立ち上がった成果は、立ち上がらなかった人々にも力を持つ(最終回)~女性差別「違憲裁判」闘争~追記 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

<生活保護>
老齢加算廃止訴訟 原告訴え退ける 秋田地裁

毎日新聞 3月23日(土)14時58分配信

70歳以上の生活保護受給者に上乗せされていた老齢加算」を
国が廃止したのは違憲だとして、秋田、能代、湯沢各市に住む4人が
3市に処分取り消しなどを求めた訴訟の判決で、
秋田地裁(棚橋哲夫裁判長)は22日、原告の訴えを退けた
原告側は控訴する方針。  
棚橋裁判長は判決理由で、
「厚生労働相の制度改定の判断には
裁量権の逸脱、乱用があったとはいえない」と指摘。
「違法と解すべき事情は認められない」と判断した。  
判決後、記者会見した虻川高範弁護士は
原告本人らが生活実態を証言したのに、
個々の生活実態について判断していない
」と批判。
原告の一人、秋田市の幸村レイ子さん(81)は
「がっかり。(提訴から)8年も頑張ってきたのに、
あまりにもひどい」と憤った。  
老齢加算制度04年から段階的に削減され、06年に廃止された
弁護団によると、同様の訴訟は全国9地裁に提起され、
1審判決が出たのは今回が7カ所目。
最高裁は昨年2月、廃止は合憲で適法との初判断を示し、
同4月には唯一の原告側勝訴だった福岡高裁判決を破棄
差し戻しを命じた
【田原翔一】
※強調は引用者。
―――――――――
<参考&関連記事>
使い分け「二極化不公平」税制の実態(補足チラシ用)
緊縮財政政策で、日本国内から米国債など海外投資に”91兆円”を召し上げた小泉政権!
自公政権・菅=野田政権の「不公平格差税制」の20年間を象徴する<小泉の発言>!
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マスコミが伝えない「格差不公平税制」と、その一角としての「一般消費税」(後編)
「<麻生政権バッシング>と<鳩山政権バッシング>との背景の違い」考
―――――――――――――――――――

 前回記事での浅沼判決内容を読むと、
小泉政権下での「社会保障削減」と、
浅沼判決》とが正反対
現在が、いかに残酷冷血的な政治運営であるか、
が実感できるのではないでしょうか。
――しかも、一般消費税増税社会保障削減分
負担増大分といった<一般国民への増税分>よりも、
<所得税最高税率の「引き下げ減税分」>の方が
上まわる”ので、「財政赤字削減」という言い訳ですら”成り立たない”――


さて、ぼくが
渡辺治『憲法9条と25条・その力と可能性』で
学ばさせていただいた事柄や歴史的背景の数々で、
個人的に
ほんとうに多くの人びとの目に触れてもらい、
”出会ってほしい
”事実が
今回のブログ記事の内容でして、
その一心で、更新をしてきました。


主権者である一個の国民が、
憲法の条文では保障されているにもかかわらず、
現実が、憲法理念どうりではなく、
どうしても堪(た)えられない現実の不条理を前に、
さまざまな犠牲をはらって勇気を持って立ち上がり、
「憲法訴訟」での勝利をつうじて、
はじめて獲得される「奮闘努力」の事例で、
ほんとうに多くの人びとに”知ってもらい”、
そうした先人たちへの感謝と敬意と同時に、
ひとつひとつ築かれてきた権利と、その汗を、
ぜったいに無駄にはしてはいけない、
という気持ちが、
一人でも多くの人に芽生えてほしい

というのが、
ここ最近のブログ記事の趣向であります。


《「憲法訴訟で獲得される権利》という、
先人からの有形無形の御厚情」(のひとつ)への
発見”や”気づき”は、
ありがたい先人たちへの感謝や敬意」と同時に、
いま自分が生きている現在への責任」意識
――御用政党生きづらく重くしようとする現在――や
先人からの御厚情のこれからの後世への相続の責任」意識をもたらすのではないか、と思
っております。

◇◇◇◇◇◇◇◇

『日本国憲法』施行して13年ほど経つ1960年

住友セメントという大企業に働く、
鈴木節子、という一人の女性が、
それまでの日本社会で成立していた
「結婚退職制度」という性差別的慣例的制度は、
違憲だ、として、憲法裁判を起こします。


もちろん、いま現在ですら、
たとえば、
パート・アルバイトの《
非正規細切れ雇用
フリーター資本主義と「合成の誤謬」(社会保障のために本当に必要な改革)

