憲法は、現状を変えようと立ち上がった時に、初めて武器になる(4)~朝日茂「人間裁判」【後半】~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


朝日茂氏が、
憲法25条》の「生存権」保障を問う「憲法訴訟」を
起こすキッカケとなったのは、
音信不通だった次兄をわざわざ捜し出し
”栄養費の足しにでも”と善意で、
次兄から仕送られた1500円を
岡山県の社会福祉課が、
それまで朝日茂に支給されていた生活扶助費のうち、
月々600円の日用品を打ち切り
さらに残りの900円を、
医療費の自己負担分に充当する措置を
生活保護費の削減のために逆用した処置
怒ったことに端を発するようです。



しかし

第25条》の「生存権保障を問うような裁判
起こすことは、
当時では、”あまりにも非現実的だ”とか
無茶な話だ”として、
いくつもの反対意見消極的意見
出たのでした。

いくつもの反対意見消極的意見出たのは、
朝日茂氏が組織した
患者自治会」や「日本患者同盟内部からでした。


朝日茂氏は、
戦時中
でから重度の結核患者として
国立岡山療養所で療養を余儀なくされていましたが、
戦後になると、患者の生活を守るべく、
いち早く患者自治会をつくり、
また、結核患者の団体である日本患者同盟をつくり、
その運動のために、
病気をおしてでも、全国を駆け回っていました。



浅沼判決を生んだ・・・・

”第一の要因は、この裁判を起こした朝日茂のがんばりでした。
憲法を実現するには、立ち上がる個人の力がいかに大きいかを
示すものです。
(引用者中略)

 彼は、
県の社会福祉課が、生活保護費の削減のために次兄を探しだし、
次兄からの仕送りを生活保護費削減に充てた処置に怒り、
国を相手取った裁判を決意しますが、
当時、こうした裁判を起こすことには、
いくつもの反対や消極的意見がありました。

まず、療養所の同僚の中にも、
こんな裁判を起こしても、今の日本の裁判所が、
朝日さんの言うことを受け付けてくれるはずがない。
「これは無理だ。
もし裁判所で負けてしまったら
『それ見ろ、こういうものは裁判でも正当だと言われています。』
となって、かえって生活保護法の支給が制限されるんじゃないか、
そもそも、国を相手取って裁判など起こしたら
仕返しにどんなひどい仕打ちを受けるか分からない」ということで、
朝日に
「裁判をやらないでくれ。
あなたはそれで満足するかもしれないけれども、
ほかの人が迷惑する。他の人がいじめられる」
と反対する声がありました。
 日患同盟も
すんなり朝日の支援に踏み切ったわけではありませんでした。
消極論は主として運動論上のものでした。
国家相手の裁判では勝つはずがないし、
処遇の改善は、
現地の福祉事務所を相手に大衆運動で勝ち取るべきだ、
というものでした。
二五条を武器に裁判に訴えるという発想自身は、
あくまで朝日のものでした。
朝日茂がいなければ二五条の現実化はもっと遅れたといえます。


《患者運動と弁護士たちが明らかにした事実の力》

 浅沼判決を生んだ第二の原因は、朝日の訴えを受けて、
日患同盟や全日自労、全国生活と健康を守る会などが、
一貫して朝日の裁判運動を担ったことでした。
こうした運動が全国の結核患者や生活保護の受給者に、
朝日の裁判運動の存在を知らせ、運動を励ましただけでなく、
裁判に必要なデータなどの収集にも大きな役割を果たしました。

 もう一つは、運動体と並んで、
朝日訴訟にかかわった弁護士たちの活躍も見逃せません。
実は、朝日訴訟の出発に当たっては、
これを引き受ける弁護士がいなくて、大きな困難を抱えました。
先に見たような、
二五条を理想とみるような解釈が支配的だった中で、
朝日の訴えは、法律専門家にとっては、
「無謀な」試みでした。
日患同盟が最初に相談した社会党代議士で
戦前からの弁護士であり社会運動の重鎮の猪俣浩三が、
「行政訴訟としての勝ち目は少ない」と断言したように、
弁護士でこの事件を引き受けようという弁護士はいませんでした。
「権威ある弁護士は皆断られてしまった」。
そういう中で、
社会党法律相談部の鎌形寛之、新井章などの若手弁護士が、
朝日の主張を法律的に構成しながら、
裁判闘争に取り組むことになります。
すでにふれたように、彼らは一方で砂川闘争や恵庭、長沼裁判など
九条をめぐる運動や裁判に加わっていたことも注目されます。
彼ら若手弁護士の憲法解釈も大きな力となって、
東京地方裁判所の判事たちに影響を与えたのです。

