4/16鶉長良神社例大祭参列→館林総鎮守長良神社→恩林寺参拝後、向かったのは同じ邑楽町の浮島弁財天がある多々良沼公園へ

鳥居

藤棚の藤は満開です

浮島辨財尊天由来 
抑 当社は鎌倉幕府没落の時 執権北条高時の弟四郎慧性が、或る夜日頃崇拝する江の島弁財天が夢枕に立ち「汝等の池 上毛の郷に霊地あり、其処え逃れて居住なし、北条家の再興を図るべし」とのお告げに従い、弟荒間五郎友春と重臣三名を伴い主従五名にて多々良沼に辿りつき、恩林寺を建て東林友丘和尚を開山として北条家の菩提寺となし、北条家代々の護り神たる江の島弁財天を恩林寺開山東林大和尚に懇請して勧請し鎮守として建立したものである。
恩林寺縁起より

狛犬


拝殿

本殿



5/5はお祭りがあったみたいですね
浮島弁財天祭礼は毎年春と秋に行われ氏子さんにより恩林寺から御神体の弁財天(だったはず)が運ばれ、当日のみ御開帳されます
御朱印は恩林寺で頂けます

多々良沼公園に来たのは藤を見るのが目的でした

浮島弁財天へ向かう途中には数百メートルの藤棚があります


シャクナゲ

葉っぱの間に桜が咲いてました

藤棚の手前には鶉古城跡の案内板があります

鶉古城は、多々良沼に突き出た半島状の台地を利用した城です。鎌倉後期の宝筐印搭の一部や室町期の五輪塔、板碑などが残っています。鎌倉末期、北条高時の弟僧慧性(えしょう)とその弟荒間朝春(ともはる)が城を築き、その後、多々良忠致(ただむね)の居城となり、戦国時代には小曽根玄番允正好(げんばのじょうまさよし)が城主でしたが、天正18年(1590)廃城となりました。

そして案内板近くには祠があります

土塁や空堀があります
子供の頃から祖父母やご近所さんは、浮島弁財天の事を『弁天様』と呼んでいました
同級生たちも釣りに行くときなど『弁天に行く』と皆言っていたので、ここの浮島弁財天は昔から地域に愛されていたと思います

例大祭に参列した鶉長良神社も『長良様』と呼ばれ地域を納めていた城主に金の鶉を納めたという話が残っているそうです
それがこの鶉古城の城主だったのか、鶉長良神社近くの茂木館の主だったのかは不明ですが金の鶉を納めた事で地名が鶉になったという予想は出来ますね