個人事業主》(――事業リスクなどを、すべて就労者に負わせる労働の請負化」の一形態――)雇用のもと、
シングルマザーの女性が悲鳴を上げているように、
日本の女性の立場は、
「男女平等」とはとても言えず
家事子育て長時間過重労働とで、
お子さんを残して過労死してもおかしくない現状
――
過労で身体を壊しても
社会保険の適用は無いので
休業補償のない国民保険に頼るしかないが、
身体故障で、即座に切り捨てられる
この悪循環
政策的に支援してきた
市場原理主義推進政党>の違憲非情さ――
(また若者や大人たちの「自殺化」や過労死」や
過労自殺化」や
ウツ病の社会問題化」をもたらす
雇用融解政策)》)
などを、
男女平等や生存権や社会的人権など、
日本国憲法制定に向けての草案作成に携わった
ベアテ・シロタ・ゴードン女史は、
天国で“すすり泣き”ながら、
この日本の惨状を見ているかもしれませんが、
しかし、それでも1960年代まで
結婚退職制度」という“形ある性差別制度”が、
女性/オフィス・レディ(OL)>の前に
立ちはだかっていたのでした。


結婚退職制度」という慣例的制度は、
”結婚する、または結婚しないとしても、
何年以上努めると女性
いずれにしても会社を退職しなければならない
という《第14条》等に違反する「性差別的な制度」が、
日本社会の慣例として成り立っていたようです
――そうした性差別構造の残滓は、
いまだに根づよく残存しているはずです――。



“住友セメントという大企業に働く女性鈴木節子
この差別の不当を訴えて裁判を起こしたのです。
鈴木節子は一九六〇年に正規従業員になる際に、
「結婚するか、または満三五歳に達したときは退職する」
という念書を求められて会社にさしだしていました。
しかし、会社で働く中で、ある男性と結婚をすることになりました。
損度案性も住友セメントの社員でした。
そして結婚をしたときに、会社は
「約束どおりあなたはお辞めください」といって六四年三月、
解雇の通知をしてきました。

しかし、鈴木はそれまでの会社の女性のように、
泣く泣く会社を辞めるという道を拒否して、
会社を相手どって、結婚退職制度は
憲法一四条の「法の下の平等」に違反する、と主張して
裁判を起こした
のです。

 ・・・・・一九六六年一二月に東京地方裁判所は、
結婚退職制度について憲法上の判断を行い、
鈴木の主張を認めました。
住友セメントは、
高等裁判所に控訴することを諦めざるをえませんでした。
高等裁判所に訴えても勝てないだろうということで、
この裁判はそこで確定をしたわけです。
・・・・憲法一四条は黙っていては、
日本社会から自動的に差別をなくすことはできませんが、
鈴木節子のように立ち上がった場合には、大きな力を発揮し
たのです。

 裁判の結果、いったいどうなったのでしょうか。
鈴木の主張は認められました。
しかし、鈴木は結局、会社で働き続けることはできず
退職せざるをえませんでした

一九六四年から一九六六年まで、
もし働いていたとすればもらえたであろう賃金を、
会社から受け取って辞めざるをえなかったのです。
なぜなら、その会社を相手取って裁判を起こしたので
勝ったからといって会社で働き続けにくくなったからです。
したがって、会社に勝って鈴木は働く権利を獲得したけれど
会社に戻ることは出来なかった
のです。


《裁判と判決はどういう力を持ったのか?》


ではいったい、この裁判には、どういう効果があったのでしょうか。
鈴木には、骨折り損、なんの効果もなかったのではないでしょうか。
そんなことはありませんでした。
大きな成果があった
のです。

 第一に、
住友セメント会社は結婚退職制度を廃止せざるをえませんでした。
その結果、鈴木の後に続く多くの女性たちは、
結婚しても働き続ける権利を
住友セメント会社においては獲得することができました。

 第二番目に
住友セメントだけでなく、他の大企業でも、結婚退職制度という
あからさまな差別的制度の取りやめを
検討せざるをえなくなったことです。
労働省が、
住友セメント会社の結婚退職制度に対する判決を踏まえた上で、
多くの大企業に対して結婚退職制度を取りやめるように
という行政指導を行ったからです。

 さらに、第三に、この裁判の結果は、
他の多くの女性に、憲法を武器に
差別に反対して立ち上がる勇気を与えました。
鈴木の後に続いて、
同じような結婚退職制や若年定年制に対して闘う、
また新手の差別に反対して立ち上がる女性たちが次々に現れました。
結婚退職に関してだけでも
たくさんの女性たちが後に続きました。
豊国産業事件(一九六七年九月、神戸地裁判決)、
神戸野田奨学会事件(一九六八年三月、神戸地裁判決)、
茂原市役所事件(一九六八年五月、千葉地裁判決)、
山一証券事件(一九七〇年八月、名古屋地裁)などです。