 とくに、弁護士たちは、朝日のいる岡山の療養所と東京を往復し、
精力的に訴訟の準備を進め、大量の証拠と証人を準備して、
裁判で生活保護の実態を明らかにしようとします。
そうした緻密な活動の中で、生活保護の反憲法的実体が
明らかになったのです。

 その典型例が、第八回公判で現われました。
第八回公判に、原告側は、
医療ケースワーカーとしての経験も豊富な児島美都子が証言に立ち、
厚生省側の決めた月々六〇〇円という額では
必要なものが全く充足できないことを実証的に明らかにしました。
厚生省の基準では ちり紙 月一束ということになっているが、
これでは痰や喀血の多い結核患者はとうてい足りず、
彼女自身の調査では患者平均月三・三一束使っていることをはじめ、
詳細な実態が明らかにされました。
それに対して、被告側の末高証言は、対照的なずさんさで、
厚生省のいい加減な態度が浮き彫りになったのです。
ちなみに、末高信は、著名な社会保障学者で、
社会保障制度審議会の副委員長を歴任した大御所でした。
彼は、まず生活保護基準は
国により、時代により変わってこざるをえず、
その時代の「国民経済の生産力」や「国民の生活感情を」織り込んで
考えざるをえないと、厚生省の言い分を代弁する発言をしたあと、
日用品費六〇〇円が「健康で文化的な最低限」を確保しているか
という問題に踏み込みました。
(引用者中略)
こうした、なんの裏づけもない国側[=末高信]証言は、
緻密な原告側の証言との対比をさらに浮き彫りにしたのです。

 さらに、若手弁護士たちは、
東京地裁に再三申請して、ついに五十九年六月一五日、
岡山の療養所での朝日茂本人らへの出張尋問も実現しました。
これが裁判官に深い感銘を与えたのです。


《憲法を具体化する判決の勇気》

 浅沼判決を生んだ第三の要因は、・・・・砂川判決ほか、
この五〇年代後半には運動に鼓舞されて、
憲法に規定された人権を侵害する様々な法令を違憲とする判決が
下級審で次々現れたことがあげられます。
一九五四年には、
憲法擁護と平和と民主主義の実現に尽力する法律家をめざして
「青年法律家協会」がつくられ活発な活動を展開しましたが、
これら判決を出した判事たちの中にも、青法協メンバーがいました。
これら判決が、おそらく、
朝日訴訟の担当判事たちに憲法判断を恐れずにやる
という勇気を与えたのではないでしょうか。

 その一つは、・・・五九年三月の砂川事件一審で、
いわゆる伊達判決が出たことです。
これは、
安保条約改定反足し運動にも大きなインパクトを与えましたが、
朝日訴訟にも、
憲法判断に躊躇しないという先例と勇気を与えました。

 また、同じ頃、東京地裁では、
デモを厳しく規制している公安条例に対する規制に対して、
憲法二一条の表現の自由の価値を踏まえて、
これを違憲とする判断がでていました。
こうした下級審の公安条例違憲判決も、
市民たちのデモ行進の自由を拡大する上で
大きなインパクトを与えました。
最高裁は焦って、
六〇年には大法廷判決で公安条例の合憲性を宣言したのですが、
こうした下級審の動きをストップさせることはできませんでした。
ようやく裁判官の中にも憲法が浸透し始めていたのです。

 このような全国の裁判所の活発な動きも、
朝日訴訟の判事たちには大きな影響を与えたのです。


安保闘争が力に

浅沼判決を生み出した第四の、そして最大の要因は、
この裁判と並行して、安保改定反対運動は、いくつかの点で、
朝日裁判にも大きな力を与えたのです。

 一つは、安保闘争において実現した社共共闘が、
ここでも大きく作用して、朝日訴訟運動でも、社会党、共産党、
総評の統一した運動が実現したことです。
これが長期にわたる裁判闘争を支える原動力となりました。

