリとして課される
、というものである。”
(ポール・ヴェーヌ【著】/慎改康之【訳】
『フーコー ~その人とその思想~』
筑摩書房、2010年、155-156頁)

――――――――――――――――――――――――――――

“「歴史的」という形容詞を冠して使える哲学の用語は、
なにも「存在論」に限らない。
例えば、「アプリオリ」という哲学用語を
「歴史的」と形容した人物に、
医学と生命の歴史に関する大家で、
フーコーの恩師の一人でもあったジョルジュ・カンギレムがいる。
ミシェル・フーコーの「知の考古学」を、
ある特定の時代、ある特定の文化圏で成立していた「歴史的アプリオリ」を発掘する手法だと評したのは、
確か、彼〔カンギレム〕が最初だったように思う。
ちなみに、
この「歴史的アプリオリ」とは、
ある特定の「言説編成」の枠の中で課される、知識の可能性に関する条件、それが支配する特定の時代や文化圏に話を限れば、
あたかもカントの「総合的アプリオリ」のように、
押しも押されもしない「不磨の大典」として君臨している条件を指す。
とはいえ、それは、一方では、
あくまで
歴史の中で作られ、一定の歴史的な状況の影響から逃れられない条件でもある。
それゆえ、それはまた、
後世の歴史の進み具合によっては、徹底した変容を蒙り、
最終的には、根こそぎ取り除かれてしまうことが
ありえるような条件
でもある。
例えば、トーマス・クーンのパラダイムにも、
このような「歴史的アプリオリ」と相通じる考えが見て取れるだろう。”
(イアン・ハッキング【著】/出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘……【訳】
『知の歴史学』
2012年、岩波書店、10頁)

――――――――――――――――――――――――――――

それ自身、
きわめて特殊な歴史的経緯をたどって存在するようになってきた
われわれのものの考え方や振舞い方を一定の仕方で組織
する概念。

そのいくつかの例を右で見てきたわけだが、
これらの概念に注目することで見えてくるのは、
そのようなものになることが可能な存在、
そのようなことを行なうことが可能な行為
である。
改めて断るまでもないが、
このように、行為と存在を並べて考える点で、
ここに、実存主義の名残【なごり】を見て取ることができる。
実存は本質に先立つ
言い換えると、
われわれとは、
おのれ自身がなす行為によって作られる存在に他ならない、
というわけだ。
だが重要なのは
われわれが一見、行為を自由きままに選んでいるように見えても
それは実は、われわれにとって開かれた行為

言い換えると、
われわれにとって可能な行為の中からの選択にすぎない
という点である。
さらに言えば、
それが自由に選ばれたものであろうとなかろうと、
われわれの存在のあり方は、われわれにとって
ある時点で開かれた、一定の「可能な存在のあり方」の1つにすぎない
のである。
サルトルが『存在と無』の中で、
「いかにも」と言った感じのパリのカフェのギャルソン、
つまりウェイターの姿を描いた時代には
フランスの若者たちにとって、
そのような「パリのカフェのギャルソン」になることは、
実際に可能な選択の1つだった
のである。
だが三十路の声も聞こうかという頃、
カナダはアルバータ州の北部で
『存在と無』と格闘していた私にとっては、
「パリのカフェのギャルソン」は、
もはや(ウィリアム・ジェイムズの言葉を使えば)
「生きた」選択肢ではなかったのである。
反対に、
同時代のパリの若者にとっては
アルバータ州北部のツンドラ地帯にある産油地帯で働く可能性など、
まったくもって思慮の外だったに違いない

とはいえ、
当時の私にしてもパリの若者にしても、
鉄道や汽船を使って移動すれば、
そしてなによりも、今少しの冒険精神を発揮しさえすれば、
少なくとも住む場所を替えることぐらいは可能だった
はずだ。
だが、このような選択肢すら、
われわれ以前の多くの世代には開かれていなかったし、
来るべき将来の世代に対しても開かれ続けているとは思えない

実際のところ、
若いころの自分が享受しえた多くの選択肢は、
私の孫たちには開かれていない
のではないか

私はそう予想している。
もちろん、孫たちは、
逆に例えばハッカー

――ないしは、何であれ、それが数年のうちにとりうる未来形態――
への道を選ぶことはできる
だが、それは、
私が若い頃には、文字通り、
人間がとりうる1つのあり方ですらなかった
のである。

 フーコーは、『言葉と物』の最後の方で、こう記した。
特定の個人の経験には それ固有の構造が備わっているが、
その構造には、どの瞬間をとっても、
その人が属する特定の社会の体系において許される
複数の可能な選択肢が開かれている
(とともに、
複数の可能な選択肢が除外されている)。
逆に、
その各々の選択の瞬間において、その社会の構造は、
複数の可能な個人に遭遇する
(とともに、
複数の可能な個人とは出会うことがない