 さらに、結婚退職にとどまらず、女性たちの闘いは広がりました。
結婚退職制度は違憲だという判断が出たことに勇気をえて、
では、女性の三五歳定年制はどうなのか?
男性が五五歳、女性が五〇歳という差別定年制はどうなのか?
という具合です。
現に多くの大企業は、結婚退職制度をやめて
今度は差別定年制に切り替えるようになっていました
黙って、平等な、働く権利を認めたわけではありません。
それに対するさまざまな裁判が、
他の女性たちから起こされたのです。


《日産自動車差別定年制違憲裁判》


なかでも大きな影響力を持ったのは、
日産自動車という巨大な自動車会社で働いた中本ミヨが、
男性五五歳 女性五〇歳という五歳の差別定年は
憲法上の権利を侵害している、
と主張して起こした裁判でした。
住友セメント事件と違って、道ははるかに困難でした。
そもそも、この裁判の原告となった中本は、
それまで「普通に」働いて定年を迎えたわけではありませんでした。
彼女は、日産自動車と合併する前の富士産業で、
組合活動の故に企業活動の故に企業整備を名目に首切りにあい、
それに抗して裁判闘争を行って復職を勝ち取った経験を持っていました。
富士産業は、一九五四年プリンス自動車と合併しプリンス自動車となり、
さらに、一九六五年、今度は、日産と合併しました。
中本は、プリンス自動車の労働者の属していた全金プリンス労組からの、
会社と日産労組の一体となった暴力による脱退工作と戦う中で、
日産自動車の差別定年制にひっかかったのです。
プリンス自動車と異なり日産は、
男子五五歳、女子五〇歳の差別定年制をとっており、
中本は六九年一月に五〇歳定年制に引っかかったのです。

 まず、中本ミヨは、会社を相手取って仮処分の申し立てを行い、
仮の地位を確保しようとしました。
ところが、裁判所は、なんと一審、二審とも、中本の申し立てを認めなかったのです。
仮処分二審判決に至っては、会社側の言い分を入れて
すごいことを判示していました。

「一般的に見て女子の生理的水準は男子おとり、
女子五五歳のそれに匹敵する男子の年齢は七〇歳位と見られる」
「女子従業員は
勤続年数を重ねても企業への貢献度は男子ほど向上していない」
というのです。

 これに勢いを得て、日産は、本裁判では、
一審の東京地裁、二審の東京高裁判決が、
いずれも差別定年制が一四条に違反すると判決したにもかかわらず、

最高裁まで争うことを止めませんした。
その結果、裁判は

ついに最高裁にまでもつれ込みました。

 しかし、ついに一九八一年最高裁判所
日産自動車の上告を退けて
五年の定年差別憲法上の制による差別に当たる
という判断を下しました

 この中本ミヨも、判決を勝ち取ったときすでに六二歳でした
実は、日産自動車は、中本の裁判を受けて、企業イメージにかかわると思ったか、
一審判決直後の七三年には、男性を六〇歳に女性定年を五五歳に引き上げ
さらに二審判決直後の七九年四月にさかのぼって、女子定年を五年延長して
男女とも六〇歳にしていました

中本が裁判で求めていた差別定年制の解消を
会社側は事実上飲んでいたのです。
ですから、彼女もついに職場には戻れませんでした
しかし、この最高裁判決は大きな影響を社会に与えました。

 この判決のあと、労働省は、一斉に全国の大企業に対して
こうした差別定年制度違憲だから是正せよという行政指導
行いました。
“もし おたくの会社で
これ以降も続けるようなことがあると裁判で勝つことはできないであろう
企業に対するイメージを侵害することになるから
大企業については少なくとも変えるように”ということで、
少なくとも八〇〇〇社の大企業次々に差別定年を是正する
という処置をを取らざるをえませんでした


《憲法は立ち上がらない多くの人の権利を前身させる》


 このように、一人の市民、あるいは何人かの市民たち
憲法を武器にして立ち上がり闘い取った権利
社会的に多くの市民たちのものになっていくということです。
個人としては鈴木中本も、会社を辞めざるをえませんでしたけれども
しかし、それは、
以後の日本社会で多くの女性の差別の撤廃に大きな力を発揮したのです。

 憲法の力として、こうい点を私たちはみていく必要があります。
市民たちの運動と結合したときに
憲法現実を変えるのに大きな力を発揮するのです。”
(渡辺治 『憲法9条と25条・その力と可能性』 P.26-31)


いまになって自分は、
《日本国憲法》の本分を発見している有り様で、
すくなくとも自分には言えるのですが、
たぶん日本国民の多くの方は、
たぶん憲法を蔑(ないがし)ろにしてきたはずです。



でも、なぜ日本国民の多くは、
憲法の本分を知らず、
活用して来なかったのでしょうか?