 また、第二に、安保闘争で運動の主力を担った総評労働運動が、
社会保障の拡充をめざす朝日訴訟でも
大きな役割を果たしたことです。
総評は、朝日訴訟と安保改定を、
戦争と軍事大国化のための社会保障の削減であると、
一体の攻撃を捉えて、運動を組みました。
それを象徴する取り組みが59年に、
総評と全日自労が主催して行った「戦争と失業に反対する大行進」でした。

 また、この安保闘争の昂揚が、
朝日訴訟を担当する裁判官たちにも
大きな影響を与えたであろうことは推測に難しくありません。”
(渡辺治『憲法9条と25条・その力と可能性』 P.149-155)


この裁判は、
当時の生活保護の実態の詳細を、
公判を通して白日のもとに曝(さら)け出し
憲法25条》の
健康で文化的な最低限度の生活”と、
生活保護給付実態とが、いかにかけ離れているか
暴露したのでした。

療養所の同僚からの反対があり、
しかも過去の1948年の最高裁の判決で

あくまでも理想論”とされた《第25条》を問うた
朝日茂氏の勇気と、

「行政訴訟としての勝ち目は少ない」として、
権威ある弁護士には、ことごとく断られてしまうほど、弁護士で、
この訴訟を引き受けよう、
という弁護士がいなかったなか
憲法理念と平和と民主主義の実現を目指した
若手青年(青法協メンバー)たちの奮闘》、
そして「安保闘争」をキッカケに”共闘”が実現した
総評日本労働組合総評議会)>と
<旧社会党>と<共産党>との間の
統一した運動」の結果、
1960年10月に、
東京地方裁判所裁判長の浅沼武判事によって
下された第1審判決において、
当時の”生活保護基準は
憲法25条》に違反する
という《違憲判決》が下されることになったのでした。

しかも今日においても、
まことに興味深い裁決内容を下しています。


判決は、憲法でいう「健康で文化的な最低限度の生活」についても
重要な判断をしました
政府は、
この「最低限度」とは時々の情勢によって左右されるものであるから、
政府の裁量で決められる
[著名な社会保障学者の末高信などを国側証人として出廷させて]
主張していたのに対し、
判決は、一定の客観的基準があるとしたのです。
判決は、「健康で文化的な最低限度という一線を有する以上、論理的には・・・・一応客観的に決定することができる断定したのです。
しかも注目すべきことに、判決
二五条の言う「最低限度の生活」とは
現実の底辺層の生活そのもの解してはならない断言し
また、最低限度の水準
時々の国の予算を拘束する規範的意義を持っていることを
明らかにして
政府側の、「予算によって基準は変わらざるをえないという主張
退けたのです。

 この判決に、
ほぼすべてのマスコミは好意的な論評を行ないました。
政府は、これにたいし、ただちに控訴はしました
それにもかかわらず厚生大臣の決める保護基準
以後画期的と言っていいほど」の引き上げなされていったのです。”
(P.148)

厚生省側の控訴の第2審では、
生活保護の酷い実態を認めつつも、
違法までは言えない”として朝日茂の訴え退け
そして最高裁も、上告中の1964年2月に、
朝日茂氏の生命力が尽き果てて
逝去してしまいますが、
運動の盛り上がりを受けて、
1965年に最高裁は、
裁判を続けざるを続けざるをえなくなります。
しかし、、それでも1967年の最高裁判決は、
「朝日茂の死亡により裁判は終結した」として
決着をつけて訴訟継続を否定した上で、
25条の法的権利性否定する見解を付して、
東京地裁の第1審の浅沼判決
全面否定してみせたのでした。
――朝日茂氏が他界する直前に、
急きょ養子縁組をして養子となった朝日健二氏が、
「25条訴訟」闘争を
継承することになったにもかかわらず―――。

”憲法にいくらすばらしいことが書いてあっても、
黙っていては何の力にもならない”

(渡辺治『憲法9条と憲法25条・その力と可能性』 P.17)