(Foucault 1970:380)。
ここでフーコーが書いていること、
すなわち、
個人の選択の可能性、したがってまた、個人のあり方の可能性」が、
歴史において、いかに生まれてくるのかを記述することこそが、
歴史的存在論のテーマなのである。
このような歴史的存在論に取り組む以上
歴史的なディテール〔詳細〕を一切捨象した、
思いっきり抽象的なレベルで話が終始する
はずはない
それは、
われわれが自分自身を組み上げていく仕方、
その複数の可能なあり方

明示的に書き出していく作業として遂行されるのである。
その自分自身の組み上げ方には、
「トラウマ」や「子供の成長」のように、
その軌跡を明確の追っていくことが可能なものもあれば、
問題とされる「組織する概念」が、
「客観性」や、さらには「事実」といったように、
もう一段階、一般的なものになった途端、
その軌跡の追跡が
曖昧模糊としたものにならざるをえないこともある。
いずれにせよ、歴史的存在論で問われるのは
「個人の人となりが いかに作られていくのか」
という問題なのではなく、
むしろ
「ある個人が自らの人となりを、言い換えると、
自らの「個人の経験」を作り上げていく可能なやり方の総体
なのである。

 これまで私がお話ししてきた内容には、
相対主義的な要素はみじんもないことを、
ここで強調しておかなければならない。

というのも、
新しい可能性を生み出すとは、
われわれの世界のいたるところに顔を出すようになった
新しいアイディアを
「客観的に」使用するための新しい基準を導入すること

他ならないからだ
〔つまり、新しい可能性やアイディアには、
客観的に正しい使用法」なるものが、つねにつきまとっている
それは、
各自が勝手に変えたり好きなように用いたりしてもよいものではない〕。

(引用者中略)

 皆さんには、私の話が、
通常の意味での歴史と哲学から大きくそれてしまったように
映るかもしれない。
確かに、
右で登場したカフェの生粋のパリっ子ウェイターなんぞは、
科学の対象というよりは
小説の登場人物というべき存在だし、
1950年代のアルバータで原油採取のために用いられていた
一種の応用地質学なんてのも、
石油会社の社史の1コマを飾りはしても、
20世紀科学史に麗々しく刻まれるような代物ではない。
でも、ここで思い出してもらいたいのは、
トラウマ学や「子供の成長」なる考えが、
「実証的な知」、
より詳しく言うと、
「人間のありように関わる一般的な事実や検証可能な真理の担い手」として振る舞っていたことを、
私としては大いに強調しておいた ということである。
それらは
現代社会に流通している「知」の断片の一つ

さらに言えば、
人が、その中で、ある特定のタイプの存在者
すなわち
「トラウマを抱えた犠牲者」や「成長途上の子供」として
作り上げられる鋳型としての知なのだ。
そのような知に取り込まれることで、
人は、
他人に対して、
ある特定の仕方で働きかけることができるようになり、
一定の責任と免責条項をともに備えた、
ある特定のタイプの道徳的な行為者ともなる
のである。”
(イアン・ハッキング【著】/出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘……【訳】
『知の歴史学』
2012年、岩波書店、54-57頁)

――――――――――――――――――――――

“フーコーは、
あくまで「私たち」が「私たち自身」を
いかにして作り上げるのか
、という問題にこだわった。
それに対して私は、
この「作り上げ」問題を より一般化して、
さまざまな「作り上げ方」のありようを探ってみようと思う。
その前に、ここで、
これませ私が取り扱ってきた事柄、ないし問題を
いくつか並べてみようと思う。
まずは、
われわれが今日「確率」と呼び習わしているものが、
いかにして姿を現してきたのか
、という問題
(Hacking 1975a)。
お次は、
かつてはわれわれにとって赤の他人中の他人にして
不可知なるものの最たるもの
だった「偶然」が飼いならされ、
人々を含めたさまざまな事柄の振る舞いを
予測しコントロールするための道具として、
いかにして、年とともに重宝されるようになったのか

という事例(Hacking 1990)。
また、児童虐待という痛ましい事態が、
焦眉の社会問題、数々の判例、
古き良き家庭像の嘆かわしい崩壊の象徴へと
姿を変えていった過程
またそれが、
核家族に引導を渡す目的で、
それに社会のさまざまな問題を押しつけるために
選ばれた贖罪の山羊【スケープゴート】として、
さらに家庭内への度重なる公権力、
特に警察権力の介入の口実として利用されてきたありさま
(Hacking 1995c,1992b,1991c)。”
(イアン・ハッキング【著】/出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘……【訳】
『知の歴史学』
2012年、岩波書店、8頁)

〇△◆□●△■◇●△■〇△◆□●△■◇●

〈【7-⑯’】「歴史的存在論」について【Ⅱ】に続く〉