この疑問は、
革新政党>が政権獲得することなく
保守政党>が、
38年間も政権を獲得してきたことと、
無関係ではないようです。

そして、この問いは、
日本に、
何故アホほど原発が林立するに至ったか
という疑問の答えになるかもしれません。


強権的な改憲派の岸信介政権が、
「安保改定批准」の強行のために、
国民の強い「安保反対運動」を受けて退陣し、
そうした国民の強い反対を受けて、
池田勇人政権以降は、
<与党>も<企業>も、
”従業員や労働組合と対立するのではなく
”従業員や労働組合を取り込む”戦略に、
方針転換したのでした。


憲法が保障する代わり
企業への忠誠」と「保守与党への票の献上」の
見返り”として、
企業社会》は、
終身雇用」慣行のもと、

正社員とその家族を面倒を見る
あるいは<非サラリーマン>は
票を保守与党に差し出す」”見返り”に
利益誘導型政治の恩恵に与する
という、
国民抱え込み政治」のもと
(共産党支持者は、出世から外されるので、
このときに”根拠ない「左派支持回避」意識が
形成されたのでは?)
55年体制》の戦後の安定的な政治経済社会
展開されてきたようで、
そうした《企業社会と繋がった利権誘導型政治》では、
<「企業への忠誠」“でこそ安泰であった
サラリーマン>や
<「保守政党への支持」で仕事を得ていた事業者>は、
軍需産業というビッグビジネスを、
直接には展開してこなかった日本では、
電気事業法という法律に基く「総括原価方式」と
国策保護」のもと、>
原発事業」という”巨額”で
裾野の広いビッグビジネス”に、
異を唱えることは難しかったのではないでしょうか。
<参考記事>
<原発ビジネスとマスコミ>
国会事故調メンバー 田中三彦さんのお話「原発メーカーの責任

そして1990年代に入り、
バブル経済の崩壊の一方で、
日米構造協議』などを受けて、
企業が、グローバル化世界に放り込まれて、
企業社会」を辞めた途端に、
憲法保障」を、
国民規模で構築してこなかった日本国民には、
社会保障や雇用など、福祉難民経済難民
一気に発生ようになり、
今日に至っているのではないでしょうか?

企業への忠誠」のもとで獲得された、
Made In Japan”の”karoushi過労死)”よろしく、
長時間過重労働」が、
日本の「国際競争力」の”源泉”だったが、
終身雇用ではなく、
企業が”使い捨てるようになった昨今では、
企業社会文化」の余韻が、
中高年の意識に残っているいまでは、
せっかく育てた我が子を、
単なる”使い捨て過労死使い捨て過労自殺
企業/社会に、
送り出すようになってしまっているかもしれません。

『日本国憲法』が”塩漬け”にされてきた一方で、
戦後の多くの人びと原告者・弁護人・支援者)の
憲法に則した権利獲得」の恩恵を受けつつ、
いま現在としての歴史」の上に、
私たちは立っているのではないでしょうか。

この「いま現在」というのが
原発&放射能問題」「TPPの危機
改憲の危機」「暮らしの危機」という、
ショック・ドクトリン」と言いたくなるほど
アホほどある、バカでかい争点」に迫られた
今日なのであります。


TPPなどに盛り込まれている
ISD条項》や《非関税障壁の撤廃
グローバル企業支援型軍事国家のための改憲》に、
努力奮闘してきた先輩がたが獲得した権利」や
現在および将来の国民に対しても
保証される基本的権利
」を、
蹂躙(じゅうりん)されていいはずがありません。

―――――――――――――――――――――――――――
樋口陽一『四訂 憲法入門』
「権利保障と権力分立---その具体的なあり方の変遷」より。

《一九世紀型立憲主義と二〇世紀型》


個人の尊厳を前提とした権利保障と権力分立が

近代憲法の不可欠の要素であるとして、
その内容は、時代とともに違ったありよう
を見せてくれる。
その点で、日本国憲法前文が
「恐怖と欠乏から免れ、 平和のうちに生存する権利を有する」
とのべているのは、 示唆的である。
この表現は、一九九四一年の大西憲章の文言に対応しているが、
いま、日本国憲法の内部に即したかたちで
その意味を再解釈するならば、
恐怖から免れる自由は、
一七八九年宣言によって掲げられた 古典的な自由権であり、
一九世紀先進諸国の実定法制のなかで、
「国家からの自由」として追求される。
欠乏からの免れる権利は、
国家の介入を求めることによって確保しようとする社会的権利であり、
二〇世紀憲法の課題とされる。