”憲法にどんなにすばらしいことが書いてあっても、
私たちが黙って座っていては、
その憲法規範が 社会の中に貫徹し
規制力を発揮するということはない。”(同書P.18)

○”市民たちが憲法を武器にして立ち上がり、
その市民の憲法上の権利裁判などにおいて認められた場合に
まずは、その恩恵は、
憲法裁判に勝利した市民個人に与えられます。
しかし、実は、そこで確保された人権は、
単に立ち上がった市民だけでなく
立ち上がらなかった広範な人々にも及ぶ
のです”
(同書P.25)
立ち上がった成果は、立ち上がらなかった人々にも力を持つ"
(同書P.25)


ということを、かつて引用したことがあります。

この朝日茂氏が起こした憲法訴訟は、
25条を問うた訴訟でしたが、
立ち上がった原告者による権利獲得の奮闘
多くの支援者の応援・支援
支援した弁護士がたの努力
判事の”良心”との上に
その恩恵に預かっていること

つまり、いま与えられている権利
けっして当たり前ではない
(しかも、朝日茂氏本人は、
最高裁への上告中に逝去してしまっていて、
「《25条訴訟》は無謀だ」とさえ言われた)
――しかし、御用議員たちよって
歪められ続けている基本的権利―――
この朝日茂氏の「25条訴訟」を通じて、
すこしでも気づいてもらいたく

まずは、この引用記事を書かせていただきました。


そうして戦後、<さまざまな方>が、
現状憲法理念のほうに改善すべく、立ち上がり
弁護士さん支援者がたと、
ひとつひとつ獲得してきた権利
改憲》勢力が、
ひっくり返して破り捨てようとしています。

これを知っても、黙っていられるとしたら、
あまりにも冷たいとは思いませんでしょうか?


無数の人々の「努力」「葛藤」「奮闘
道義」「良心」など
熱意と葛藤と汗の結晶」が
踏みつぶされてしまうのは、
あまりにも見るに堪えません。


次回も、憲法裁判で確保された人権が、
単に立ち上がった市民だけでなく、
立ち上がらなかった広範な人々にも及び、
今日の私たちは、
”《憲法理念》が「戦後の自民党政治」のもと、
憲法明文改悪」が一度もなくても
歪められ続けてきた”とはいっても、
それでも、
立ち上がった憲法訴訟者による権利獲得」の
恩恵の上にある事例を、
発見してみたいと思います。



(つづく)


追申
詭弁、弄弁、都合のいいウソばかりを吐く
改憲勢力》たちは、
一度も改憲が無いのは日本ぐらいだ
みたいなことを言うが、
逆に、私たち日本国民が一般的に
憲痴な国民ではなく、
憲法が何のためにあり、
憲法に沿って政治をしているか、
憲法が保障する権利が、
国民に実現されているかどうか、
日本国民が全体的に熱心ならば
自民党が、与党どころか、
有力政党として存続しているなんて、
まず考えられないのではないでしょうか?


というのも、
私たち日本国民一般の「憲痴」と
戦後の自民党政治」とは、きっと不可分であるはずで、
鳩山一郎岸信介の”改憲失敗以後の、
池田勇人以降の明文改憲消極姿勢でも、
憲法を塩漬けにする形でも、
憲法を蔑ろにしてきたから、
言いかえれば、
自民党政治により、日本国民が一般的に、
憲法に、生活権などを求めずに来たからこそ、日本国民の憲法への「理解」も「関心」も薄く、そして「改憲関心」が”皆無に近かく”、
憲法改正への国民のなかでの議論・要請」も、
起こらなかった、とボクは思うようになりました。
それは、自民党が、「55年体制を維持し
38年間も与党であり続けたことと
関係していると思われます。

38年間も、憲法を無視しておいて
改憲が一度もないのはオカシイ」とは、
あまりにも虫が良すぎると思われますが、
「愛国心」という仮面や隠れ蓑や着物を剥ぎ取れば、
人間的にサイテーの単なる「売国奴」でしかない
政治家たちや御用識者の、
その言動や思考回路を推し量れば、
いまさら不思議でも何でもないか。


<参考記事>
日本国憲法/憲法改悪の狙いの記事(17件)


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