この方向性を打ち出した憲法市場の原型ともいうべきものは、
第一次世界大戦後のワイマール憲法(一九一九年)であった。
そして、平和のうちに生存する権利は、
二度にわたる大戦の惨禍を経験した人類が、
いままさに模索している新しい権利―――それがなくては、
自由権も社会権も そもそも無意味になってしまうほど基本的なもの―――ということができる。
自由権や社会権は、それぞれ、まず宣言され、
つぎに段階を追って裁判的手続きで確保されるものとして
―――この点で自由権と社会権の間では
いまなお大きな差があるとしても―――展開してきた。
平和的生存権は、 その権利としての成熟度はまだ低いとしても、
自由権=一八・一九世紀以来の権利、
社会権=二〇世紀の権利に対し、
二一世紀の権利の先どりとしての可能性をはらむものとして、
とらえることができる。

(同書 P.8-9)

”ドイツにとって
はじめての徹底した自由主義・民主主義を掲げると同時に、
世界に先駆けて社会的権利の思想を憲法にとりいれた
ワイマール憲法のもとで、この憲法を
敗戦によって押しつけられた屈辱的な憲法」として攻撃する
ヒトラーのナチス
が、
なぜ選挙を通して政権を獲得する前になったのか?
これは、過去の問題ではないだろう。

(同書 P.10)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

宮本常一『日本の村・海をひらいた人々』(ちくま文庫 P.11-21)より、
以下に引用。


私はひろく日本中をあるきまわって、
いろいろのことを学びましたが、それによって
、この上もなくこの国土を愛するようになりました。
 日本という国はよく大きな地震があったり、
大きな風が吹いたり、雨がふったり、また、ききんがあったりして、
人々はそのたびにいためつけられることが多いのですが、
そのようなこんなんにもまけないで、
貧乏なくらしのなかに、はげしくはたらきつつ、
時には失望もし、あらそいもし、
また、人をおとしいれるようなことをしつつも、
この世を少しづつ住みよいものにしてきました。
私はそれをとうとうものに思います。

 ひとり歩いていて、
まったく人手のくわわっていない風景に出あうことがあります。
海岸に波のうちあっている所とか、
山の中の木のしげっている所とか、
または川のほとりなどですが、
そういう風景は何となく心をさびしくさせます。
しかし、人手のくわわっている風景は、
どんなにわずかにくわわっていても、心をあたたくするものです。
海岸の松原、街道のなみ木みちをはじめ、植林された山もまた、
なつかしい美しさを持っています。
そうした所に見出す一本のみちも、こころをあたためてくれるものです。

 そのような風景はよく考えて見ると、
この世をすこしでも住みやすくしよう、と努力して
つくられたものなのです。
自然にくわえた工事というものは、
われわれの生活を不利にするためのものは一つもないのです。
そこには、おのずから人々のあたたかい心が
あらわれているのです。

 ここ[
『日本の村・海をひらいた人々』]には、
そのような私たちの心をあたためてくれるものを見てゆきたい
と思います。

 しかもそうしたものは、有名な人のした事業は いたってすくないのです。
多くは、私たちのように、平凡な人々のしごとだったのです。

 みなさんも、みなさんのふるさとをよく見まもり、
また旅行などによって、いろいろのことをまなぶとともに、
私たちの祖先のしてきた努力に気づき、
また私たちがどうすればよいかを考えてほしいものです。”

※ 戦後の政-官-財のバラマキ利権政治によるハコモノは除く。
※2 ただし、戦後の「バラマキ国内利権政治」から、

1990年代後半以降の《「グローバル経済」のための政-官-財コーポラティズム利権政治》への移行に際して展開される「ハコモノ政治」批判に注意されたし。
――――――――――――――――――――――――
《第97条》 
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、
人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、
これらの権利は、
過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、
侵すことのできない永久の権利として信託されたもの
である。
――――――――――――――――――
※ この一連ブログ記事は、
渡辺治『憲法9条と25条・その力と可能性』に
大きく負っています。

比例代表区は、
政党名を書くよりも、
比例代表の立候補者名を・・!
でも、
”政党名と候補名を一緒に書くと、
「無効票になる」ようなので、
政党名か候補者名か
どちらかを書いてね!”
とNPJファン勝手連さんの
ブログで、
はじめて知りました。

まだ投票していなくて
良かった

でも、
投票時間の”切り上げ”にも
気をつけよう~っと。